はじめての哲学的思考

第7回 相手を言い負かすための議論術

      ——でも、それはとてもむなしい

 前回、「あっちが正しいか、こっちが正しいか」という二項対立的な問いは、「問い方のマジック」であるというお話をした。「あちらか、こちらか」と問われると、人は思わず、どちらかが正しいのではないかという“マジック”にひっかかってしまうのだ。

 でも、とりわけ意味や価値について、あちらとこちら、どちらかが絶対に正しいなんてことはない。だから僕たちは、「あちらか、こちらか」じゃなく、「あちらも、こちらも」、どちらもできるだけ納得できる、もっと建設的な“第3のアイデア”を考え合う必要がある。そして繰り返し言ってきたように、哲学は、そのような深い“共通了解”を見出し合うための思考法を、2500年の長きにわたって磨きつづけてきたのだ。

相手を言い負かすための技

 さて、でも僕たちは、あまりにしばしば、“共通了解”を見出すのではなく、相手を言い負かすための議論をしてしまう。
 実を言うと、哲学はこれまで、この「相手を言い負かすための議論術」もまた、豊富に積み上げてきた。力強い思考法を探究するのが哲学である以上、それは当然のことだったと言える。古代インドの哲学者たちは、負けた者が殺される、文字通り命がけの論争さえ行っていたという。

 そこで今回は、この「相手を言い負かすための議論術」の極意を皆さんにお伝えすることにしたいと思うのだけど、結論から言えば、僕はこれを、ひどくむなしい、正直言って哲学の名に値しない論法だと考えている。何度も言うように、哲学は本来、相手を言い負かすためのものではなく、“共通了解”を見出し合うためのものであるはずだから。
 でも、今回はひとまず、哲学がその歴史の中でどんな議論を繰り広げてきたかを知ってもらうためにも、この「相手を言い負かすための議論術」についてお話ししたい。そして次回は、これを打ち破るための、もっと原理的な哲学的思考法をお伝えすることにしたいと思う。

 相手を言い負かすための、一見無敵の議論術、それは哲学用語で「帰謬(きびゅう)法」と呼ばれている。ひと言で言うなら、相手の主張の矛盾や例外を見つけ出し、そこをひたすら攻撃・反論しつづける論法だ。
 古代ギリシアにも、古代インドにも、古代中国にも、およそ哲学が発達したところには、必ずこの帰謬法も発達した。
 たとえば、古代ギリシアでは10の帰謬法が体系化されたと言われている(アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式』参照)。また、大乗仏典の『認識と論理』という書には、16の帰謬法が紹介されている。くわしく論じる余裕はないけど、大乗仏教は、それ以前の上座部仏教(小乗仏教)を批判するために、帰謬法を駆使したのだった。
 現代にも、帰謬法によって論敵たちをバッサバッサと斬り倒していく哲学者は少なくない。一度マスターしてしまえば、帰謬法は面白いほど相手を破壊し尽くすことができてしまう技なのだ。

 もっとも、この論法は、もともとは相手を言い負かすための技と言うより、論理的に考えようとするかぎり、人びとがどうしても行き当たらざるを得ない論法だった。
 というのも、僕たちはどんな主張に対しても、言葉の上では、必ず何らかの矛盾を見つけ出し、反駁することができてしまうからだ。
“共通了解”を見出し合おうとする哲学にとって、それは致命的な問題だった。だから多くの哲学者は、この帰謬法をどうすれば封じ込めることができるか必死で考えてきた。
 でもその一方で、この帰謬法を、相手を言い負かすための無敵の論法として乱用した哲学者たちもいた。

無敵の帰謬法?

 帰謬法の主な技を紹介してみよう。
 まずは、「人それぞれ考えはちがう」という初歩的な技がある。
 たとえば、「人にやさしくするのはいいことだ」という主張に対して、僕たちは、「いや、やさしくされて迷惑だという人もいる」と反論することができる。「このコーヒーはおいしい」という主張に対して、「いや、おいしいと思わない人もいる」と反論することもできる。
 同じような技に、「時と場合によってちがう」というものもある。「人それぞれ」と同様、これも、例外をあげて相手の主張を相対化してしまう論法だ。

「放たれた矢は空間を移動する」という、ごくごく当たり前の命題さえも、帰謬法をもってすれば否定することができてしまう。
 実際、古代ギリシアの哲学者、エレア学派のゼノンは、「飛んでいる矢は止まっている」と主張した。「“今、この瞬間”から見れば、飛んでいる矢も止まってるでしょ」と。
 とんでもないへ理屈だ。でも、そう言われたら言われたで、「まあ、そうとも言えるか」と言えてしまえなくもない。
 要するに、見方を変えれば、僕たちはどんな命題だって否定することができるのだ。

