ちくま新書

人は親や出生地を選べない

複数の国籍を持つ理由とその課題。蓮舫氏問題から世界の最新動向まで

ちくま新書『二重国籍と日本』の序章を公開します。外国出身者を親に持つスポーツ選手への拍手喝采。それとは対照的な、ナショナリズムに絡めた一方的なバッシング。旧態依然かつ不透明な国籍法の運用。ますます多元的になる日本社会で、複数国籍を持つ人が必然的に増えています。いま私たちは国籍に、どのように向き合えばいいでしょうか。

揺らいでいる「日本人」と日本国籍の関係
「日本人」は疑いようのない概念であるはずだった。
 日本語を喋って、日本列島に暮らし、日本人的と想定されている外見。明確な「日本人」のすがたが存在していた。
 海という天然の防壁に守られ、そこそこの面積と人口と経済力を有する島国は、外来民族の支配や侵略、大規模な移民流入などを経験したことがなく、「鎖国」と呼ばれる時代も長く続いた。アイデンティティや容貌が大きく異なる人々が、その共同体の中で暮らすことに、私たちは慣れる必要がなかったのだ。
 その日本に国籍という概念が西洋経由で流れ込んできたのは、国際社会との接点を広げた明治維新以降のことだ。そのなかで導入された「国籍唯一の原則」という基本理念に支えられた日本の国籍法は、当時の日本人の感覚にも違和感なくマッチするもので、「日本人」と日本国籍の保有はたやすくイコールで結ばれた。
 明治維新から一五〇年が経過し、日本の環境は大きく変貌した。交通や通信の簡便化で海外在住が一般化し、外国人の伴侶と結ばれることも増えた。目の前にいる「日本人」が日本国籍を持っているかどうか判別がつかないことも珍しくない。もちろん逆に「日本人」には見えない日本国籍の人もいる。「日本人」という概念があいまいになり、日本国籍者がイコールで「日本人」だという暗黙の了解も許されなくなっている。
 強固なものであった「日本人」と日本国籍の関係が、揺らいでいるのである。二〇一九年四月から外国人労働者への門戸が過去にないほど広く開放されることにもなり、日本社会の国籍感覚がさらに問われる事態になっている。
 そうした時代の変化を象徴するのが、女子プロテニス・大坂なおみ選手の華々しい登場である。
 二〇一九年一月、南半球で真夏にあたるメルボルンの陽光を日々浴びながら、私は、全豪オープンの主会場であるロッド・レーバー・アリーナとマーガレット・コート・アリーナに通い詰めた。事前に当てずっぽうで購入したチケットが偶然、大坂選手の試合にドンピシャにハマる運もあり、三回戦から決勝までの全試合を見ることができた。
 大坂選手が決勝まで上がって来るとは予想していなかった。特に三回戦までの戦いはかなり不安定で、精神的にも試合中に揺らぐことが多かった。振り返ると、最も敗北に近づいたのは第一セットを先取され、第二セットでも先にブレークを許した三回戦の謝淑薇(シェイ・スーウェイ)選手(台湾)との対戦だったかもしれない。準決勝のプリスコバ、決勝のクビトバの両チェコ勢選手との試合は、どちらもかなりの接戦ではあったが、勢いに乗る大坂選手の勝利の予感が漂っており、安心して観戦していた。
 テニスの試合は、プレー自体を楽しむのなら、テレビの方をおすすめしたい。現場で観戦する楽しみの一つは試合前や試合後の雰囲気を感じられるところにある。特に試合後の勝利インタビューは見どころだ。大坂選手の試合後、観客はあまり席を立たない。インタビューを楽しみにしているからだ。ぐいぐいジョークを繰り出すわけではないのだが、会場のオーストラリア人たちは引き込まれていた。大坂選手の言葉には、過剰な飾り気がなく、それでいてユーモラスで、愛らしい。
 大坂選手は長く日本で暮らしておらず、日本語も上手ではなく、外見も日本人的ではない。全豪オープンの開催中、日清食品のPRアニメで大坂選手の肌が実際より白く描かれていたことが問題となった。本人は記者会見で「私が褐色であることは明らか」と述べている。褐色が「tan」という単語を使うのを、大坂選手の発言で私は初めて知った。
 大坂選手の取材対応は基本、英語で行われる。「褐色」の話のあと、「どうしてみんながこの件で騒いでいるのかよくわかる(I get why people would be upset about it)」と述べたのを「どうして騒いでいるのかわからない」と誤訳して報じたとして、日本メディアは厳しい批判にさらされた。大坂選手に「日本語で今の気持ちを語ってください」という質問を記者がすることも不満の標的になった。
 日本人選手の活躍を取材するために海外に派遣される記者は、必ずしも英語が達者で海外取材に慣れているわけでもない。完全な英語力による取材を求めるのは、過去の「日本人の活躍を日本メディアが報じる」という構図に慣れていた業界にとっては酷なところがある。しかし、日本語が決して流暢ではない日本人選手への取材は今後も増えていくはずである。

