加納 Aマッソ

第20回「今日の朝ごはん、どっちの手でお箸持った?」

「私って成長したなぁ」と思える瞬間が、ごくたまにやってくる。気づいた時はとてもハッピーな気持ちになる。印象に残っているのは、どちらかといえば精神的なものではなく、いわば動物の進化のような実感であるものが多いかもしれない。例えば、「あれ、前までここで左手使ってたっけ?」と思った時。椅子に座った状態で足元の左足に近いほうに携帯電話を落とし、私はふと、利き手じゃないほうの左手で拾った。数秒経ってからそのことに驚き、「今までやったら絶対右手で取ってた!! 無意識に効率を優先することができてた!」と、心の中で大いに喜んだ。赤ん坊の頃は歩けるようになった時も話せるようになった時も親が代わりに喜んでいたが、それは良いとこ取りされていただけだったのだ。今は自分自身で喜ぶことができる。成長、そして進化というのはなんと愉快なことか。そうすると、これは特別なことではなく、口に出さないだけでみんなも同じような経験をしているんじゃないかというような気がしてくる。きっとそうだ。私はなんのトレーニングもせずにそうなったのだ。モノであふれたこの時代に、人類は利き手じゃないほうの使用頻度をあげてきている。いいぞ。この調子でまだまだいけるぞ人類。
 ここで気をつけなければならないのは、努力して成長し得たものとごっちゃにしてはいけないということだ。きっとアウストラロピテクスも、努力して次のナンチャラ原人の名をゲットしたわけではない。気づいたらそこまで進化していたのだ。成長させたものは、外的要素を除いては「自覚のない経験」、これ一本のはずである。水泳選手も体操選手も他の人より優れた身体を持っているが、これは努力しているので当然であり、彼らの能力が人類のベースにはならない。生命の進化に突発的な努力を持ち込むのは邪道だ。生活の邪魔にならない程度に水かきが発達し、水中を自在に動き回り、みんなが「あれ、私いま背泳ぎやってた? 無意識〜! スイスイ〜!」となり、どんなぐうたらでも100mを泳ぐのに1分を切ることができるようになった時に初めて、堂々とこれは進化であると言えるだろう。そこにいくにはまだ時間がかかる。1万年ではきかないかもしれない。今はまだ、利き手じゃないほうの使用頻度があがっている人数が、どの統計学者の目にも触れることなく増えていっている段階だ。そう考えると、緩やかすぎる進化に歯がゆくなるが仕方ない。なんとかギリギリ生きている間に、せめて「箸占い」を見たい。「今日の朝ごはん、どっちの手でお箸持った?」という質問への答えで、1日の運勢を教えてもらうのだ。細かいのだと、三食分も聞かれるかもしれない。「右・左・左」なら「大吉」、「左・右・左」なら「凶」といった具合だ。それ以上の進化の見届けは、残念ながら次の時代に譲るしかない。
 ふと、自分の中で退化しているものはあるだろうかと考えた。精神面でそれはあった。不思議なことにそれは「成長」の皮をかぶっている。「前ほど腹が立たなくなった」ということだ。感情が鈍っている。20代は、見るもの全てに腹が立っていた。自分にも腹が立っていた。それがいつの間にかなくなっている。内側から「お前、こういう奴は許せないんじゃなかったのか?」というくぐもった声が聞こえる。わずかな諦念か対峙の回避なのだろう。何ができてどう感じるのが自分なのだろうか。そんなことを考えると、急に空恐ろしくなり、慌てて左手をグッ、パー、グッ、パーと何度もぎこちなく動かす。

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