高橋 久美子

第17回
柿泥棒

絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。また12月18日には待望の詩画集「今夜 凶暴だから わたし」をミシマ社から刊行されます。

 
 桜新町の駅に、いつものリュックサックを背負って優子がやってきた。
「小鳥―!! もー。新宿まで来てくれるっていうてたやん」
「ごめんごめん、完全に寝てしまってたー」
 半年ぶりに会う優子は、なんだかちょっと顔が丸々とした気がする。チワワがプリントされたスエット上下でこの街を歩くのはやめてほしいけれど、それは後で言うことにしようと小鳥は思った。優子が来てくれたのが本当は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
「へー。今度の街はなんか小綺麗やなあ。あんたの前おった、稲田堤やったかな。あそことは全然ちゃうやん。あっちはなんや大阪みたいで、あんたにようおうてたのにな」
「サザエさん通りの方へ行ったらもうちょっと下町風情やけどな」
  と言ったけど、優子は殆ど聞いてない。いつものことだ。早朝の弦巻通りを歩きながら、お構いなしに関西弁を撒き散らす優子を見ていると、自分が少しずつ東京に染まってきているのがわかった。恥ずかしいと思ったことなんてなかったのに、通り過ぎる人々の眼差しを痛いと感じてしまう自分が嫌だった。大声で笑って喋り続ける優子を引き連れて、動き始める社会の流れとは逆走して家へ帰る。スーツ姿の男たちが怪訝そうな顔で二人を見るが、やっぱり優子は気づいてない。
「高速バス疲れたやろ?」
「それがな、もうな、目つむって気がついたら新宿だったんやって。すごいやろ。ぎりぎりまで病院おってバス乗り込んだら、爆睡やわ。よー寝たでー」
 こう見えて優子は看護師だった。しかも病院内では大人しめだという。
「最近うち走ってるやん? そやから夜行バス乗っても全然足むくまんようになってん。あんたも走り。じーっと座ってパソコンばっかり見てたらあかん。やっぱな、ふくらはぎの筋肉つけな。第二の心臓や。あと股関節な。寿命ってここの筋肉量に比例してるらしいで。うちのばあちゃんに聞いたから嘘かもしらんけどー」
 そう言うと空に向かって豪快に笑った。銀歯が太陽にキラキラ光って、美しいとさえ思った。優子はいつもそうだ。自分の好きなときに笑って、嫌なことにはちゃんと怒って、幼馴染で同じように育ったのにやっぱり自分とは体の作りとか神経の作りとか、いろいろと違っていた。
「ほれ」と言って優子はズボンの裾をめくってふくらはぎを見せた。むっちりしたハムみたいな足、高校時代よりは痩せたように思うが、むくんでないのかどうかはわからない。
「えー。すごいなあそれ。高速バスなんかもううちは絶対に無理やもんな」
「そらお金がありましたら、こういうとこに住みまして、ほしてJALでぴゅーと行きますけどー。おーほほほほ」
「もう、恥ずかしいからやめてー」
 と小鳥も笑った。
 大通りを左に入ると、住宅街になって所狭しと家やマンションが立ち並ぶ。軒先に外車が止まった高級住宅の間を小鳥はいつも息を潜めて歩いた。でも今日は優子がいるから違う。優子はまるで美術展にでも来たかのように、いちいち家々の前で立ち止まり車やら門構えやら植物やらをチェックし感想を述べるので、恥ずかしくて、手を引いて先を急がせた。
「なあ、みんな柿取ってないな」
「わかるー。それな」
「こんな敷地狭いのに、みんな柿か八朔かゆずを植えてんのやな。ほんで柿は全部落ちてんのやな。もったいないわー。あれ、もらわれへんのかなあ」
 優子が塀から赤い実を覗かせた柿の木の前で動かなくなった。ジャンプするが届かない。確かに、もったいない。何代か前の住人が植えたのだろう、五軒に一軒の割合で柿の木が植わっている。そのどれもたわわに実ったまま熟して落下していた。カラスが寄ってきて食べている木もある。
「ピンポンして、ちぎってええですかって聞けばくれるんちゃうの?」
「いやいや、やめてよそんなん。変な人だと思われるし」
「えー。でも買ったら柿って今高いでー。二つで三百五十円はするで」
 昔から優子は柿が好きだった。小学校の帰り道いつも山柿を取っては二人食べながら歩いた。熟した柿を皮ごとかじって、ぺっぺと皮だけ吐き出しながら歩くのが好きだった。あの頃は全部もらったり山で取ったりしていたというのに、もはや人と関わってまで、ただで食べようとは思わなくなっていた。人と関わる煩わしさを想像すると、買って食べる方が何倍も楽だった。