「謙虚さ」はハイチ出身の父親似
 大坂選手の謙虚さは世界のファンから賞賛を浴びることが多い。個性派が多い選手のなかで、あまり自分をアピールしない姿がむしろ新鮮に見えるようだ。この点について、しばしば「日本人らしい謙虚さの持ち主」と海外メディアに紹介されることもあるが、実は大坂選手の父親でハイチ出身者の米国人、レオナルド・フランソワさんの、人前に出ることもあまり好まない性格から受け継いだもののようだ。母親の大坂環さんはむしろ勝気な性格だと言われている。すでにステレオタイプに「日本人」を論じる意味は薄れてきているようである。
 大坂選手を例に挙げるまでもなく、最近、片方の親が外国の血統を有するハーフ(ダブル)の「日本人」が、スポーツやカルチャーの世界で活躍している。
 サニブラウン・アブデル・ハキーム選手は二〇一九年、日本人として二番目になる一〇〇メートル一〇秒台の壁を越える九秒九七を記録した。サニブラウン選手はガーナ人の父親と日本人の母親との間に生まれた。幼いころから福岡で育ち、完璧な日本語を操るが、「日本人離れした身体能力」と評される才能を開花させ、二〇二〇年東京五輪のメダル候補に躍り出た。
 さらに日本中を驚かせたのは、バスケットボール・八村塁選手のNBA(全米プロバスケットボール協会)一巡目指名であった。もちろん「日本人として史上初」と報じられた。八村選手は、西アフリカ・ベナン人の父と日本人の母との間に生まれ、富山県で育っている。二〇二〇年二月に二二歳の誕生日を迎える。ただ、八村選手の国籍については具体的に報じられていない。
 米大リーグで活躍するプロ野球投手・ダルビッシュ有選手もいる。俳優や作家にも外国血統を有する才能は枚挙にいとまがない。米ニューヨーク進出を二〇一九年に決めたお笑いタレント・渡辺直美さんも、父は日本人、母は台湾人のハーフである。
 日本社会は、彼らを「日本人」として受け止め、日本の代表として世界で活躍していることを喜んでいる。普通の日本人とは違っている彼らの血統はニュースのストーリーを彩ってくれる好ましいエピソードであって、ネガティブな要素にはなり得ない。
 ところが、大坂選手の国籍については、全豪オープン優勝の前後から、にわかに注目を集めるようになり、ネットやメディアで活発な議論が今も交わされている。なぜなら、大坂選手の「タイムリミット」が間もなく訪れるからだ。

