piece of resistance

1 掃除機

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 裕美は日曜日の午後に必ず念入りな掃除をする。
 玄関。廊下。浴室。洗面所。リビング。キッチン。階段。寝室。くわで田畑を耕すように掃除機を構え、自ら引いた順路に沿って、一週間分の塵埃を一網打尽にする。
 夫との二人暮らしで、平日はどちらも仕事に出ているため、さほど汚れは溜まっていない。それでも、念には念とばかりに掃除機のヘッドを部屋から部屋へ、空間から空間へと隈なく行き渡らせていく。
 唯一、夫である晋一の書斎を例外として。

 名ばかりの書斎で会社から持ち帰った仕事をするふりをしながら中古ゴルフクラブの格安ネットショップに入りびたっていた晋一は、今週もまた掃除機の轟音が部屋の前を素通りしていくのを聞く。かれこれ十年も扉越しにその音を聞き続けている。つくづく執念深い女だと思う。
 裕美が最後に書斎を掃除したのは、二人が一緒になってまだ間もない日曜日だった。
三十路同士の結婚で、互いに気ままな独居が長かったせいか、新婚生活の甘いときめきよりも窮屈さが勝っていた時期だ。
その午後、晋一がビールを片手に書斎で島耕作シリーズの最新刊を読んでいると、突如、けたたましい轟音とともに乱入してきた裕美が部屋の床に掃除機をかけはじめた。
 晋一は寝込みを襲われた気がした。土足で聖域を踏みちらかされた気がした。人権を蹂躙された気さえした。
 漫画がいいところだったのだ。
「せっかくの休日に、なんだよ。あとにしてくれよ」
 声をとがらせた次の瞬間、猫のように光った妻の目を見て、早くも後悔が始まった。
 晋一と同様、常時残業に追われている裕美にとっても、その日は「せっかくの休日」である。
 家事は分担と話し合ってはいたものの、晋一は掃除機に触れたことすらなかった。
「いや、その……あとで、自分でかけるから」
 しどろもどろに言い添えると、猫の目のまま裕美はこっくりとうなずいた。

 その日を境に、晋一は二度とくつろぎタイムを掃除機に侵害されることはなかった。
「あとで自分でかけてね」
 通りすがりに嫌味を言われたのも最初のうちだけで、書斎の掃除はもはや言うに及ばぬ晋一の仕事と化している。たとえそれを怠ったまま一日を終えても、裕美は知らぬ存ぜぬの顔である。
 実際問題、自分の管轄外である書斎がどんなに汚れていようと、裕美にはなんの痛痒もありはしないのだった。
 彼女自身のテリトリーから埃を一掃すると、彼女は晴れ晴れとした気分でリビングのソファに腰かける。ここからが彼女の休日だ。雑誌をめくるもよし、録り溜めていた映画を観るもよし。
 そうして優雅な自由時間を満喫していると、今度は逆に晋一のほうがのそのそと動きだす。
 裕美が片づけたばかりの掃除機を納戸へ取りに行き、再び書斎へ戻る。狭い部屋なので掃除などはものの数分で済む。これくらいならばやってくれてもいいのにと心でぼやきながら掃除機を納戸へ戻すと、続いて晋一が向かったのはベランダである。
 朝一番で干した洗濯物の乾き具合を確認。太陽と風のおかげでしっかり乾燥していたそれらを回収しながら、いつから洗濯が自分の分担になったのかとふと思うも、もはや記憶が定かでない。
 ボタン一つで動く洗濯機をまわす自体はわけもないことだ。洗ったものを干すのも晋一は嫌いではなかった。くしゃくしゃによれた衣服をぱん、ぱんと威勢よく広げ、首尾よく洗濯干しに吊していく。
 裕美の下着は内側の目立たない場所へ。バスタオルは別途のタオル干しへ。型崩れするシャツ類は滑りどめつきのハンガーへ。
 手慣れるほどにこだわりが増えていき、最近の彼は全体の色合いにも一家言を持つようになった。グラデーションの美しさまで意識しはじめたら、もはや洗濯干しは一種のファンタジーだ。
  リアリズムの極みは「畳み」である。手先が器用でない晋一にはこの最終段階が何より疎ましい。皺にならないように。タンスへぴったり収まるように。靴下のペアを取りちがえないように。
 ちまちまとした作業に苛つきながら一枚一枚を畳み、整然と重ねたそれらを然るべき引きだしへ収めていく。
 一連の作業を終えるとようやくほっと息をつき、ネットニュースでゴルフトーナメントの結果でも見ようと書斎へ引きかえす。

 天井ごしに洩れていた晋一の気配が鎮まると、リビングの裕美は広げていた雑貨カタログを伏せ、のっそり腰をあげる。足音を忍ばせて寝室へ向かい、室内干し機に取り残されている自分の下着に手をのばす。一緒に畳んでくれればいいのにと心でぼやくも、それを口には出さない。
 数年前のある日、くしゃっと雑に丸められていたブラジャーを見とがめて「読み古した新聞みたいに畳まないでよ」と抗議をした自分に、夫が向けた野獣のような目を今も憶えているからだ。

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