 マンションに帰ると、夫が会社へ出かける用意をしている。土曜日は休みなのに、わざとらしいなと思った。
「おはようございます。朝からすみません。今日からしばらくお邪魔いたします」
 優子が他人行儀に挨拶をし、土産の日本酒を渡した。
「ああ、優子さん、結婚式のときはありがとう。僕、急な仕事が入っちゃってお構いできませんけどゆっくりしてください」
 形だけの会話を済ませると智洋はそそくさと出ていった。
「なんか三日も泊めてもらうのやっぱ悪かったんやないの? 怒ってる感じしたけど大丈夫やろか」
「大丈夫やって。うちらは柴田理恵とまちゃみみたいな関係やからって結婚前から言うてるんやし。柴田理恵の家にはまちゃみの部屋あるらしいで。やからな、家の座敷はあんた専用の部屋よ。いつ泊まりにきてもいいの。私がそうしてほしいもんな」
「あかんで、そんなん旦那さんの前では言うたらダメやで?」
 もう遅い。喜々として何回も話してしまった。その辺りからだ。結婚前と智洋は変わってしまった。冷たくなったというか、同居人という感じになってしまった。
「ほらー。来て来て。あんたの部屋。布団も干して掃除しといたで」
「うわー。すごいー。主婦してるなあ。ありがとう」
 二人はぴかぴかに掃除された座敷で、お土産に持ってきてくれた赤福を食べて朝ドラを見て、そのまま王様のブランチを見ながらしばらくごろごろした。そのうち座布団を二つ折りにして、寝そべりながら既に電話で何百回もしている実家の話なんかを初めてのように話し合った。

 昼からは、銀座をぶらぶらしてみた。老舗の喫茶店はドリンク一杯の値段が想像の範疇で高かったが、メニューをよくよく見ると、〈おかわり自由〉と書き添えられている。金持ちはやっぱり粋なことをするもんやなあと優子が言った。こうなりゃ、もう一杯是が非でも飲みたい。でも予約した寄席が始まる時間が迫ってきていた。やめときゃいいのに、やっぱり二人はおかわりをした。そして舌を火傷するくらい急いで二杯目のカフェオレを飲んで、大笑いしながら浅草へ移動した。高校時代に戻っていけばいくほどに、優子が帰ったあとの時間が怖かった。
 寄席は、夕方四時半に始まって、既に三時間が経過していた。プログラム通りにいくともうすぐ林家ペーが出てくる。正直いって、ペーさん以外は誰も知らないので、二人はペーさんを見たら帰ろうということになった。
 しかし、皆同じことを考えていたのかペーが終わると、ただでさえ三分の一しか埋まってなかった客席が、全員の顔を覚えられるくらいになってしまった。
 寄席が五時間もあるとは思ってもみなかった。カフェオレをおかわりしておいて良かった。最後の「井戸の茶碗」という演目は抜群に面白くて、残って正解だったなと思った。二人は興奮気味に寄席を出るとファミレスでご飯を食べて終電間近の電車に乗り込んだ。桜新町駅に着く頃には深夜十二時近くになっていた。
 駅前に止めた自転車に二人乗りすれば街の風が変わるのを感じる。いつだって運転するのは優子の役目だった。
「なあ、柿食べたいなあ」
 気づくと今朝と同じ場所で優子は止まっていた。
「そやな、いずれこれも腐るだけやもんな」
「なあ、ちょっと取ってきてみるわ。このマンションの柿の木だったらわからんやろ」
 優子は、自転車を止めると、大きなマンションの庭に植わった柿の木の下に立った。思ったより柿の木は高くて、まったくもって届かなかった。よじ登ろうとするが、夜中にこれはさすがにまずい。
「警察がたまに巡回してんねんで、この辺。やっぱやめときよ」
「あー、高枝切りばさみがあったらなあ」
 悔しそうに優子はまた自転車を漕ぎ出した。家に帰ると、既に智洋は寝ていた。いつもなら一時頃まで起きているくせに。
「アマゾンで買ってみたらどうだろう?」
 と優子が言った。何が? と思ったら高枝切りばさみのことだった。優子はいつだって執念深い。好きな人には二度でも三度でも告白するし、インターハイをかけたバレー部の最後の試合では、小指を骨折していたのに最後の最後までトスを上げ続けて優勝をもぎとった。そして小鳥だって負けず劣らず執念深い女だった。その隣でアタックを打ち続けてきたのだから。思えば小学校の頃から、優子の上げてくれたトスを打ち続けてきた。
「そやな。アマゾンプライムだったら明日には届くで」
 二人は高枝切りばさみをポチッとした。