二二歳までに選択を求める国籍法
 両親の国籍を受け継いだ二重国籍の子供は、二二歳の誕生日までに、どちらかを選択することが国籍法で定められている(同法一四条一項)。そのため「大坂選手が日本か米国、どちらの国籍を選ぶのか」という問題において、全米・全豪オープン制覇の快挙に二〇二〇年の東京五輪での活躍への期待も加わり、一層の関心を集めたことは、ごく自然な成り行きとも言えるだろう。
 大坂選手は、本書が刊行されて間もない二〇一九年一〇月一六日、二二回目の誕生日を迎える。父親の米国籍と母親の日本国籍の両方を有する日米二重国籍状態にあるとみられる大坂選手にとって、日本国籍を選ぶか、米国籍を選ぶか、決断のときとなる。
 大坂選手は日本・大阪で生まれ、三歳のときに米国に移住した。父親のフランソワさんが来日して英語教師をしていたとき、母親の大坂環さんと出会った。大坂選手はテニスの腕を米国で磨き、いまも米国に拠点を置いている。
 大坂選手がどちらの国籍を選ぶのか、すでに選んだのか、本書校了時点では確かな情報はない。週刊誌『サンデー毎日』二〇一九年九月八日号の大坂選手の国籍問題に関する記事では、大坂選手のマネジメント会社が同誌の取材に対し、大坂選手は「五輪に出場するために必要な手続きとして日本国籍を選択する」という内容を回答している。いずれにせよ、本来、国籍選択はプライバシーに属する問題である。「あなたの国籍は何ですか」という質問が、特定の個人に対して、公の場で問われるのは健全な事態とは言えないだろう。ただ、大坂選手の場合は、その国籍選択によって、彼女が東京五輪に日本代表として出るかどうかにかかわるという話になってくる。仮に日本国籍を捨てて、米国籍を選択した場合、大坂選手は日本代表としては五輪にも出られないからだ。いままでのように「大坂選手、日本人初のグランドスラム優勝」といった報道もできなくなる。
 本来、この問題は、そこまで厳密に考えなくてもいい部分がある。現実には、日本のみならず、世界中に重国籍の選手が存在している。五輪について一つの国に選手登録して出場していれば、その選手が重国籍かどうかは問われることはない。国別対抗のデビスカップも同様である。ただ、一つの国の代表になることを選んだ場合、三年以上はその国代表で戦わなければならない。
 逆説的に言えば、大坂選手は毎年の世界テニス四大大会でも、東京五輪でも、デビスカップでも、「日本選手」として活躍している限り、日本国籍を捨てていないことを立派に証明しているのである。一方、米国籍を離脱したかどうかは、本人が語らない限り、第三者が知り得ることではない。国籍法では、日本国籍を選択したあとに外国国籍の「離脱の努力」を求めているが、悩んでいても考えていても、離脱のための努力は継続しているという解釈もある。少なくとも、東京五輪での大坂選手の出場は、二重国籍のままでいても、スポーツ界のルール上は問題なさそうだ。
 つまり、大坂選手が米国籍を持っているかどうかを問題にさえしなければ、我々が彼女 に国籍を問いただす喫緊の理由は特に存在しないのである。
 しかしながら、こうした微妙なところは世の中にはなかなか伝わりにくい。日本社会に「国籍は一つであるべきだ」という先入観が抜きがたく存在しているからだ。冒頭に紹介した「日本人=日本国籍」という考え方とも深いところで結びついている。
 本書の編者である私たち「国籍問題研究会」は、「国籍は一つ」「日本人=日本国籍」というこれまでの「常識」がすでに時代おくれになっており、国籍法全般において「オーバーホール(総点検)」が必要とされているという問題意識を有している。

「国籍を二つ持つのはずるい」という先入観
 その点があらわになったのが、二〇一六年に起きた蓮舫・元民進党代表の二重国籍問題であった。「国籍問題研究会」はこの問題の展開に懸念を持った有志によって結成されたものだ。蓮舫氏のケースは本書の第Ⅰ部で包括的に論じていくので深くは触れないが、国籍問題をめぐる日本社会の誤解や、法律の後進性を改めて実感し、それが本書を世に問う動機にもなった。蓮舫氏問題は国籍問題における「黒船」の役割になり得るものだ。
 蓮舫氏問題で広く見受けられた「誤解」の一つに、「国籍を二つ持っているのはずるい」「重国籍は違法なのですぐに解消するべき」という先入観があった。
 日本には「国籍唯一の原則」があると書いたが、実際のところ、国籍法にそのような明文規定があるわけではない。一方で、理念としては国籍法自体の立法の趣旨に、国籍は一つであるべきだという考え方が反映されていることは、否定できない。
 しかし、今日の日本の国籍法には、国民が複数の国籍を持つことを認める条文が存在している。たとえば、国籍法二条一項では、父母のどちらかが日本国籍であればその子どもは日本国籍を得るが、もう一方の親の国がやはり血統主義であれば、その子供は複数国籍を持つことになる。蓮舫氏のケースもまさにこの条項に当てはまる。
 外国籍の人が日本国籍を取得する帰化手続きにおいても、ブラジルのように国籍離脱を認めない国があり、その場合はそのまま帰化を認めている。外交関係がない台湾について、台湾政府が発行する書類の有効性を認めない日本政府は、結婚や帰化などで台湾の中華民国国籍を取得した日本人に対し、日本国籍の離脱を認めていない。つまり、重国籍者が日本社会で現れることについて、日本政府は防止できておらず、逆に、その増加に対して、容認的な態度を取っているという現実がある。
 大坂選手のような出生に伴う重国籍者は、国籍法上二二歳までに国籍選択を行うものとされる。日本国籍を選択をする場合は日本国籍の選択宣言を行う。そのあとは、外国籍の離脱の努力をするように求められている(国籍法一六条一項)。しかし、これは「努力」であり、いつまでに実現しなければならない、という規定はない。国は国籍選択を進めるよう「催告」もできるが(国籍法一五条一項)、過去に一度も催告したことはない。
 複数の国籍を有すること自体は、違法ではなく、国籍法上の義務違反があったとしても罰則がないので犯罪ではない。
 蓮舫氏のケースでは、台湾の国籍を解消しないまま、国会議員になり、大臣を務め、最大野党の党首となったところに批判を受ける原因があった。国権に関わる仕事をする国会議員であり、同時に、首相の座も狙える党代表として日本以外の国籍を持つのは如何なものか、ということと、問題の発覚後に説明責任を果たさなかったという批判である。それは確かに一定の合理性を伴う国民感情を反映したものだったと、私は思う。

