ちくま新書

インディアンとカジノ

アメリカの光と影

はじめに


 この本は、アメリカ合衆国に居住するインディアン部族のカジノ・ビジネスについて、その歴史と現在を探るものである。
 アメリカは「移民の国」といわれる。建国以来、さまざまな国や地域からアメリカン・ドリームを求める人々がアメリカの地に降り立った。二〇一七年に誕生したドナルド・トランプ大統領がイスラム圏からの移民を制限し、メキシコ国境に壁を建設しようとするのも、人々の流れが今でもアメリカに向いているからである。トランプ大統領自身もドイツ系移民の子孫であり、歴代のアメリカ大統領四四人のすべてが、アメリカへの移民か、あるいはその子孫である。たしかに移民の国とは、アメリカのひとつの姿を的確に表しているのかもしれない。
 しかし、アメリカの歴史そのものを、この地に根を張って見続けてきた人々がいる。本書の主人公、「インディアン」である。彼らはアメリカの存在する大地に、長く根を下ろしてきた「先住民」である。アメリカがインディアンの土地の上に建国されたという事実は、移民の国という歴史物語からは見えづらい。
 先住民という言葉を聞いて、何を思い浮かべるであろうか。日本の「アイヌ」、オーストラリアの「アボリジニ」、ニュージーランドの「マオリ」、あるいは中国やインドの無数の少数民族。こうした先住民はもともと、大地に根差した豊かな社会を築いていた。大地を崇め、自らもその大地の一部として生きる人々である。
 彼らは先住民であるがゆえに、近代以降、身体的・精神的な虐待を受けてきた人々でもある。国家の建設の過程で先住民は土地を強制的に奪われ、生きる糧を失い、社会的な周縁に追いやられてきた。人口は激減し、残った人々は保留地と呼ばれる辺境の地に追いやられ、貧困や差別のなかを生きてきた。国家史という歴史物語のなかでは、その存在自体が国家建設の大きな矛盾として消され、その実態は社会の目から遠ざけられている。インディアンも、そうした世界の先住民と共通の歴史を刻んでいる。
 インディアンは「絶滅した人種」でも「復活したマイノリティ」でもない。土地を基盤とした部族史を縦軸に、スペイン、フランス、イギリス、オランダ、そしてアメリカといった植民地国家やさまざまな出自の移民との接触を横軸に、脈々とその歴史を紡いできた。こうした複雑なタペストリーを、先住者と侵略者の二項対立でひもとくことは不可能である。
 では、インディアンはいかに生き残ってきたのか。現在のアメリカ社会で、この問いに最も分かりやすいかたちで糸口を与えてくれるのがインディアン・カジノである。
 一九九〇年代以降、カジノを建設するインディアン部族が急増した。高層ホテルやショッピングモール、映画館や会議場を併設した総合エンターテインメント施設を所有する部族もある。
 現在、全米で約二四〇もの部族が、五〇〇件以上のインディアン・カジノを経営する。およそ二〇年で、その総収益がアメリカの商業カジノの収益を上回ったことからも分かるように、インディアン・カジノ産業は、二〇世紀から二一世紀にかけてのアメリカで急成長したビジネスの一つといってよい。

†インディアン・カジノ時代とは何か?

