高橋 久美子

第16回
猫の恩返し

エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調、また絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。

 
 朝起きて、枕元で眠るみーこに呼びかける。
「おはよう、みーこ」
 すやすや眠っているみーこの美しい毛並みをなでなでして、口元に私はキスをする。
 ん? ん? もう一回キスをする……。
 ん? ん? なんか変な匂いしない? え、みーこお漏らし? まさかまさか。すんすんすんすん。みーこを起こさないように私は、ベッド周辺をかぎまわった。
 私の異変に気づいたのか愛らしい目をパチクリと開けてしまった。
「あーん、みーちゃんごめんね、起こしちゃったねえ」
 私はまだ夢うつつのみーこを腕の中に入れて頭をなでなでする。みーこが三角形に大きく口を開いてあくびした。
 くさっ! くーっさっ! え、何? みーこどうしちゃった。私は鼻を押さえてもう一回みーこの口元に顔を近づける。
 うぁーーー。くさい。鼻を押さえててもくさい。
 どういうことだ。昨日のご飯が歯に挟まってたりするんだろうか。いや、もっと大変な内臓の病気かもしれない。愛しい、恋しいみーこ、あなたはどうしてそんなに臭いの。
 私はみーこを抱きしめるふりをして必死に口の中をのぞいた。大丈夫だ。鋭い牙は健在だ。私はこの四本の牙を見る度に、ああこやつらはトラやライオン様と同じ先祖を持つのだなと、野に解き放ってやりたい衝動にかられるのだ。そんなことしても、箱入りみーこは生きていけないとわかっているが、野生の魂を私が握っていて果たして良いのだろうかという葛藤はいつも心のどこかにある。用意されたトイレ、袋に入った食べ物、首につけられた鈴、トラの子孫ならば大草原を思いっきり走ってみたかろう。その牙を、首筋にがぶりと立ててみたかろう。いや、ライオンやトラがネコ科なのだからネコの方が始祖ということになるのか。
 そんなことはどうでもいい。とにかく病院へ連れて行こう。
 時計を確認し、パジャマを脱ぎ飛ばし着替えると、鏡も見ぬままでかかりつけの動物病院に直行した。籠に入れられたみーこはニャーニャーと鳴いて、出ようと必死だ。私は籠につけられた小窓を開けて
「みーちゃん、一時間の辛抱だからね。ごめんね」
 と声をかける。今日は幸いにも撮影がリスケになり空いていた。ついてるよみーちゃん。きっと、きっとすぐに良くなるよ。逸る気持ちをおさえて電車を乗り継いで先生のもとへ。