法務省も事実上は二重国籍を容認
 しかし、一般人の日本の重国籍者については、日本国籍を選択した人が実際に外国籍を離脱しているかどうかは把握されておらず、同時に、多くの人が選択宣言すら行っていない可能性が極めて高く、具体的問題も特に生じていないのである。
 日本弁護士連合会が二〇〇八年に作成した「国籍選択制度に関する意見書」のなかの資料によれば、日弁連の質問に対し、法務省は、およそ五〇万人の国籍選択対象者のうち、選択を行ったのは五万一〇〇〇人であると回答している。単純計算だがおよそ一割にすぎない割合で、残りの九割の動向は把握されていないことになる。
 これは、法務省の怠慢というのではなく、重国籍を容認していく国際的な動向にも配慮した柔軟な法的運用が行われていると見ることができる。
 二〇一一年の国連調査によれば、加盟国一九六カ国のうち、他国籍を取得したときに原国籍の維持を認めているのは、七二%に達している。ヨーロッパ国籍条約一四条は、出生と婚姻により取得した国籍を当事者が保持できるよう締約国に求めており、日本の同盟関係にある米国も二重国籍の容認国だ。こうした状況に鑑み、法務省は二重国籍の出現を容認するという現実的な対応を取らざるを得なくなっていると見られる。
 大坂選手は政治家ではない。プレーについて語っても、自らの国籍に対する説明責任はない。だからこそ、いつの日か、本人が自ら態度を決め、語りたいタイミングが来るまで「暗黙の了解」として待ってあげることが賢明な大人の対応ではないだろうか。それは大坂選手を特別扱いすることではまったくなく、重国籍状態を容認されているほかの人たちと平等に彼女にも接することなのだ。
 大坂選手のような、生まれながらの重国籍者にとって、両親から受け継いだ二つの国籍は家族を結びつけるルーツとアイデンティティにかかわるものであり、それを法的に奪い取ることは人道的にも人情的にも忍びないことについては、社会的合意は形成できるのではないだろうか。この点については第六章「国籍をめぐる世界の潮流」で詳しく論じるが、外国籍を有する人に関し、忠誠心や国家の安全にかかわる部分は、高位の公職につけない、国会議員になれない、自衛隊に入れないなどの禁止事項のリストを作ればよく、そうした対応をとる国も珍しくない。
 世の中のムードとして、現時点で二重国籍ですと大声では言いにくい雰囲気があるのは確かだ。だからこそ、彼女に急いで回答を迫るべきではない。彼女は日本の宝であり、世界の宝でもある貴重な人材だ。今後一〇年、一五年と「Winner is Naomi Osaka from Japan」というコールが世界で鳴り響き続けることを、最優先すべきである。
 しかし、一方で、出生に伴って生じる重国籍の問題については、法務省をはじめ日本政府は、しっかりと法的整理をつけなくてはならない。重国籍者の出現や増加を容認しておきながら、対外的に重国籍の解消を強く求めるキャンペーンを展開している法務省のダブルスタンダードには疑問を感じる。
 法的運用において、一般論では、グレーゾーンの存在は一概に悪いとは言い切れないところがあるが、こと「生来の二重国籍者」についてはグレーゾーンの存在があまりにも拡大していることから、グレーであるものを明確に「白」だとはっきりさせる法改正に動き出すか、少なくとも、対外的に「出生に伴う重国籍者については、日本政府は積極的に重国籍の解消を求めていない」と明らかにすべきである。
 それは、日本と外国の両国籍を有するいわゆるハーフ人材の活躍の増加に伴って、日本社会が避けることはできない現在進行形の課題であるからだ。

