人生につける薬

第6回 
人は世界を〈物語化〉する方法を変えることができる

〈物語化〉の方法は人類共通だが、人によって傾向が違う

 

 「黒子のバスケ」脅迫事件の超偶然

・「ほんとうに起こるかと言われたら、(案外)起こるかもな」と思うこと

・「作り話だけど、ほんとうらしいな」という納得感を持つこと

 このふたつのあいだにはズレがある、という話が前回出ました。そこで思い出したことがあります。

 

 藤巻忠俊の人気漫画『黒子のバスケ』(集英社)をめぐって、2012年から翌年にかけて、大きな事件が起こりました。

 「喪服の死神」「黒報隊」「怪人801面相」と名乗る人物が、『黒子のバスケ』作者の出身高校・大学、関連イヴェント(同人誌即売会を含む)の会場、アニメの放送局、グッズの製造元・小売チェーンに毒物を送付し、大量の声明文・脅迫状を送ったのです。

 イヴェントの中止も多く、被害総額は莫大なものとなりました。

 

 この一連の事件の最初の一歩は、作者・藤巻さんの母校・上智大の男子バスケットボール部の練習場所で、藤巻さんを中傷する文書と併せて硫化水素を発生させる容器が発見されたことです。

 その第一発見者となった同部マネージャーは、偶然にも『黒子のバスケ』主演声優の妹だったそうです。

 もしこれが17世紀フランスの劇だったら、古典主義者に、

「いくらなんでも偶然がすごすぎて、納得感がない」

と言われてしまうでしょう。

 

 モンタージュで因果関係を作り出す

 こういった大きな事件をTVのワイドショウが取り上げるさいに、容疑者や被害者の学校の卒業アルバムが大写しになったり、中学時代の作文をナレーターが読み上げたりすることがあります。

 ウェブ上のソーシャルメディアでの発言が取り上げられることもあります。

 容疑者の写真や文章が取り上げられるときには、因果関係っぽい納得感を作ろうとしているのではないでしょうか。少年期の作文に、後年の犯罪の萌芽のようなものを見つけたくて、番組制作会社も視聴者もうずうずしているように見えます。

 事件が「どういった事情で」起こったか(因果関係)を知りたい。これはストーリーに飢えている脳の本能的な事情、つまり人情というものです。

 これにたいして番組が提供するのは、事件がなんのあとで起こったか、という情報(前後関係)です。

 ただの前後関係を、ナレーションやカット割り、音楽といった演出によって、なんとなく原因の説明に感じられるように、つまりなんとなく少しくらいは事件が「わかった」気がするように、並べてみたというところなのかもしれません。

 

 〈物語化〉する作業

 心理学者ジュリアン・ジェインズは、脳の自動的な機能として、物語化という概念を提示しています。

 

〈自分の行動に原因を割り当てること、すなわち、特定の行動をとった理由を述べることは、すべて〈物語化〉の一部だ。そうした原因は、理由としては正しい場合も誤っている場合もある〉

〈泥棒は己の行為を貧しさのせいにし、詩人は美のため、科学者は真実のためと理由づけ、〈物語化〉をする。目的と原因は、意識の中で〈空間化〉される行動にしっかりと折り込まれる〉

(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』第1部第2章、柴田裕之訳、紀伊國屋書店)

 

 私たちはこのように、自分の人生物語(ライフストーリー)の主人公として、自己をイメージしています。それだけでなく、意識のなかにあるすべてのものは、〈物語化〉されてしまいます。

 

〈ある孤立した事実は、ほかの孤立した事実と適合するように〈物語化〉される。
 子供が通りで泣いていると、私たちは心の中でその出来事を、道に迷った子供とその子を探している親の心象に〈物語化〉する。
 ネコが木に登っていると、その出来事をイヌが猫をそこまで追い詰めている心象に〈物語化〉する〉

(引用者の責任で改行を加えました)

 

 〈物語化〉とは、じつはいわば仮説の形成なのです。

 そして、なにか事件を起こした当事者も、それを見ている目撃者も、それを裁く裁判官も、事件のなりゆきを〈物語化〉するのです。そうしないと納得感(理解できたという感じ)がないのです。

 

 〈物語化〉のばらつき

 〈物語化〉の方法の基本(前後関係を因果関係にすりかえる、などの傾向)はおおむね人類共通ですが、人によって傾向が違っています。各人に違ったバイアスが違った強さでかかっています。

 人間は、まだ情報を持たない幼少期に世界観を形成し、その世界観が変更されぬまま、当人にとりついていることがあります。いわば、幼年期の独自な世界解釈である偏った一般論=〈格言〉群を、正しいものと思いこんでしまうのです。自分の世界観(認知)ではなく〈客観的〉な事実だと思いこんでしまう。

 僕もじつは、30代の終わりまで、そういう偏ったストーリーを生きていました。

 人間はひとりひとり、世界をどう見るかにはばらつきがありますが、とくに極端な世界観を持っている人のばあい、幼少期に形成した世界解釈(〈物語化〉)の方法が、年齢を重ねても修正されずにきた──ばあいによっては、その後の経験によって偏りが強化された──可能性もあるでしょう。いわゆる「認知の歪み」です。

 ただでさえそれはなかなか生きづらいことです。

 さらにそれが被虐待児(幸いにして、僕はそれには該当しませんが)だったばあい、その子の持つ世界観=〈格言〉群は、自分はこの世界にまったく受容されていない、ということを前提とした、かなり偏った自罰的・悲観的な解釈装置となるのではないでしょうか。

