ちくま新書

痴漢を減らす、たった一つの効果的な方法

「痴漢は病気」そう聞くと、嫌な気持ちになる方もいるかもしれません。
「病気だから仕方ないっていうこと?」「被害者は我慢しろって?」
こう考えてみてください。痴漢――病名を「窃触障害」という、性的依存症の一種――は、病気だからこそ、治せるのです。
痴漢の再犯率を通説の1/10にまで抑えてきた痴漢治療のエキスパートが語る、病気としての痴漢とは、そしてその治療法とは。
原田隆之『痴漢外来』より、「はじめに」を公開します。

†痴漢がやめられない人たち

 痴漢を治療している病院があると聞いたら、皆さんはどのように思われるだろうか。「痴漢って病気なの?」「犯罪じゃないの?」「病院で治るものなの?」などと、さまざまな反応が返ってきそうである。というより、実際に私がこれまで何度も聞いてきたのが、まさにこういう数々の声である。
 なかには、「何でもかんでも病気で片づけるな」「病気だといって責任逃れするな」「被害者のことを何と思っているのだ」という批判や非難の声も少なからずある。
 私は臨床心理学および犯罪心理学の研究者で、特に依存症を専門としている。大学教員をしながら精神科病院に勤務しており、当初は主として覚醒剤などの薬物依存症やアルコール依存症などの治療に携わっていた。
 そして、約一〇年前から、痴漢などの性犯罪や性的問題行動がやめられないという人たちの「治療」をする「痴漢外来」に携わっている。実は、これらは一種の「依存症」と考えられるからである。
「痴漢の人たちを対象とした治療をやっています」という話をすると、聞いた人は例外なく複雑な反応をする。すると、「禁煙外来というのがありますよね。あれはタバコがやめられない人が通うわけで、痴漢がやめられない人が通うのが痴漢外来です」と重ねて説明するが、それでもやはりなかなか理解してもらえない。
 もっとも、「痴漢外来」というのが正式な診療科の名前というわけではない。正確には、精神科外来クリニックにおいて、痴漢をはじめとする性犯罪などの性的問題を抱えている人々への「治療」を行っているのである。
 ただ、外部の人々に説明をする際に、ただでさえわかりにくい活動の内容を少しでもわかりやすくするために、「痴漢外来」の名称を便宜的に用いている。したがって本書でも、われわれの取り組みを紹介するにあたって、この用語を用いることにした。
 痴漢外来には、痴漢などの性犯罪のみならず、過度な性風俗店通いやアダルトサイトの利用、度重なる浮気などの「やめたいのに、やめられない」性的問題行動を抱えた人々が訪れる。したがって、本書でも広くこれら一連の「性的問題行動」を対象とする。