 優子が帰る日の早朝、二人は住宅街を、高枝切りばさみと脚立を抱えて歩いた。まるで朝練みたいだねと優子が言った。朝六時とあって、まだ人々は寝静まっている。
「普通にな。普通に。堂々としてたら何も怖いことあらへん」
 自分に言い聞かせているように優子が言った。
「そやな、普通に。普通に」
 小鳥も優子の後ろを小走りでついていく。
 スーツ姿の中年男性とすれ違うが脚立にも仰々しいはさみにも気づくこともなくスマホをいじりながら通り過ぎた。自転車に乗った学生も駅を目指し一目散に走っていく。野球部あたりの朝練だろうか。斜めがけした大きなバッグを自転車の荷台に乗せた姿は、自分たちの頃から変わらなくて、懐かしかった。それぞれの朝が足早に通り過ぎていった。この人達が今そうであるように、自分も今まで誰のことも見ていなかったのだと小鳥は思った。
  警察に声をかけられたときはこう言おう、住民に怪しまれたらこうしようと綿密に計画を立てていたのに、拍子抜けするほど誰も見てはくれなかった。殆どの人はここに柿の木があることにも気づいていないのだろう。マンションの住民やオーナーさえも柿を買って食べているのかもしれないと思った。
 マンションの柿の木はしんどそうに枝をしならせて鈴なりに実をつけていた。優子は植木業者になりすまして脚立を立てその上に登って物干し竿みたいなはさみで柿に狙いを定める。柿の一メートルほど先の二階の部屋からは、電気カミソリの音が響いている。その隣ではトントンと野菜を切る音が聞こえて、人々の一日が始まろうとしていた。小鳥は何だか胸がぎゅっと熱くなるようだった。
 ドサッと音を立ててファースト柿が地面に落下した。
「ちょっと! やばいやばい。キャッチ機能あったやろ?」
 小声で優子に注意する。もし誰かがベランダに出てきたら試合終了だ。優子はぺろっと舌を出して謝ると、何度か実のついてない枝先を切ってキャッチ機能の練習をした。そしてそこからはプロみたいにスムーズに柿を切り始めた。はさみで切ってはユーフォーキャッチャーみたいに小鳥の頭上まで柿を運び、小鳥はそれを紙袋の中に収めていく。
十分ほどで紙袋はいっぱいになった。
「なあ、もうええんちゃう? 小鳥んちもこんなに柿あっても腐るだけやろ?」
「ええ? ここまで来たらもっと取りたいわ。ほんであんた大阪持って帰ればいいやん」
「まあなあ」
 今度は小鳥が脚立に登って柿を取る。同じようにキャッチ機能を練習して、柿を取りはじめると楽しくて楽しくて夢中になってしまった。長い枝の先にぶら下がった柿は思いの外重くて、二ついっぺんに切れてしまったときなんかは落としそうになる。
「はよはよー。はよ取ってー」
  笑いを殺しながら、優子の手元に確実に柿をまわす。手の感覚が懐かしかった。真面目くさった顔で優子は柿を袋に入れた。
 インターハイを勝ち取ったあと、優子はすぐ病院に運ばれドクターストップを受けた。お陰で肝心のインターハイは一回戦負けだった。何度も何度も監督に食い下がって、自分は出られると訴えたが叶うわけがなく、優子はベンチで地団駄を踏みながら声を出し続けた。あれを最後に二人ともきっぱりバレーとはおさらばして、優子は看護師になって小鳥は結婚して大阪を離れた。
「もうえんちゃうの。あんた智洋さんのご飯は? 大丈夫?」
「うん、ほな帰ろか」
 改めて柿の木を見上げてみると、どこを取ったかわからないくらいにまだまだ実っていた。帰り道、すれ違う親子や小学生たちも、誰も自分たちを見るものはいなかった。「自意識過剰やったな」と優子が言って何が可笑しいのかわからないが二人は終始にやにやと笑った。
 帰ったら、智洋は出かけた後だった。
「なあ、あんたらうまくいってんの?」
「ああ、うん。どうだろなあ。柿は間違いなく一緒に取ってくれんな」
「まあ、それできる旦那やったらうちも結婚したいわ」
 と言って優子はケタケタと笑った。そして、玉入れの最後みたいに、袋の中から「いーち、にーい、さーん」と声を出しながら一緒に数えた。よんじゅにーと言って、顔を見合わせて大笑いした。まあよく取ったもんだ。可笑しくて可笑しくて、明日からを思うと泣けてきそうだった。さっそく優子が柿をむき始める。その間に、小鳥は昨夜タイマーにしていた洗濯を二階へ干しに行った。
 ベランダの上に広がる小さくて大きな空に羊の毛ような雲が連なっている。何かを成し遂げた朝は気持ちがいいもんだ。あの高枝切りばさみで来年は一人で柿を取りにいけるだろうか。優子なしでも。智洋のトランクスを持ったまま空に大きな伸びをしたとき、
「げげげー! 渋柿やー!!」
 という優子の叫び声がベランダを通り越して青空の向こうまで突き抜けていった。
「うそやー!」
 と笑いながら小鳥は階段を駆け下りた。