 本書では、インディアン・カジノ産業が本格的に発展した一九八七年から現代までを「インディアン・カジノ時代」とする。
 カジノ産業とは、カジノから連想されるビンゴやスロットマシーン、ブラックジャックやポーカー、ルーレットなどの「賭け事」に加えて、カジノ客の利用するレストランやホテル、ガソリンスタンドやショッピングセンターも含めた複合商業施設を意味する。端的に言えば、インディアン・カジノとは「保留地には州の税制や法制度の適用が制限される」という経済活動上のメリットを最大限に生かし、個々のインディアン部族が保留地で独占的に展開する保留地ビジネスの一つである。
 とはいえ、わずか三〇年たらずで急成長を遂げたこの産業の歴史や仕組み、実態についてはよく知られていない。インディアン社会への浸透度やその経済的成功の半面、インディアン・カジノは、アメリカ社会から、また、インディアンに関心のある人々から、冷ややかな視線を浴びてきたことも事実である。
 筆者が見るかぎり、その冷ややかさは二つの視点からくる。一つ目に「資本主義にどっぷりつかり、経済的な成功を収めたインディアン」に対する、圧倒的な違和感である。カジノ産業を経営する部族のなかには、その生活環境を向上させるのみならず、新たな保留地産業に投資するなどしてさらなる収入を得る部族や、寄付や地域貢献などによって地域政治や国政への発言権を高める部族もある。巨額の利益を部族成員個人に分配し、月に数万ドルの収入を得る「リッチ・インディアン」さえ生まれた。
 当初、インディアンの享受した経済的利益ばかりが注目され、「大金を手にした幸運なインディアン」「金に目がくらんで伝統的生活を捨てたインディアン」と揶揄する記事が出回った。人々は、「貧しくても自然を愛する」インディアン像を好んだのである。
 二つ目に、カジノ産業に対する批判がある。カジノ大国といわれるアメリカでも、カジノ産業に対する批判は根強い。怠惰なインディアンは、自分たちがつくったカジノに自分たちが入りびたり、わずかばかりの収入をギャンブルで散財しているのであり、インディアン・カジノは、インディアンに、働くことではなく安易に金を手に入れさせる方法を与えたに過ぎないといった意見も出てきた。
 カジノ部族が収益金を保留地の土地の購入に充てはじめると、批判は一層激化した。保留地近辺の非インディアンのコミュニティは、保留地が無作為に拡大することに対する反発を強めた。それは同時に、インディアン・カジノが無作為に拡大することに対する脅威でもあった。
 こうした二つの態度が合わさり、「伝統的な真のインディアンは、カジノ産業になんて手をださない」といった社会的な視線を生んできたこともたしかである。
 筆者の考えでは、インディアン・カジノ産業を「たやすい金儲けの手段」とし、それに従事する部族を「資本主義にそまった先住民」と冷笑するのは、インディアンの歴史にあまりにも盲目的な態度である。また、インディアン・カジノ時代の評価を、カジノ産業への賛否の議論に収束させてしまうことは、インディアンの存在そのものに蓋をし、彼らを再び歴史の周縁に追いやりかねない。
 たしかなことは、インディアン部族は、その政治的・法的な当然の権利として、保留地での自治と自由な経済活動が尊重され、そこで健康で安全な生活を送れなければならないということである。インディアン・カジノ時代は、部族がその当然の権利を行使することによって出現した、インディアン史の新たな時代である。

†なぜ、インディアン・カジノ時代を考えるのか

 インディアン・カジノ時代が私たちに示すのは、単なるインディアンの経済的な成功の物語ではない。真に見えてくるのは、それまで解決されることのなかった、インディアンの圧倒的な貧困である。そしてその貧困をもたらした、五〇〇年にわたるインディアンと非インディア ンの関係史そのものである。
 同時に、インディアン・カジノ時代は、インディアン社会の社会史的・民族史的な描写のみで説明されうるものではない。そこから見えてくるのは、アメリカ先住民としてのインディアンの地位、先住民の部族主権とアメリカ連邦制の矛盾、部族と州・連邦のゆがんだ関係でもある。アメリカを理解するために多くの研究が蓄積されてきた。インディアン・カジノとは、こうした議論のすべてが結集したテーマである。
 本書の第一の目的は、インディアン・カジノ時代とは何か、明らかにすることである。そのため、まずインディアン部族とアメリカ国家、両者の関係史をひもとき、インディアン・カジノ時代をもたらした歴史的・社会的背景を述べる。
 第二の目的は、インディアン・カジノ時代にインディアンがどのように変わったのか、同時代のインディアン社会の実態を明らかにすることである。現代のアメリカで、インディアンはいかなる問題を抱え、何を達成しようとしているのだろうか。