「ああ、これは虫歯ですねー。奥歯が二本、結構ひどい虫歯だねえ」
 おでこにつけたライトを消すと先生が微笑んだ。
「みーこちゃんは、今年で、じゅうにー……」
「十三歳です」
「そうだよね、もう結構なお年だからね。虫歯になるっていうのはよくあることなんだ」
 先生はみーこを抱っこしながら喋った。そして一呼吸置いて言った。
「これね、抜くしかないんだよねえ。放っておいたら菌が体に入ってしまって死ぬことだってある。それに猫だって虫歯は痛い。だから辛くなる前にね」
「え、でも奥歯二本も抜いたらごはんが食べられないですよ」
「それがね、臼歯ってネコにはほぼ必要ないの。この四本の牙で食べてるんだから抜いても問題ないんだよ」
「へー! そうなんですか。牙ってやっぱ役に立ってるんですねー」
「そりゃそうだよー。肉食動物なんだから。ねえ?」
 先生はみーこの顔を覗き込むと、くふくふと笑った。
 しかしここからが本題だった。みーこを下ろすと先生は椅子に座りさっきまでとはちがう表情で続けた。
「でね、これね、抜くのは全身麻酔になるのね」
「全身麻酔……そりゃそうか。口の中ですもんね。大丈夫なんでしょうか」
「みーこちゃんはしっかり体重もあるし大丈夫だと思うんですけど、万が一がないとは限らないんですね。ここに説明書いてあるので、よく読んでサインしてもらってからになります」
「はあ……」
 確かに親知らずを抜く時、私もこういう〈何かあっても文句を言いません〉みたいなことが書いてある紙にサインさせられたな。
「それでね、この子はペット保険には入ってなかったかな」
「は、はい。ないですねえ」
 私はドキドキしてきた。いつもよくしてくれる先生だが、こればっかりは半額になんかしてくれないんだろう。
「十万円、かかっちゃうんだよねえ」
「え! じゅうまんえん!?」
「ええ、ちょっとねえ。かかっちゃうんですねえ」
 私の驚きようが下品だったからか、先生は首をすくめて苦笑いした。
「だ、大丈夫です。払います。みーこのためですから」
「わっかりました。では、これね、承諾書にサインしてください」
 困った、十万円払ったら私の貯金通帳はすっからかんのすってんてんだ。それでも私はみーこを守らねばなるまい。これからもみーこと人生を歩むのだから当然のことだ。
 すぐに手術の日程を立てる。一番早い日で二週間後のこの日になりますねえ。壁にかかった猫のカレンダーを指差して先生は言った。
「病院が閉まった夕方五時頃から始めましょう」
 よかった、ついてるついてる。私もその日は夕方から空いているぞ。予約をして、また電車に揺られながら私達は家に帰った。
 昼からは編集作業が入っている。みーこにご飯と水をあげて私も食パンをくわえて走った。来月の家賃のことを考えると頭が痛かった。深夜のコンビニのバイトを増やすべきだろうか。親に金を無心をする年でもない。師匠に頭を下げて借りるか、さっきみーこを抱えて歩いた道をため息をつきながら走った。

 映画監督を目指して上京して早八年がたとうとしている。短編を数本撮っただけでまだ何の評価も得られてなかった。「君には光るものを感じる、国際コンペでそろそろ小さい賞を取ってもおかしくないんだけどね」と師匠は言うけれど、数年前から同じことを言っている気がする。自分だってノミネートさえされてないじゃないか。おまけに師匠も最近は映画をとらなくなってしまって、ミュージックビデオやCM撮影がときたま入るくらいだった。「そろそろこっち戻ってきなさい」と父は電話するたびに心配していた。無理もない。男手一つで私を育ててくれた人だ。そろそろ身の振り方を考えねばならないだろう。
 今日は師匠の知り合いの映像作家から依頼された映像を編集する。金沢の呉服店のプロモーションビデオらしかった。三十時間だ。三分半の本編のためによくもまあ撮ってくれたもんだ。隣で一緒に映像を見つめる師匠は最近だんだんと腹が出てきていた。こんなおやじと私は付き合っていた時期があった。あの頃はまあまあかっこよく見えていたのに。浮気されて別れた途端にただのおじさんになってしまった。
 お昼、ランチパックピーナツバター味を食べながら私は切り出してみる。
「師匠、あのですね、みーこが虫歯になってしまいまして」
「へー。虫歯」
 弁当をほとんど噛まずに飲み込みながら師匠は気のない返事をする。
「それで、手術をして抜くことになったんですね」
「かわいそうだねえ、それ」
 モニターでは金沢の小道をしゃなりしゃなりと芸妓さんが歩く映像がエンドレスで流れていく。
「そのー、治療費がですね、十万円かかるんですね」
「うわあ、すごい」
「その、できたら、半分払ってもらったり。もしくは貸してもらったりっていうのは……」
「やっべ、俺四時から打ち合わせ入ってたんだよね。じゃあ、あと編集お願いねー」
 師匠は逃げ足が早かった。付き合い始めてすぐに私の家に転がり込んできた師匠は「俺の命よりも大事な猫だ」と言ってみーこを連れてきた。ベージュ色のふわふわした毛を揺らしながら、みーこはあどけない表情で私の部屋を注意深く観察し、やがてこたつの隅っこにもぐって眠った。私は一瞬で恋をした。出産後の女性のように、男のことなどもうどうでもよくなっていた。二週間もすると、師匠は他の女の家に入り浸るようになりみーこと私を捨てた。正確には私とみーこが師匠を捨てた。「あんた昔の男の猫よく飼ってられるね。思い出さないの?」とか言われるけど、思い出すも何も今だって何食わぬ顔で一緒に仕事しているもの。私は変なところで図太いと言われるけど、当然のことだ。あの日から私はみーこに恋し続けているんだもの。