現実と齟齬をきたす国籍法の運用
 現実と齟齬をきたしている国籍法の運用には、国民的な議論が必要であることは言うまでもない。一つ気になる事実は、日本国籍離脱者の増加である。ここでいう離脱者とは、日本と外国の重国籍状態から日本国籍を放棄した人のことを指している。
 最新の法務省統計によれば、二〇一五年に五一八人だった離脱者は、二〇一七年に七七〇人、二〇一八年は九六二人になっている。一・八倍となった形で、蓮舫氏問題の影響で不安を感じ、日本国籍を放棄して外国籍を選んだ人が急激に増えている可能性がある。人口減に直面する日本において、重国籍に対するマイナスイメージを広げていくことによって、「日本」への門戸を自らが狭めていないか心配である。
 人は親や出生地を選べない。ますます多元的になる社会で複数の国籍を持つ人は必然的に増えていく。ところが、蓮舫氏問題の結果、日本における国籍をめぐる議論はむしろ後退してしまった。本来なら、重国籍とはどのような問題で、国籍法のありようをからめて考える全体論と、台湾出身者の国籍問題をどう取り扱うのかという個別論を、切り分けながら論点整理し、冷静に議論を重ねて、コンセンサスを探し出す作業が必要だったのだ。
 だがまだ遅くはない。今からでもその作業に、法務行政と民間の専門家、そして当事者が座を共にして取り組むことが、当事者や外国人に差別的だと受け止められかねない議論を排除し、日台ハーフを含めて、国家と国家の狭間に生きている人々が安心して暮らせる社会に日本を変えていく近道になるのではないだろうか。
 本書は、そうした思いから、国籍問題に取り組む弁護士、研究者、ジャーナリストらが、それぞれの問題について論点をまとめた内容になっている。第Ⅰ部では蓮舫氏の二重国籍問題をめぐる議論から浮かび上がった状況を、メディア、法制度、台湾の地位などの観点から整理した。第Ⅱ部では、より広く問題を捉えて、国籍問題と国籍法をめぐって日本社会が直面する問題点や、日本より先に重国籍の問題に直面しているヨーロッパの事例を紹介している。たとえば、大坂選手のように生来の二重国籍とは異なるケースとして、結婚や仕事などを理由に自己の意思で外国籍を取得したとき、日本国籍を失うというケースがある(国籍法一一条一項)。これについても賛否両論があり、昨年、当事者による違憲訴訟が起こされた。その点もこの第Ⅱ部で詳述したい。そのうえで、二重国籍問題を含めた国籍法のあり方について、執筆関係者と国籍問題研究会メンバーの間でコンセンサスが得られた「提言」を終章でとりまとめることにした。
 本書には書名も含め、「二重国籍」「重国籍」「複数国籍」の表記が存在しているが、基本的に各執筆者の用語使用の考えを尊重した。外国法の日本語訳については、『戸籍六法』(テイハン)の各年版に依拠した。参考文献は巻末にまとめて記載している。
 

【目次より】

序 章 大坂なおみ選手が直面する国籍問題――野嶋剛(ジャーナリスト)

第一部 蓮舫氏問題を考える

第一章 メディアの迷走――野嶋剛(ジャーナリスト)

第二章 あらわになった国籍法の矛盾――小田川綾音(弁護士)

第三章 国際結婚と国籍――大成権真弓(台湾・居留問題を考える会会長)

第四章 「日台ハーフ」の中華民国国籍――岡野翔太(大阪大学大学院博士後期課程)

第二部 国籍と日本人

第五章 日本国籍の剥奪は正当なのか――仲晃生(弁護士)

第六章 国籍をめぐる世界の潮流――館田晶子(北海学園大学教授)

第七章 国籍法の読み方、考え方――近藤博徳(弁護士)

終 章 国籍に向き合う私たち――関聡介(弁護士)

あとがき――鈴木雅子(弁護士)

国籍法(巻末資料)

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