 ちょっと高度な技に、「人間以外にはそうは見えない」という論法もある。
 これはけっこう面白い技で、というのも、実はこの論法をきっかけに、ヨーロッパの哲学がぐっと発展した側面があるからだ。
 第3回でも言ったように、たしかに、僕たち人間が見ている世界と、たとえばカラスが見ている世界とはちがう。カラスは、人間には認識できない紫外線を認識できるらしいから、お互いを黒色としては見ていないという。どんなふうに見えているのか、僕たちはカラスじゃないから、分からない。
 と、そう考えると、僕たちが見ているこの世界が、この目に見えているままに存在しているのかどうかは、究極的には分からないということになる。僕にはカラスが黒色に見えているけど、本当は黒じゃないかもしれないのだ。
 じゃあ、僕たちは結局“真理”にたどり着くことなどできないんだろうか?
 これまでの連載で見てきたとおり、その答えは“イエス”だ。僕たちには絶対の“真理”なんて分からない。僕たちはどこまでも、「僕たち自身の世界」しか生きられないのだ。
 そんなわけで、帰謬論者は、「カラスは黒い」という命題すら否定することができるのだ。
 要するに、議論に勝つためには、僕たちは相手にこう言いつづければいいわけなのだ。

「あなたの言っていることは絶対に正しいと言えるの? それって絶対なの? ぜぇぇぇったいなの?」

 と。
 こう言われれば、どんな人でも、「い、いや、絶対かって言われたら、ちょっと……」と口ごもらざるを得ない。
 晴れて、僕たちは相手を言い負かすことができる。少なくとも、相手を否定しつづけているかぎり、議論に負けることはない。

 でも、これはやっぱりあまりにむなしい論法と言うほかない。
 もちろん、議論においてお互いに反論し合うのは大事なことだ。とりわけそれが、“共通了解”を見出し合うためのステップであるならば。
 でも、もしもそれがただの否定のための否定だったなら、僕たちの対話には何の希望もなくなってしまうことになる。

超ディベート

 そんな否定のための否定は、日常生活にイヤになるほどあふれ返っている。嫌いな相手をただ言い負かしたいだけの否定や、自分のプライドを守るための否定など……。
 そんな時、僕たちは多くの場合、知らず知らずのうちに帰謬法を使っている。「お前の主張も、絶対とは言えないよ」。そう言って、相手を相対化することに力を注ぐ。

 学校で行われている競技ディベートなんかにも、帰謬法はしばしば見られる。
「肯定側と否定側、どちらが論理的に説得的か」。これがディベートの基本的な問いの立て方だ。
 勘のいい方は気づいてくださったかもしれないけど、僕に言わせれば、これはほとんど「問い方のマジック」だ。そしてまた、競技ディベートのように議論に勝敗をつけようとするかぎり、意識的にも無意識的にも、僕たちは帰謬法に頼りたくなってしまうものなのだ。
 ディベートを全否定するつもりはないけど、どうせやるなら、もっと哲学的な、つまり“共通了解”を見出せるような、より建設的なディベートへとバージョンアップさせたほうがいい。僕はそう思う。肯定側と否定側、どちらが説得力があったかを競うのではなく、議論の末に、お互いに納得できる“第3のアイデア”を見出し合う議論へと。
 そうした議論を、僕は「超ディベート」と呼んでいる。その具体的な方法については、この連載の後のほうでじっくり紹介したいと考えている(拙著『教育の力』や『勉強するのは何のため?――僕らの「答え」のつくり方』などでも論じているので、参照していただければ幸いだ)。
 いくつかの小・中・高校などが、この「超ディベート」を実践してくれている。僕自身も、大学の授業で学生たちとやることがある。やってみると、競技ディベートに比べて、参加者の思考や対話が圧倒的に創造的になるのを実感する。
 議論の過程で、参加者たちはもちろんお互いに反論し合う。でも、最終目的はよりよいアイデアを考え合うことにあるから、相手に対する批判も、批判のための批判ではなく、とても建設的なものになる。

 僕たちの人生には、たしかに相手を論駁しなければならない時もある。白黒つけなきゃいけない時もある。
 でも、環境問題、格差問題、テロリズム問題など、多くの正解のない問題にあふれた現代では、価値観の異なった人たちが“共通了解”を見出し合う議論をこそ、僕たちは洗練させていく必要があるんじゃないか。僕はそう思う。

 もっとも、「超ディベート」という名称は、教育現場で親しみを持ってもらうためにかつてつけたものなのだけど、本当を言うと、ちょっと軽薄な感じがして僕自身はあまり好きじゃない(笑)。
 別称は、「共通了解志向型対話」。個人的には、こっちの方が気に入っている。

 さて、次回は、上に述べてきた帰謬法を封じ込める技についてお話ししたい。そして僕の考えでは、その技こそ、哲学的思考の第一の“奥義”と言うべきものなのだ。

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