ちくま新書

「円」は本当に大丈夫か?

「ドル化」とは、日々の経済活動において、国内通貨のみならず米ドルなど信用力が高い外国通貨が使われる経済現象です。財政破綻を迎えた新興国においてその動きが顕著ですが、いまや「先進国最悪」の財政を抱える日本でも、日々の決裁を米ドルで行う日がやってくるかもしれません。 土田陽介『ドル化とは何か――日本で米ドルが使われる日』より、「はじめに」を公開いたします。

 2018年10月、米ドルは歴史的な高値を付けた。国際決済銀行(BIS)が公表する名目実効レート(ドルの総合的な価値を図るために、主要61か国の貿易量を考慮して算出した為替レート)は02年度の値を上回り、過度なドル高を是正すべく行われたプラザ合意(1985年)以来の高さを記録した(図序–1)。

 その背景にあるのは米国経済の長期的な強さだった。当時、実質経済成長率は3%近くまで上昇し、物価上昇率も中央銀行であるFRB(連邦準備制度理事会)が目標とする2%を超えていた。そうしたなかで、FRBは他の先進諸国に先駆けて利上げを開始し、2015年12月以降、金融政策を着実に引き締めてきた。

 この流れを好感し、世界中のマネーが米国に流入することになった。結果、米ドルの価値は歴史的な高値圏まで上昇したのである。19年に入るとFRBは、世界景気の減速などから当面の間は追加利上げを見送る可能性を示唆したが、さらにドル安志向が強いトランプ大統領の圧力に屈し、19年7月には10年ぶりとなる利下げを行った。
 しかし、トランプ大統領が中国をはじめとする各国に圧力をかければかけるほど、安全資産として米ドルは買われることになる。米国発の世界的な金融危機が再び生じでもしない限り、米ドルはしばらく歴史的な高値圏で推移するだろう。

 ところで、米ドルが歴史的な高値にあるということは、他の通貨の為替レートが下落したということでもある。とりわけ新興国の通貨の下落は深刻であり、いくつかの国、例えばロシアや南アフリカの通貨は大幅に下落し、本書がケーススタディとして扱うトルコとアルゼンチンは、為替レートの暴落によって通貨危機に陥った。
 為替レートが暴落すると一体何が起きるのか。まず海外への支払いに窮するため、輸入が滞るようになる。加えて輸入品の値段も上がり、消費も低迷する。1ドルが100円から200円になれば輸入品の価格は倍になり、消費者は買い控えるからだ。当然、景気は悪化してしまう。
 インパクトローン(外貨建てローン)を借りていれば、返済負担がいっきに重くなるだろう。1ドル100円のときに100万ドル(1億円)の融資を受けた場合、1ドルが200円になると、円で見た返済額はそのまま倍の2億円になる。返済負担が重くなれば消費や投資は手控えられ、やはり景気は悪化するのである。
 他方で、為替レートの暴落が競争力の改善につながり、輸出が増えるケースもある。1ドル100円のときに2万ドル(200万円)の新車 を輸出した場合、1ドルが200円に暴落すると、半額の1万ドルで支払いが済んでしまうからだ。ただこうしたメリットを受けることができる国は実はそう多くはない。

 さて、この歴史的なドル高を受けて、いわゆる「ドル化」と呼ばれる現象が新興国を中心に進んだ。ドル化とは、自国通貨と共に、米ドルなどの外国通貨を利用する経済現象である。一般的に新興国では、米ドル以外にもユーロや日本円といった先進国の通貨が使われており、これも広い意味でドル化(あるいは通貨代替)と呼ばれている。
 通貨が不安定な新興国に住む人々からすれば、資産防衛の観点から米ドルで貯蓄を行うことは非常に合理的な経済活動だ。明日にも下落するかもしれない自国通貨を持っておくより、安定した外国通貨で貯蓄を行う。そして、日々の為替レートの水準を鑑みて、使う分だけ自国通貨に戻せばいい。
 ただ、新興国の政府や中央銀行からすれば、ドル化は非常に厄介な問題である。政府は財政政策を、中銀は金融政策を用いて経済運営を担うが、それは自国通貨を通じて行われる。ドル化が進み、外国通貨の利用頻度が高まれば高まるほど、新興国の政府や中銀による自律的な経済運営は困難になる。このドル化現象は日本でも着実に進行している。資産運用の観点から、高齢者層を中心に外国通貨や外国債券を買う人々が増えているためである。今はまだ一手段にとどまっているが、将来的には日々の決済や交換にあたっても、米ドルが使われる時代が来るかもしれない。

 いまや日本は、先進国最悪と言われる財政を抱えている。通貨の信認は、基本的には財政への信認に基づくものだ。現状、日本の財政は、中銀である日本銀行が国債を購入することに支えられている。これは本来、財政への信認を揺るがす可能性があるため「ご法度」とされてきた手段である。
 政府は赤字だが民間は黒字であり、それが円の信認をサポートしている部分もある。だが企業の黒字(海外収益)が盤石でも、少子高齢化に伴い家計が貯蓄を切り崩すことを考えれば、民間全体の黒字は今後減少していくだろう。そうした意味でも日本円の信認はかなり危うい橋を渡っていると言っていい。
 この危うい橋が崩落してしまったとき、日本円の暴落は現実のものになる。景気は悪化し、円資産の価値は下落する。そして円安に歯止めがかからなくなれば、新興国と同様に日本でも、日々の支払いに米ドルが使われる日が来ることになる。将来的に、誰も日本円を信用しない時代が到来するかもしれないわけだ。

 本書の副題は「日本で米ドルが使われる日」である。あまり考えたくないことだが、その足音が着実に忍び寄っているというのが、本書のメッセージだ。言い換えれば、そうした事態に陥らないためにも、通貨の信認という観点から、今の日本の経済運営を見直す必要があるのではないかという問いかけでもある。
 本書では、歴史的なドル高の裏で、新興国を中心に進んだドル化という経済現象に焦点を当てて、その問題点を検討していく。また、ドル化は通貨危機の延長で生じた経済現象でもある。第二次大戦後の世界経済は幾度となく通貨危機を経験してきたが、ドル化が進んだケースもあれば、進まなかったケースもある。そうした違いはいったいどこから生まれてくるのだろうか。
 こうした関心から、戦後世界各国で生じた通貨危機の経験もいくつか取り上げ、その特徴をドル化という視点で検討していく。そのうえで、通貨危機とドル化の足音が着実に忍び寄る日本経済の現状を分析することにしたい。

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