 もしその世界観・一般論・格言が、その後年齢を重ねても修正されなかったならば、その人は長じてなお、自分が作り出したストーリーによって、自分を苦しめてしまうことになります。

 

 冒頭陳述と「ウェブ世間」

 『黒子のバスケ』脅迫事件では、2013年12月、渡邊博史という元派遣社員が逮捕されました。

 渡邊被告は翌2014年3月の初公判に用意した冒頭陳述で、以下のように犯行動機を説明しています(以下引用は被告の自伝『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』創出版、第2章から)。

 

 〈自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。〔…〕自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。〔…〕自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
〔…〕その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました〉

 

 冒頭陳述は、被告が自分の言葉で書いたものです。自分がなぜこの犯行に及んだのかを、自分で書いています。

 にもかかわらず、この冒頭陳述は、世間が自分をどう思っているか、ということを想像して、そっちのほうを書いてしまっているように読めるのです。

 

〈自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと
 「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」
 ということになります〉

(引用者の責任で改行を加えました)

 

 自分はたんなる不遇感の強い人物であり、犯行は成功者への妬みである、というのです。〈人生オワタ〉という(ある年代以上の人が使う)ネット方言を使って、自分を「三人称」的に記述しています。

 ここには、自分がどう感じるか、といったことよりも、世間(といってもそれは被告が垣間見たウェブコミュニティ、というか「ウェブ世間」のごく一部)が自分のことをどのように解釈するか、ということだけを想像して、それが自分だ、と思ってしまったわけです。

 

 しかしその後、被告は差し入れられた本、高橋和巳医師が「被虐鬱」の臨床経験から著した『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』(筑摩書房)を読み、自分の行動の動機を解釈しなおします。

 『消えたい』のなかで、高橋医師はそういう幼児期の虐待を経て成長した人を〈異邦人〉と呼びます。

 〈異邦人〉が抱える生きづらさの根源には、彼らが幼少期に形成した世界観(一般論・格言)があります。この連載での用語でいうならば、彼らは、自分が主人公である人生物語(ライフストーリー)を、悲観的・自虐的にしか構成できなくなるのです。

 

 最終陳述はライフストーリーを変更した

 被虐鬱の概念を知った被告は、7月の公判における最終陳述では、冒頭陳述の説明を撤回し、みずからの幼少期の、家庭での虐待と、学校でのいじめについて語りました。

 被告はもちろん、そのことをもって自分を許すべきだ、と主張したわけではありません(人を「許さない」ということは法律以外ではほんとうは不可能なのですが、こういった倫理の話はいずれべつの回に)。

 最終陳述の被告は「なぜ自分が犯行におよんだか」だけでなく、それ以上に「なぜ自分が冒頭陳述でうまく自己を開示できなかったか」を、驚くべき精度で説明しています。

 

〈新しい検事さんによる最初の取り調べで、「あなたの人生は不戦敗の人生ですね。それがつらかったんでしょう」と言われました。
 自分はその一言がきっかけで気がついたのです。
 自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったのではないのです。この世の大多数を占める「夢を持って努力ができた普通の人たち」が羨ましかったのです。
 成功した人たちはすなわち努力した人たちです。自分は「夢を持って努力ができた普通の人たち」の代表として「黒子のバスケ」の作者氏を標的にしたのです〉

 

〈自分が一連の事件を起こした動機は、
「自分を存在させていた〔…〕『漫画家を目指して挫折した負け組』という設定を再び自分で信じ込めるようにするため」
 です。自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったのではなかったのです。底辺で心安らかに沈殿して生きることを「黒子のバスケ「の作者氏に邪魔されたと感じたのです。自分は静かに朽ちて行きたかっただけなのです〉
(引用者の責任で改行を加えました)

 

 冒頭陳述の物語は、被告が「被虐鬱」で歪んだ認知(世界観)をつうじて書いたから、被告自身の内実をうまく表現できず、ウェブコミュニティという「世間」が自分をどう見るかを想像し、あるいは事件進行中・逮捕後にネットで事件がどのように取りざたされているかを参照して、それを追認する形で書かれていました。

 いわば、学校のクラスで紛失事件があったときに、まだだれが犯人かわかっていない状態で、クラスメイトたちが、

「こんな盗みをするのはきっとこんな奴にちがいない」

と噂しているのを、盗みの犯人である生徒が小耳に挟んで、

「そうだ。まったく自分はそういう奴なんだ」

と心密かに追認してしまう、という感じ、でした。

 

 それが最終陳述では、自分がどう「感じた」のか、ということを、メタな視点で再構成しています。

 犯行の当事者が語っているにもかかわらず、冒頭陳述と最終陳述とでは、犯行動機の説明がまったく違っているので、読んでいてびっくりします。

 では被告は、冒頭陳述では嘘をついていたのでしょうか? あるいは隠しごとをしていたのでしょうか?

 そうではなく、読書を経て、被告は自分自身の動機解釈が偏っていたこと、そして自分を苦しめていたのは自分で紡ぎ出したストーリーだったということに気づいたのです。

 

 いや、ひょっとすると、冒頭陳述も「ひとつの仮説」として正解であり、最終陳述もまた「ひとつの仮説」として正解なのかもしれません。どちらにしても、仮説は仮説です。

 なにしろ、裁判での陳述というものはつねに、「ストーリー」の形で「物語る」以外に、提示の方法がないからです。