単行本

ミンギュ氏、ダブルアルバムをリリースする
『短篇集ダブル サイドA』『短篇集ダブル サイドB』書評

韓国文学を代表する実力派男性作家パク・ミンギュの新刊について、西崎憲さんに書評していただきました。

 パク・ミンギュの名前が広く知られるようになったのは、最初の短篇集『カステラ』が第一回日本翻訳大賞を受賞してからだろう。同書は現在の韓国文学隆盛のさきがけとなった。ここに紹介する二冊は韓国でも日本でも『カステラ』につづく二番目の短篇集で、二分冊の形をとっている。
 パク・ミンギュがどんな作家であるかを説明するのはすこし難しい。なぜなら似た作家はあまりいないからである。ただテイストの面では一九七〇年代のアメリカの小説に通じるところがある。作者のその時代への執着は、作中で言及される音楽からも明らかであるし、そもそもタイトルの「ダブル」というのは「レコード」があった時代、なかでもダブルアルバムという形式が流行した六〇年代末期~七〇年代前半へのノスタルジーからの命名である。そしてその時代への執着はSFに分類される収録作からも見てとれる。それらはフィリップ・K・ディックやカート・ヴォネガットやハーラン・エリスンに通じる味わいを持っているし、ユーモアの質もリチャード・ブローティガンなどを連想させる。
 ミンギュのそうした傾向を見て、ではノスタルジーの作家なのか、と考える向きもあるだろう。たしかに名作『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』には最高のノスタルジーが描かれている。しかし評者としては、ミンギュとノスタルジーという語は断じて結びつけたくない。なぜならミンギュの作品からは同時に「現在」も強く感じるからである。いや、現在についてしか書いていないとさえ思う。
『カステラ』に収められた作品にすでにそうした傾向があったが、『短篇集ダブル サイドB』に収録された「ビーチボーイズ」や「アスピリン」の文体には、ミンギュ版「意識の流れ」といった趣がある。そこで書かれているのは現在もしくは瞬間の連続である。断片化を施したような本文の独特のレイアウトからもそのことは感得できるだろう。そしてリアリスティックで重い作品「近所」「黄色い河に一そうの舟」(『サイドA』)で描かれるのも過去の総体としての現在である。ミンギュの作品はつまりは「生起しつづける過去」であり、作者はそれこそが「現在」であると主張しているのではないかと評者は考える。
 パク・ミンギュはこうした総体的なことを語りたくさせる作家なのだが、個々の作品もすこし見てみよう。
『サイドA』の「グッバイ、ツェッペリン」はユーモア小説としてとても優れている。小さな町のショッピング施設開店の宣伝として飛行船が飛ばされることになる。しかし浮上直後にロープがほどけ、飛行船は空に漂いだす。それを追うのはキム室長。前出の「ビーチボーイズ」や「アスピリン」と並んで、ミンギュの作家としての独創性がよく見てとれる作品である。
 ストレンジフィクションあるいはSFとして興味深いのは地球最後の日の前日を描いた「最後までこれかよ?」と、ミンギュの拘泥のひとつであるキリスト教とSFの奇妙な混淆「羊を創ったあの方が、君を創ったその方か?」(どちらも『サイドA』)である。
 あるいは作者はこの種のものばかり書いていたいのではと思わせる思索的な小説「クローマン、ウン」(『サイドA』)「膝」(『サイドB』)は、どちらも難解である。状況は十分な説明もないまま呈示される。
 収録順にはどこか無造作な印象がある。いやミンギュにはどこかしら根底に無造作なところがある。それにかんしてはまたどこかで論ずる機会がくるかもしれない。
 食べ物の描写は印象的であって、これは飢餓を知っている人間の食べ物の描き方ではないだろうか。
 パク・ミンギュの作品はとにかく読みやすく、読者に直接語りかけてくる。最初から日本語で書かれたように国内的である。韓国、台湾、中国の小説の翻訳は概して頭ではなく皮膚を通じて伝わってくるが、アジアの小説全体が「ドメスティック」になる時代がやがてやってくるのだろう。