 手術当日、ミュージックビデオの撮影は長引いていた。夕方の五時には来てねと言われていたのに、スタジオの時計の針は四時を指している。女優の衣装がイマイチしっくりこないのだという。私はそわそわし始めていた。ピンクでも赤でもいいから早くしてくれ。
 四時半になったところで、お腹が痛いと言いトイレに行った。そして私の足は自分の意志に反して走り出していた。廊下のテーブルに置いたくたびれたリュックを背負い一目散に駅に向かって走った。尻のポケットで携帯が鳴っている。知ったことか。電車を降りて走って走って、汗だくで家の玄関を開けると、全てを察知したかのようにみーこがすり寄ってきた。
「みーちゃん、ごめんね遅くなって。さあ行こうか」
 籠にみーこを入れると表通りに出て、私はもう駅へ走らなかった。右手を高々と上げた。みーこと同じ色をしたタクシーが目の前で止まった。
「川島動物医院までお願いします」
 運転手は勢いよく車を発進させた。ちょうど夕焼け小焼けのメロディーが街の喧騒を包み込み、どっと汗が吹き出した。この時間帯はいつも激混みの環八通りを、タクシーは順調に滑っていく。良かった、私達ついてるよみーちゃん。
「このラーメン屋を右に」
 と言うか言わないかの瞬間だった。
 ズドーーン!!

 私は、運転席に思いきり頭をぶつけていた。シートベルトをしていなかったことを後悔した。みーこは? みーこ、みーこ。良かった、私の膝に乗せた籠は何事もなく無事だ。
 どうやら玉突き事故らしい。外に出ると後続の車のライトが粉々になっている。そんなことより病院だ。私は全然平気。血とか出てない、腕も足も首も動く。ひたすら謝る運転手にかまっている暇はないのだ。私は病院へいかなけりゃ。今後の治療費などで連絡してくださいと、運転手は私に名刺を渡した。籠を持って私はすぐそこの病院まで走った。扉を開けると、先生が心配そうに待っていた。みーこを籠から出すと、興奮気味に走り回っている。
 事情を話すと、厳しい表情で先生は言った。
「今日はやめといた方がいいんじゃないかなあ。みーこちゃんも興奮気味だし、それにあなた本当に大丈夫? 首とか痛くないの?」
「私は全然、この通り」
 腕と足をぐるぐると回す。首も。あれ? 首が、首が痛い。さっきは平気だったのに、首が、首が曲がらない。そういえば頭もずきずきしてきている。
「先生、痛いです。首が痛いですね」
「ほーらー。ここじゃ見てあげられないから人間の病院へまず行こう。ね、鞭打ちって放っておくと後で怖いんだよ。一生後遺症抱えてる人だっているんだから。抜歯は改めてにしよう」
「は、はい」
 私は人間の病院で全治一カ月の鞭打ちと診断された。みーこは私の固定された白い首を見ると悲しそうに鳴いて膝の上に乗ってきた。幸いみーこに怪我がなくて本当によかった。ただ口の臭さはまったくもって可愛くないレベルに達していた。
 数日後、保険会社から電話がかかってきた。
「この度は本当に大変でしたね」
 とオペレーターの女性は恭しく労ったあと、それでですね、と声色を変えた。
「今回、治療費以外にも慰謝料というのが出まして」
「はぁ」
「それがですね、十万円ほどになる見込みなんですね」
「え! じゅうまんえん!」
 私はガンダムみたいな首のまま小躍りしていた。みーこは美しい毛を窓からの風になびかせながらにゃーんと一声ささやき、私の顔を見てにんまりと微笑んだ。

 

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