海をあげる

手と手と手

 2月からずっと体調が悪かった。
 1月末に、千葉県で沖縄の女の子が虐待を受けて亡くなった。沖縄にいるときから、その子の母親は自分が夫に殴られていることや、娘が夫に怒鳴られていることを病院や市役所に訴え、その子の祖母もまた、娘と孫娘が暴力を受けていることを学校や市役所に訴えていた。それでも、母親や祖母の訴えを聞いたひとはだれひとり動かず、沖縄から遠く離れたその場所で、寒い冬の日、女の子は自分の父親に殺された。
 あの子がどうやって死んでいったのかがわかってからは、小さな子どもと女の人が泣いている夢を見て、真夜中なのに目が覚めた。目が覚めると世界が壊れてしまうような気分になって、なんとかもう一度眠ろうとするけれど、やっぱり眠ることはできなかった。仕方がなくて灯りをつけて仕事をはじめるけれど、ただ目の前のテキストの文字を追っているだけのことも多かった。
 眠れなくなると娘に苛立つようになった。自分のやりたいことを、どんなときにも決してやめようとしない娘のそばで、せめて気を紛らわせようと本や新聞を読みながら娘を待ち、あるとき腹がたって娘を叱った。
 考えてみると、私は娘そのものに怒っているのではないような気がした。物事が思うように進めることができずに私は焦り、目の前の娘をみながらあの子はいい子だったのに殴られて殺されてしまったという思いが湧きおこり、それが反転するように、どうしてこの子はこんなにわがままなのにだれにも咎められないのだろうと思って私は娘を叱っている。要するに亡くなってしまったあの子のことを不憫がっているのだと気付いてからは、苛立ち始めると静かに娘のそばを離れるようにした。
 眠れないまま2月を過ごして3月になると、娘も私も体調を崩し、ふたりとも咳きこむようになった。娘と一緒に病院に行ったらふたりとも肺に雑音が混ざっているといわれて、たくさんの種類の薬を飲みきると娘は治って私はちっとも治らなかった。
 もう一度同じ病院に行ってみると、「過去の血液検査の結果に喘息因子があるので、ひょっとしたら喘息になっているのかもしれません」と医師は話し、「薬を変えましょう。体重も減っているはずです、こんな状態では夜も眠れていないと思います。今日は点滴してから帰りなさい」と言った。
 私は病院が大嫌いだ。入院した妹がどんどん調子が悪くなるのを見ながら育っているので、病院にいると病気が悪化するイメージしか湧かない。「大丈夫です、点滴はもう少し様子をみてからお願いします」と医師に告げて、すたこらさっさと家に帰った。

 そしてそのまま新学期に突入した。
 新学期は忙しかった。大学がはじまると会議と学生との相談と授業のために、夫も私もフル回転になる。調査で出会ってから会い続けている七海の状態も厳しくなって、こまめに顔を見に行くようにしていたら、文字通りのてんてこ舞いになった。
 私が忙しくしていると、娘はいつにも増してわがままになる。おねしょが再びはじまって、着替えもトイレもひとりではできないと言い張って、登園しても私から30分は離れない。娘を連れて保育園に行き、研究室に着くとため息をつきながら仕事をし、仕事が終わるとまた娘のわがままにつきあってあっという間に夜になる。
 夫が娘の送迎を引き受けて、週末になると娘を連れてあちらこちらに出かけてくれたのだけど、無理がたたったのか夫も熱を出して、結局、綱渡りのような日々になった。

                   *

 とにかく今度の日曜日はゆっくり休もうと夫と話して、赤ちゃんのころから娘を預かってくれている女性に娘のことをお願いした。
 娘を連れてお家に行くと、ベランダにはパッションフルーツの葉っぱが陰をつくり、バラの鉢植えは蕾をもち、朝顔の蔓はもう夏の支度をはじめている。
 青々としたベランダを前にして、いつものようにコーヒーをいれてもらって私の話を聞いてもらう。
 「2月からお薬を飲んでいるけど、ちっともよくならないの。この前、お医者さんに喘息かもしれないと言われたの」と伝えると、「昨日の夕方の体調はどうだった?」と聞かれ、「夕方は、息苦しくなって寝室で横になっていた」と言うと、「夕方から黄砂が飛んだのよ。私もすごい体調悪かったわよ。喘息のひとは黄砂が飛ぶと息ができないのよ。ねえ、苦しいときは救急外来にいかないといけないのよ。朝になるまで我慢したらだめよ、もしも喘息だったら生死に関わるのよ」と言われて震え上がる。
 喘息の専門医にちゃんと診てもらったほうがいいと言われて家に帰り、ネットで病院を探して予約をとって、午後には必ず良くなるけど本当に痛い鍼治療にも行ってきた。鍼の先生にも、「痩せたね。呼吸器系に強いハリがあるから、今日はすべてをちゃんとやらないと駄目」と言われて、2時間でハリセンボンのようにされてしまった。
 治療が終わるとぐったり眠い。それでもお迎えの時間なので車を走らせ、病院を探して、午後から鍼にも行ったと報告すると、「鍼に行けたのね。よかったよかった。きっと楽になるよ」と喜んでくれる。それからいつものように娘のことを褒めてくれる。

 「久しぶりに預かって、風花ちゃんが大きくなったのが嬉しかったわよ。あのね、風花ちゃんはとても優しい言葉で話していたのよ。一緒にお弁当食べている時に、『ちょっとこのコップ、どかしてもらってもいい?』って言ったのよ。お人形やぬいぐるみにも、『着替えさせてあげましょうね? ボタンをはずしてもいい?』って話してから着替えさせていたわよ。風花ちゃんはお母さんの話し方を真似しているのね」
 
 娘のその言い方は、私の話し方でもなんでもない。穏やかなこのひとのそばにいるから、娘もまた穏やかなひとになるのだろう。
 駐車場まで見送ってもらい、「いつでも預かるわよ、私も風花ちゃんに会えると嬉しいのよ」と言われて、手を振って車を出す。走り出した車のなかで、娘は今日一日のことを、順番に教えてくれる。

 「まず、海まで散歩に行ったの。帰ってきてから粘土でピザを作ったの。はちみつのかかっているピザが風花は好きでしょう。はちみつをいっぱいかけてつくったの。あと、今日のおやつはね、すっごく美味しい白いプリンで、風花の大嫌いな黒い苦いのはかかってなかったの。プリンを食べるときに、〇〇さんが、『風花のぶんも食べちゃおうかなぁ』って言ったの。『〇〇さんは大人でしょ。だからがまんできる?』っていったら、〇〇さん、笑ったの」

 娘がもっと小さいときは、毎日、本当にぎりぎりだった。私の研究室にも夫の研究室にもベビーベッドを置いていて、娘が体調を崩すと研究室に連れて行って仕事をしていた。
 病気の娘を仕事場に連れて行ったと話すと、「病気のときはまずは連絡してね。できることはやるからね」とそのひとはそう言ってくれた。本当にどうしようもないときに、病気の娘を預けて仕事が終わって駆けつけると、「お水をたくさん飲んでご飯も食べたから、何も心配いらないよ」と言って、私のことを安心させた。
 私がもらったものは大きくて、私が直接、返すことはできないのだろう。だから、やってもらったひとつひとつを覚えておいて、いつか私はほかの誰かに返すことしかできない。
 そんなことを思いながらいつも帰る。