†「治療」に効果はあるのか

 ところで、これまで痴漢の「治療」と括弧つきにして述べてきたが、これにも少し意味がある。そもそも、わが国では犯罪者を「治療」するという考え自体が一般的ではない。犯罪者は罰するものであり、「治療」の対象ではないと長い間考えられてきている。
 痴漢を「治療」していると言うと、「痴漢は罰するものであって、治療の対象ではない」という意見が多いのも、このような考えの延長線上にある。覚醒剤などの違法薬物依存症者についても、それは同様である。
 しかし、そのような考えは時代遅れになりつつある。最近の犯罪心理学の知見では、「治療を伴わない刑罰には再犯防止効果がない」ということが明らかになっている。そしてそれは、性犯罪や薬物犯罪だけでなく、あらゆる犯罪についてあてはまる。
 犯罪者は、犯罪に関連する数多くのリスクファクター(危険因子)を有しており、その代表的なものに「反社会的認知」がある。「反社会的認知」とは、社会規範を軽視したり、自分に都合よく物事をとらえたりする「認知のゆがみ」のことである。これはいわば、本人独特の考え方の癖のようなものであり、自分では気づいていないことが多い。したがって、認知行動療法と呼ばれる心理療法を用いて、そうした「認知のゆがみ」を修正する。
 刑罰だけでは、このような犯罪に直結する心理的な問題性の修正まではできないため、刑罰に加えて心理学的な「治療」を実施することによって、再犯を防止しようとする。これが、犯罪者に対する「治療」という考え方である。認知のほかにも、パーソナリティ、対人関係のパターン、日常生活上の問題など、多くのリスクファクターを治療の対象とする必要がある。
 ここで、犯罪者に対する認知行動療法による「治療」効果のエビデンス(科学的根拠)を見ると、まったく「治療」を行わない場合と比べて、認知行動療法による「治療」を行えば、再犯率を半分から三分の二くらいに抑制することができることが明らかになっている。
 性犯罪者だけを見ても、処罰の効果は限定的であり、再犯を抑えるのに最も有効なのは認知行動療法による「治療」を実施したときであることが、数多くの研究で明らかにされている。
 そして重要なのは、これは何も処罰を否定するわけではない、ということだ。犯罪を行ったときに処罰を受けるのは、法治国家として当然である。しかし、それが再犯抑制に効果がないのであれば、それに加えて「治療」という対処を考えてみるべきではないか、というだけのことである。
 これは、より安全な社会を目指し、犯罪の加害を少しでも減らすことを目指した科学的な取り組みの一つである。つまり、「痴漢外来」という取り組みは、「性犯罪と闘う科学」なのだ。その目的はあくまでも、性犯罪のない安全な社会をつくることであって、「犯罪」を「病気」というレッテルに貼り替えて、その責任を曖昧にしようというたくらみではない。
 わが国では、刑務所において受刑者に何らかの働きかけをすることを「処遇」と呼んでいる。これは多くの場合、生活指導、職業訓練などが中心であるが、英語にすると「処遇」も「治療」もtreatmentとなる。
 従来の生活指導や職業訓練なども、もちろん受刑者の更生においては重要である。しかし、今後は専門的な科学に裏づけられた「治療」をも含めたtreatmentとなっていかねばならない。
 本書は、犯罪者を「治療」するという考えが意外に思えるような時代を早く卒業し、「治療」という言葉を括弧つきでなく、自然に用いることができるようになることを目指したものである。したがって、そのような時代が一刻でも早く到来することを祈りながら、以後本書ではもう括弧を外して、治療の語を用いていくことにする。

