高橋 久美子

第15回
ロンドン【後編】

エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調、また絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。

 【前回のあらすじ】
お盆に帰省中、大学時代の彼氏・卓也とばったり再会した美月。
一緒に食事に出かけたが、そこで卓也の同級生達と遭遇する。
昨年までロンドンに行っていたはずの卓也だが――。

 

 卓也は言い訳を準備し忘れていたようだ。同じ市内のましてやお盆に、同級生から逃げ切れるとでも思ったのだろうか。甘い。甘すぎる。そういうところに昔からイライラしていたのだと思い出した。
「おいおい。まだロンドンで騙してるのかい原田くーん。悪い男だよねえ」
 四人は大笑いすると、あとは想像した通りの話をしてくれた。だんだんとどうでもよくなってきた。
「じゃ、もうみんなで飲みますか!」
 美月はそう言って、ついたてを外させると六人で飲み始めた。こういうときの自分の行動力はいつもどうかしているなと思うが、居直って二人で飲み始める勇気も、慰めてあげられるほどの包容力もなかった。
 卓也がロンドンに行くと言い出したときも、引き止めた記憶も話し合った記憶もない。何のための留学なのか、別れることになるのか、はたまた待っているのか、全部置き去りのままで流れに身を任せることにした。いや、そもそも天秤にかけるほど卓也に夢中でもなかった。
「みっちゃんは仕事は何してんの?」
 オバQが早々と下の名前を使いこなしてきた。
「東京の広告代理店で働いてます」
「おおー東京の広告代理店! できる女!」
「いや、でも普通に事務ですけどね」
「じゃあロンドンさんとは大学時代の友達ってわけだ」
「まあ、そうですね」
 ロンドンさんってなかなかいい名前じゃないか。どうやらオバQは部分的には空気を読めるらしく、どんどんと会話の波を作った。誰が頼んだのか、美味しいという伊勢海老の刺し身が二匹運ばれてきて、体は刻まれているのに皿の上でまだヒゲを動かしている。時折ギギギ、ギギギギギと、断末魔の叫びをあげて前に進もうとする。それを見て、「お前は既に死んでいる」とオバQが多分もう何十回も使っている持ちネタを披露する。全然笑えないし。半死の海老を目の前に気持ち悪くて食べられなかった。
「どうしたみっちゃん、食ってみ。ぷりっぷりで甘いよ」
 ラッパーふうが真ん中の身を取って美月の皿に入れた。魚や肉を甘みで表現するのも何か嫌だった。
「ロンドンには伊勢海老いたの? 昔の話で忘れたか。お前ってマジな話何年ロンドンにいたの?」
 波に乗ったオバQはもはや誰にも止められない。一人海原へ漕ぎ出したみたい。いたたまれないという顔でミーアキャット二匹が首をすくめた。
「大学三年の秋からだから、いち、に、二年かな」
 これもきっとサバを読んでるだろうから、まあ一年ってとこだろう。ロブスターは食べるけどさすがに伊勢海老はいないよと笑ってみせた。既に罪悪感は消え失せて、ライブハウスへ入り浸っていた話や、イギリス人は雨でも傘をささない話、飯が不味すぎて帰ってきたんだなどと自慢げに話し始めた。休学中だった大学に戻って卒業した後はこっちで就職して土日は俺らと遊んでるんだとオバQが付け加えたが、どれもこれも正直どーでもよかった。ちっとも面白くない映画を見せられているみたい。オチはどこにある? ま、どうせ明日には東京に帰って全部忘れるのだからいいか。
「二人はあれですよね。大学時代付き合ってたんですよね?」
 眼鏡のミーアキャットが初めて口を開いた。
「いや、俺ら邪魔じゃないかなって気になってて」
 彼は比較的まともな人間らしかった。だが一時間も経った後に気を使われても仕方ない。むしろ今更おいていかれてもつらすぎる。隙をみてこっちがおいとましたいくらいだ。
 男たちが帰るだ帰らねーだと揉めている中、伊勢海老はまだ鳴いている。飛び出した目ン玉が更に飛び出すような声の絞り方だ。取り皿に入れられた身を口に運ぶ。伊勢海老は口の中で確かにぷりぷりとねとねとを繰り返しただただ生身であった。言われた通り、うまかったのだろう。二切れ、三切れと本人に睨まれながら食べた。自分には睨みかえす勇気もなければ、ごめんよ、と思う優しさもなかった。怪奇現象を目の前にして、味わわないように飲み込んだ。胃袋の中で分解されて、小腸で吸収されていくのが美月には想像できる。ただ他の生物の体が自分の中で別のものに変換されて、自分になっていくのが怖い。なるべく自分に備わったものだけでいたい。つき合う理由も、ロンドンへ行った男との別れも、東京で溢れそうな仕事をこなす日々も、いつだって自分にとっては大きな興味の対象ではなかった。流れに沿って生きるだけでお腹はいっぱいだ。どうしてみんなこんなに欲深いのだろう。ロンドンへ留学したくて、旦那の悪口を言いたくて、生きたまま伊勢海老が食べたくて、いつも腹ペコで餓死寸前で周りばかりぎょろぎょろ見て。空っぽな癖に、そんなに手を伸ばすから怪我をするんだ。降ってきたものだけを受け取ればいいのに。
「俺たち、行きますよ」
 ミーアキャット二匹が、オバQとラッパーを無理やり連れ出すと、空間の均衡が崩れて、一気に居心地の悪い座敷になってしまった。ますます伊勢海老との距離が近くなったように感じられる。頭だけになった赤い物体のヒゲがまだかすかに揺れているが、それがクーラーの風のせいなのか、自力で動こうとしているからなのかは分からなかった。

