ちくま新書

差別・戦争・崇敬――カトリック起源の「もう一つのフェミニズム」とは!?

ミートゥー運動に象徴される現代のフェミニズムとは異なり、ヨーロッパにはカトリックを起源とする「もう一つのフェミニズム」の水脈があった。キリスト教における女性への差別と崇敬の歴史を明らかにする『女のキリスト教史』。ここではその「はじめに」を公開いたします。

†神と女の物語
 2019年3月、バチカンの日刊紙の月一回の増補版『女性・教会・世界』編集長で、カトリック・フェミニズムの論客として有名なリュチェッタ・スカラフィアが、男性からの一方的な編集への介入に抗議して辞任した。
 女性も司祭職に就くことができるようにするのは難しいにしても、司祭職と教会の運営とを分けるように教会法を変えることが必要だと彼女は主張している。今のところ、女性が教会の運営に関わるポストに登用されてもアドバイザーの役割しか与えられない。年配の司祭の方がそうした意見に賛同し、若い司祭の方が反動的傾向にあるとも、ドミニコ会やイエズス会など修道会の方が進歩的だとも言われているが、カトリック全体での女性の地位はまだまだ低いのだろうか。
 カトリック教会と言えば、「牧師」が妻帯できて女性牧師や司祭も存在するプロテスタントのキリスト教と違って女性蔑視の宗教だというイメージを持たれることがある。神父が独身で、異端審問では「魔女」を火炙りにしたという歴史が想起されるからだろう。けれども、それは事実なのだろうか?
 反対に、中南米を含めたカトリック文化圏のラテン諸国では、聖母マリア崇敬が盛んで、家庭内でも「母親」の存在が大きい。プロテスタントのアメリカで「Oh my God!(ああ、神様!)」と叫ばれるところが、カトリックのイタリアでは「Mamma Mia!(ああ、お母さん!)」となる。
 世界の「先進文明国」のスタンダードとなっている人権思想は、すべての人が権利の行使と尊厳を保障されることにおいて平等だと言っている。それは、それまでの地縁、血縁、地位、経済力、性別などのあらゆるアイデンティティ別の共同体から解放された自由な「個人」という革命的な考え方を提供し、承認するものだ。
 その基盤には、仏教やキリスト教などの普遍宗教が、一人一人の信者に同じ「救い」を約束するという「普遍主義」があった。キリスト教をルーツの一つに持つ「西洋近代文明」も、はじめは「布教」「宣教」によって普遍主義を伝えようとしたが、異文化・異文明を「発見」してからは、「普遍主義」から「宗教」という含意を排除するようになった。それは、宗教という権威を利用して人民を搾取してきた支配者を倒した「近代革命」の成果でもある。
 けれども、生と死の2つの次元に関わる「救い」を語る「宗教」なしには、自由な「個人」もばらばらな「孤人」へと還元されてしまう。「宗教」に代わり一人一人の国民を守るはずの「国家」もまた、普遍主義を離れ、国民を縛って他国家、他国民を排除する共同体主義の罠に陥っていった。
 分断された「個人」が消費者としてグローバルな市場に取り込まれる一方で、共同体内のマイノリティ・グループは、国際的な規模で集結して新たな力ある共同体を形成していく。長い伝統のある父権制社会において「差別されてきた女性」や「排除されてきた同性愛者」らが「反撃」するロビー活動が政治だけでなく市場経済にとり入れられて大きな影響力を持つこともある。
 そんな中で、身の丈に合う共同体も、手を差し伸べてくれる「神」も見出すことのできないばらばらの個人が生き難さを訴えるようになった。「勤勉」や「質素倹約」の「徳」を掲げたピューリタン資本主義が肥大化して、「金」が「神」に取って代わり、「効率」や「生産性」という新しい「徳」が登場する。神がいて、そのもとに共同体があった頃の古典的な「弱者」救済のモデルはもう通用しない。
 このような時代にあって、私たちには何ができるのだろうか。自由で平等で尊厳ある個人だったはずの人々が「存在」の根を失い、分断された消費者、ハンドルネーム、コード番号、暗証番号にされていくプロセスは止めることはできないのだろうか。
 本書では、「西洋近代思想」における普遍主義を育んだヨーロッパのキリスト教によって長い間「被差別者」とされてきた「女性」が、「人と神との関係」において、実際にはどのような役割を果たしてきたのかを振り返ってみたい。「聖」と「俗」、「あの世」と「この世」の関係の上に、この世での男と女の関係がどのように反映されてきたのかを見ていくこと、それによって逆に、この世の男と女の関係に「神」と「人」との関係がどのように反映されているのかも見えてくる。
 それを通して、「社会的動物」である人類にとってまるで宿命であるかのような、あらゆるマイノリティ差別や他者の排除が、「宗教的動物」としての人間と神との関係の中ではたして解消できるものなのかを考えみたい。
 キリスト教の歴史の中で語られてきた「神と女の物語」は、「男と女の物語」がいつも「私」と「私たち」の物語なのだと、教えてくれる。
     