 優子がせっせと皮をむいて干してくれた四十一個と半分の干柿が新しいベランダに揺れている。我々の柿への思いがここに集結しているわけだが、渋を抜いてまで渋柿を食べようと考えた先人の執念はすさまじいものだと思った。生命力とはそういうことを言うに違いない。
 小鳥はパジャマのまま一口しかないコンロにやかんをかけ、何もない部屋で柿を食べた。干柿ってこんなに美味しかっただろうか。高級フレンチで食べた子羊のなんちゃらよりも、カウンターで食べた寿司よりも、ゴディバのチョコよりも自分達で取ってきて手でむき、干した食べ物は至極であった。部屋の広さが五分の一になったはずなのに、随分と広く感じるのはこの柿が美味すぎるのと同じことだ。何よりも自由が最高に美味しいのだ。
 あの夜、智洋は、干柿が並んだ靴下干しを見た瞬間、何かが吹っ切れたように別れを切り出した。反論もしないが言い訳する必要ももはやなかった。
 
 ――朝っぱらから電話が鳴った。
 どうせ優子が昨夜のメールを見たのだろう。相談する必要がない程にスムーズにゴールテープを切ってしまったから、この気持をどう説明すればいいかわからない。でもやっぱり優子の電話が嬉しかった。
「あんた、どうすんのやー。干柿ごときで別れて、あほか」
「あんたのせいやろー。目覚めさせたんはあんたや。あんたが教祖様やろ」
「干柿の教祖って。うれしないわ」
「まあ、あと四十個食べてから考えるわ。とりあえず、干柿食べにきいや」
「ほんまやな。ほな今度の三連休に行くわな。ほんで今どこにいんの?」
 大阪に帰った方が早い気がしたけど、何となく小鳥はまだここにいようと思った。優子くらいにゆるぎなく自分になるまでは、まだここで来年も柿を干そうと思った。

 

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