 料理も酒も丁度なくなったので二人は会計を済ませて外に出た。商店街は黄色い提灯が揺れて、とても気持ちのいい盆の夜だった。言葉もなく古びた街を歩き始めた。こんな風に、語り合わずに並んで歩くだけなら気持ちいいのに。
 シャッター街になった薄暗いアーケードに一箇所だけスポットライトがついている。近づいてみるとショーウィンドーの中で純白のドレスが輝いていた。この街に残り、こういうのに憧れる女子になれていたら楽だったろうか。欲張りなのは自分の方かもしれないと思った。
「伊勢海老、今日のはイマイチだったかも。ごめんな。季節の関係とかあんのかもしんない。ははははっ」
 月が綺麗だった。言葉の群れは美月の頭二個分くらい後ろを流れてスーパーでかかっている変なアレンジの曲みたいに全くもって鼓膜を揺らさなかった。
「それに、急にあいつら来ちゃってごめん。迷惑だったよな」
 風が肩まで伸ばした髪をなでて、暑いけれど嫌な暑さではない。この男を除いては。どうやらこの男はまだ伊勢海老の隣にいるらしい。そして自分の犯した罪だけはちゃっかり忘れられる能力をもっているらしい。
「今まで誰も叱ってくれなかったんだね」
 心の声が体の外にまで漏れてしまって美月はハッとした。
「へ?」
「あ、いや、何でもないの。ごめんごめん独り言」
 薬局のカエルの頭をなでながら、笑ってみた。漏れた言葉は夜空を滑りブーメランのように自分の胸に刺さって抜けなかった。そうか、誰も叱ってくれなかった。ちゃかすのと叱るのは違う。それと同じように眺めるのと見つめ合うことも違っていた。

 商店街を抜けても行くあてはなく、二人はただなんとなく駅とは逆の方向に歩いていた。居酒屋の外のベンチに座った同級生らしい客達は懐かしそうな表情を浮かべて話し込んでいた。どこもかしこも思い出で溢れかえっている。卓也は、黙ったままで、多分次のチャンスを見定めている。
「美月はさ、彼氏いるの今?」
「え? いないけど……」
「なんかさ、今言うのもなんだけどさ、俺ってやっぱり美月のことが……」
ああ、懐かしい。こうだった、こんなだった。大学二年の夏、飲み会の帰り道こんな感じで「っぽい」ものが始まったんだった。
 あれ? もしかして、いつだってそうだったのではないか。次の人も次の人も「っぽい」感じで流れ込んできては決定打のないまま、いつの間にか潮の引くようにいなくなっていた。美月は誰とも見つめ合っていなかった。だから誰も叱ってくれなかった。叱り合う仲にはなれなかった。
 乾燥したビスケットを頬張っては喉が渇いて水を求めた。それは二人には行けない空想の世界の水だった。腐らないビスケットは楽だったし美味しくも不味くもなかった。伊勢海老のように睨んでくることも、生々しくもがくこともなくて、傷つかない代わりにいつまでたってもご馳走にはならなかった。でも自分なりのご馳走なんていくらでもあるじゃないか。誰かと共有しあわなくたって平気だ。みんなはどうして、もっと美味しい、もっと豪華なご馳走を求めたがるんだろう。すぐに他人と共感したがって、そのくせすぐに飽きて放り投げて。結局ご馳走だって食べてしまえばおしまいなんだ。美しいときにだけ手を取り、あとは遠くで眺めればいいではないか。夜と月のように。
「俺の悩みっていうか、闇をそのままにしてくれたのは美月だけでさ……もし遠恋になっても今ならお互いに大人になったからちゃんと向き合える気がするんだ。だから付き合ってほしいんだ。もう一度。それで……良ければ結婚してほしいって思ってる。こないだ再会したときからずっと考えてたんだ」
 その手には過去しか持ってないくせに、未来を語りたがって。ビスケットならビスケットらしく軽くサクサクと笑っていてくれ。うっかり本気と見間違いそうな上等の嘘をつかないでくれ。それっぽい大人になどなろうとしないでくれ。
「いいよ」
「ほんとに! 美月、俺嬉しい、はははっ。今度こそは大切にするよ。どこにもいかない。そばにいる。毎日ラインするし、電話もするよ。それで時がきたら、こっちに帰ってきてくれないかな」
 しばらくの沈黙のあと、美月は卓也の顔をじっと見つめて言った。
「うん、いいよ。でもね、昨日、人事異動の連絡がきて。私コートジボワールの支店に三年間いくことになったんだ。」
「コート……ジボワール……」
「それでも良ければ、結婚しよう。ふふふっ」
「……」
 あんぐりと口を開けた卓也を置いて、さっきまで二人で歩いた道を踏み潰すように美月は駅へ向かった。うなじや額のあたりから汗が吹き出て、唇のまわりを舐めると塩の味がした。それはもう息絶えただろう伊勢海老が自分の体の一部になったからなんだと思った。

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