†本書の構成
 本書では、キリスト教が女性をどのように眼差し扱ってきたのか、翻って女性たちはキリスト教を、またキリスト教を中心とする世界をどのように牽引してきたか、聖書の時代から現代まで長い歴史を精査しながら論じている。
 序章では、フランスにおけるフェミニズムが、アングロサクソンのピューリタニズムのフェミニズムとどう違うのかを解説する。ミートゥー運動に象徴される現代のフェミニズムとは異なる「ギャラントリー」のフェミニズムがどのように生まれたのかを、中世フランスで盛んになった「ノートルダム(我らの貴婦人)」崇敬など、キリスト教の歴史に注目して論じる。
 第一章では、旧約聖書の最初の書である「創世記」において、男と女がいかに生まれたのか、さらにイヴが禁断の実を食べてしまったことに端を発する女性差別の起源に迫る。
 第二章では、キリスト教を生んだナザレのイエスが、当時の支配的な体制だった家父長制からいかにはみ出した存在だったかを考える。彼がどのように女性たちと出会い、触れ合ったのかに注目することで、「民族宗教」から、世界に広がる「普遍宗教」へと変容していくキリスト教が本来持つ女性的な側面が見えてくる。
 第三章では、イエスの母である聖母マリアが新約聖書でどのように描かれているのかを考える。彼女が処女受胎をいかに受け入れたのか、また救世主イエスとどのように接したのか、そして、後に世界中でマリアがどのように崇敬されたのかを見ていく。
 第四章では、新約聖書でイエスに付き従った女性の一人である「マグダラのマリア」から、現代の聖女マザー・テレサまで連綿と連なる聖女たちの系譜を概観する。
 第五章では、民間信仰の側にあった治癒、施術、霊媒などのなかで、魔術や魔女がどのように登場し、扱われてきたかを見る。また聖書にも登場する悪魔の存在や、悪魔憑き、悪魔祓いなどが、社会でどのように認識されたかを考える。信仰と異端の境界線が時代によって揺らぎ、そこに女性がどのように関わってきたかも見ていく。
 第六章では、フォントヴロー修道院やベギン会のような修道会で中心となって信仰活動を牽引した女性たち、百年戦争に颯爽と登場したジャンヌ・ダルク、グアダルーペのマリアが現れた新世界メキシコで活躍した博覧強記のミューズ、ソル・フアナなど、様々な時代の女性リーダーたちが「神の国」を目指していった様子を紹介する。
 終章では、そもそもが女性性を帯び、弱者に寄り添うはずのキリスト教が、普遍宗教になっていく過程で変容し、女性や弱者を差別するようになってしまう経緯を確認し、そうした状況を脱するために、現代を生きる私たちに何が必要なのかを模索する。