†刑務所での治療プログラム

 実は、日本の刑務所においても、徐々にではあるが受刑者への治療的取り組みは始まっている。しかし、まだ治療という語は用いず「改善指導」という呼び方がされている。
 二〇〇三年に名古屋刑務所で、刑務官の暴行によって受刑者が死亡するという痛ましい事件が起こった。この事件を契機に、明治以来一〇〇年以上にわたって刑務所での処遇を規定していた「監獄法」が改正され、二〇〇六年に「受刑者処遇法」が制定されるに至った(この法律は、翌年さらに改正され、現在は「刑事収容施設法」となっている)。
 そのなかで、受刑者に対する「改善指導」が新たに規定され、特に性犯罪者、薬物犯罪者、飲酒運転事犯者などが、治療的働きかけを受けることが義務化されたのである。
 私は当時、刑務所行政を所掌する法務省矯正局に勤務していたが、ちょうどこのとき「性犯罪者再犯防止プログラム」「薬物依存離脱指導プログラム」の開発に携わっていた。特に前者は、二〇〇五年に奈良県で起きた痛ましい性犯罪事件(奈良女児殺害事件)を契機として、同プログラムの開発が国を挙げての大プロジェクトとなったものである。たびたび報道もされたので、記憶している方もおられるかもしれない。
 これは、性犯罪で受刑していた男が、出所後に小学生の女児を誘拐し、暴行を加えた上で殺害し、遺体を遺棄したという残虐きわまりない事件である。男は、携帯電話のカメラで撮影した被害者の遺体の写真や、「次は妹を狙う」などと記した脅迫メールを保護者に送りつけるという陰湿なことも行っていた。このような手口の悪質さや、男に同様の性犯罪歴があったことから、この事件は連日大きく報道されることとなった。
 そんななかで、刑務所当局に対する批判はすさまじいものがあった。「出所間もない性犯罪者が、また同じような性犯罪をするなどとんでもないことだ」「刑務所は何をやっているのだ」「きちんと教育をしているのか」、などの批判である。
 たしかにもっともな意見である。しかし、刑務所当局を庇い立てするわけではないが、当時の刑務所(法務省)には、性犯罪者を治療するというアイディアはなかったし、そのための法的な基盤すらもなかったのである。
 刑務所は刑の執行をする施設であり、わが国の刑法で定められた刑のうち、刑務所が担うものは、主として禁錮、懲役である。要は自由を剝奪して拘禁することが刑なのであり、その意味ではこれまでほとんど刑務所からの逃走事故がないわが国の刑務所は、世界的に見ればとても優秀であると言える。
 さらに、懲役の「役」とは仕事という意味であり、刑務作業を科すことも刑罰の一つである。実際、刑務所のなかでは、受刑者をさまざまな労働に従事させている。
 外国から日本の刑務所にたくさんの視察団が訪れているが、皆一様に驚きを口にするのは、受刑者が整然と作業に従事している姿を見たときである。海外の刑務所では、だらだらと寝そべっていたり、グラウンドで私語に興じていたりという光景が当たり前なので、刑務所のなかでまで勤勉に働く日本人の姿はまさに驚異的なのである。この意味においても、日本の刑務所はきわめて優秀にその責任を果たしている。
 しかし、刑務所内での教育や治療という面に関しては、残念ながら他の先進国に比べてかなり立ち後れていると言わざるを得ない。先述のように、刑務所内で治療的処遇を行うことを規定した法律は、奈良の事件の犯人が一度目の受刑をしていた当時には存在しなかったのである。
 そして、奇しくも新しい受刑者処遇法が制定されようとするそのタイミングで、奈良の事件が起こり、世論の刑務所批判に背中を押される形で「性犯罪者再犯防止プログラム」が開発され、導入されるに至ったのである。
 このプログラムこそが、わが国の刑務所の長い歴史のなかで、初めて導入された本格的な治療プログラムとなった。

†病院での治療

 その後、法務省を辞した私は、大学で心理学を教えるかたわら、縁あってとある精神科クリニックで仕事をするようになった。そこでは、性犯罪者治療プログラムの開発に携わった経験や、刑務所で受刑者の処遇に携わった経験を生かして、性犯罪などの性的問題行動を抱えた人々の治療にあたることとなった。それが「痴漢外来」の始まりである。
 刑務所のなかには、強制性交(強姦)や小児わいせつなどの重大な事件を起こした性犯罪者もいるが、外来の精神科クリニックを訪れる人々の犯罪歴は、ほとんどが痴漢や盗撮が中心である。また、性犯罪ではないが、さまざまな性的問題行動がやめられないという人たちもいる。
 本書では、こうした「痴漢外来」の取り組みを通して、性犯罪をはじめとする性的問題行動や性的依存症の実態とその対策について、最新の犯罪心理学の知見を活用した科学的な対策を紹介していきたい。
 痴漢が大きな社会問題であり続けていることは皆わかっているのに、驚くほど何の対策も講じられていない。目に見える対策と言えば、せいぜい駅のホームに「痴漢は犯罪です」と当たり前のことを書いたポスターを貼るくらいのものである。
 われわれは、社会の責任として、痴漢をはじめとする性犯罪という大きな社会問題について、今以上に真剣に取り組む必要がある。
 犯罪に対して罰を与えればそれで済む、という時代はもう過去のものになりつつある。犯罪の予防、再犯の抑制のためには、科学の知見を総動員して、科学の力で闘うべき時代が到来しているのである。

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