高校時代からの旧友と二人、ほろ酔い加減でタクシーを拾ったのは、夜の十時を回った頃だった。
緩やかに減速して止まった一台は、車の屋根に個人タクシーの行灯を載せていた。
「恵比寿でございますか。道のご指定はございますでしょうか。白金トンネルを抜けるルートが直線距離では最短と思われますが……はい、ではそのようにさせていただきます」
四、五十代とおぼしき運転手は礼儀正しく、運転も丁寧だった。コーナリングやブレーキによる振動を後部座席へ響かせもせず、あたかも氷上を滑るように車は夜気をぬって走る。
個人タクシーのライセンス取得は容易ではないと聞いたことがあるが、さすがは選ばれし有資格者である。
「お寒くありませんか」
「いえ、大丈夫です」
「温度調節をお求めの際には、どうぞ、ご遠慮なくお申しつけください」
客への心遣いも行き届いている。つられて居住まいを正しはじめた私の横で、友人の瑞恵は一人ぶつぶつとぼやきつづけていた。
「本当に情けないったらないよ。誰一人、ほんとに誰一人、白は白、黒は黒って、当たり前のことが言えないんだもん。ぼんくらの二世社長が白って言ったら黒いもんも白、社長が黒って言ったら白いもんも黒」
今日の瑞恵は会ったときからこの調子だった。
彼女の勤めるアパレル会社では前年に社長の交代があり、現場を知らない二代目が万事に口出しをするようになった。一軒目のバルで瑞恵はさんざんその鬱憤を吐きだし、吐いても吐いても吐き足りないからもう一軒、と恵比寿へ移動することになったのだが、その道中でさえも荒ぶる舌はじっとしていない。
「そりゃ社長はアホだよ。デザイン案を絞りこむのに、うちの娘が気に入ったからこっち、なんて平気で言っちゃうドアホだよ。娘ってまだ五歳だよ。けどさ、審美眼に長けたお子さまですね、なんておべんちゃら言ってる同僚も同僚でしょ。なんで誰も声を上げないわけ?」
「もちろん瑞恵は上げたんだよね」
「当然。社長、お言葉ですが、女の子は誰でもピンクが好きなんです、って言ってやったわよ。それ以来、社長の冷たいこと。同僚たちまで私を避けはじめちゃって、なにこの職場、中学校?」
鼻息も荒い瑞恵の頭ががくんと揺れた。同時に、私も腰に衝撃を感じて前屈みにつんのめる。直後、フロントガラスの前を一台のバイクが強引にすりぬけていった。
「お客さま、大変申しわけございません。お怪我はございませんか」
「え、ええ。はい」
「汗顔の至りです。二度とこのようなことがないよう猛省致します」
「大丈夫です。本当に、全然……」
己が許せぬとばかりに声を震わす運転手をなだめ、私は瑞恵へ向きなおった。
「でもさ、瑞恵って、ほんとに変わらないね」
「え、そう?」
「私、瑞恵の卒業文集の作文、今でも憶えてるんだ。たとえ世の中がどう変わっても私は流されない。自分が生きる世界のルールは自分で作りたいって」
「えー、私、そんなこと書いた?」
「書いただけじゃなくて、昔から実践してたよね。前髪切れって言われても、根拠がないって絶対に従わなかったし。先生たちの都合で文化祭がなくなりかけたときには、みんなを率いて猛然と抗議運動してたし」
「やだ、なんか恥ずかしいな。私、昔からずっと反抗期みたいな感じ?」
「いいんじゃない、べつにみんなが従順な大人にならなくても。瑞恵くらいは瑞恵のまんまで反抗しつづけてよ」
瑞恵がほんのり頬を赤らめたところで、見覚えのある通りに出た。
路肩へ寄ったタクシーが止まると、財布を開いた私を「いいの、いいの」と押しのけるように瑞恵が身を乗りだして支払いをすませた。
「先程の雨でまだ地面が濡れているようですので、どうぞお足元にお気をつけください」
瑞恵の変化に気づいたのは、最後まで気配りの人であった運転手の車が去ってからだった。
路肩に立ちつくして動かない瑞恵の顔には困惑と驚愕の色が濃い。さっきまでの酔眼が醒め、その焦点は遠ざかるタクシーのテールライトへまっすぐ結ばれている。
「瑞恵?」
呼びかけると、ぽうっとつぶやいた。
「負けた」
「え」
「あの運転手さん、シートベルトしてなかった」
「ええっ」
ぎょっと視線を投げるも、テールライトはすでに遥か遠く、あの慇懃な彼がどんな信条のもとにどんな反抗を実践中なのか、もはや誰にも知るよしはないのだった。