†本書の構成

 インディアンに馴染みがない読者のために、第一章は「インディアンとはどのような人々なのか」について、その呼称、生物学的な由来、社会体制、居住地、政治体制の概略を示す。
 二〇一九年現在、アメリカが承認している「連邦承認部族」は五七三存在する。こうした部族は、かつて住んでいた広大な土地をアメリカに譲渡する代わりに「保留地」と呼ばれる居住地を約束されている。アメリカ国民にさえあまり知られていないが、二八州に分布する二〇〇以上の保留地は、連邦・州の管轄から除外され、部族の自治権が行使される領域である。すべての部族は、保留地という土地基盤を持ついわゆる「自治国家」として位置づけられている。
 インディアン・カジノの歴史を知るには、なぜインディアン部族が自治国家であるのか、それを作り出してきたインディアンとアメリカの関係をさかのぼって探らなければならない。第二章ではその歴史的背景として、「アメリカの良心」について述べる。
 移民の国アメリカの歴史物語のなかで最大の矛盾は、言わずと知れたインディアンの存在である。アメリカは先住者であるインディアンの土地の上に建国され、インディアンの土地に向かって拡大していく運命にあった。重要なのは、この若い民主的国家にとって、土地はインディアンから正当な手段で入手しなければならなかったことである。そこでアメリカは、インディアン部族と条約を締結して土地を入手する代わりに、部族に「自治」と「保留地」を約束してきた。欺瞞的にであれ、人道的にであれ、アメリカが宿命的に抱えなければならないこの「良心」が、建国期から現代までの同国のインディアン政策を支えるのである。
 第三章でみるように、この「アメリカの良心」は、以後、さまざまな変節をたどることになる。一八世紀から二〇世紀にかけてアメリカのインディアン政策は、その良心を喪失し、インディアンに対する身体的・精神的暴力を継続させてきた。その先にあるのはインディアンの貧困である。二〇世紀後半になると、インディアンの救済措置は「時代遅れな福祉依存」の象徴として批判の対象とさえなるのである。
 一九八〇年代、この状況から抜け出そうとインディアン部族によって考えだされたのが、第四章で扱う、カジノ産業である。部族は自治権を持つ保留地において、州や地方自治体の干渉を受けずに経済活動を行うことができる。カジノ・ビジネスは、自治国家としての特殊な地位を利用した、インディアン部族による保留地ビジネスの大成功例となった。
 第五章では、インディアン・カジノ産業をもたらした制度的側面について述べる。保留地におけるカジノ産業発展の基盤をつくったのが一九八七年のカバゾン最高裁判決と一九八八年のインディアン・ゲーミング規制法である。カジノ産業を誘致した部族は、その収益を医療、教育、インフラ設備の充実化、地方自治体や政党への寄付など、さまざまな用途に使用することで、その生活環境、社会的地位、政治的発言力を格段に向上させた。インディアン部族は保留地で、皮肉にもアメリカ人の落とすお金によって大成功を収めたというわけである。インディ アン・カジノが「インディアンの逆襲」といわれる所以である。
 カジノ産業は、経済的な成功をもたらしただけではない。第六章、第七章で述べるように、部族の文化的自決権を確実に高めている。これは、部族の文化的活動、記憶や遺産の管理、家族やアイデンティティといった社会体制や精神的支柱を部族が担い、承認し、守る権利である。インディアン・カジノ時代の部族は、経済発展を基盤として、これまでアメリカ社会のなかで 奪われてきた最大のもの――文化的自治を復興する取り組みをはじめている。
 第六章では部族ロゴを巡る部族の文化的決定権について、第七章では、家族と記憶を守る部族の文化的決定権について考える。こうした文化的自治こそが、インディアン・カジノ時代における「インディアンの逆襲」の真の姿かもしれない。
 第一章から第三章まではインディアン史の概説として、第四章から第七章はインディアン・カジノ時代の概説として、読んでいただける内容となっている。
 本書では、インディアン・カジノを、インディアン保留地内で自治権を持つ部族がカジノ法(第五章)の下に行うカジノの意味で用いる。通常アメリカでカジノとは、各州法の規制下で行われる営利目的の商業カジノ(ラスベガスに代表される)を意味する。一方、インディアン・カジノは商業カジノとその行為・形態はほぼ同一であるが、収益の用途が広義の「部族の福祉」に限定されているという点において商業カジノとは異なる。なお、英語ではインディアン・カジノはインディアン・ゲーミング(indian gaming)と表記されることが多いが、本書で は日本語として浸透している「カジノ」を用いる。
 私は一九九七年以降、旅行者として、留学生として、研究者として、そしてそこに住む人々の友人として、さまざまなインディアン保留地に通い続けてきた。私を成長させてくれた保留地も、この二〇年間で大きく変容した。
 かつてアメリカ社会の最底辺層に位置づけられてきたインディアンたちは、今、この辺境の地に建てられた巨大なカジノ施設を見渡し、過去とはまったく異なる景色を見ているはずである。その年月、彼らの見てきた景色はどのように変化してきたのであろうか。
 そして今、「逆襲」のさなかにある彼らは、一体何を見つめ、どこに向かっているのであろうか。それを知るために、私はインディアン・カジノを巡るインディアンとアメリカの歴史と現在を書いてみようと思う。

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