ちくま新書

あの歴史上の人物が室町時代の京都にバーチャルリアリティをつくっていた?!

『武士の起源を解きあかす』で日本史のなかで謎のままとされていた問題を解いた著者が次に描いたのが「足利義満」。 退かず、媚びず、省みない男・足利義満とその前後の時代に迫った『室町の覇者 足利義満』のプロローグをご覧くださいませ。

日本文化で孤立する金閣寺  

 室町時代に、仮想現実空間(バーチャルリアルティ)を作った人がいた。まさかと思うが、本当だ。その仮想現実の名残を、かなりの確率であなたは見たことがある。金閣寺である。
 金閣寺(正式名は鹿苑寺)は希有の寺院だ。教科書で誰もが名前を覚えさせられ、多くの人が現物を見た経験を持つ。2018年に京都市を訪れた外国人観光客は450万人、そのうち金閣寺を見物した人は、48.1%の387万人もいた(『京都観光総合調査』)。
 これほど外国人が金閣寺を見たがる理由は、一つしかない。〝よそで絶対に見られない景観〞だからだ。その証拠に、『外国人に人気の観光スポットランキング2019』(トリップアドバイザー社)の1位は千本鳥居で有名な伏見稲荷大社、2位は広島の原爆ドーム、3位は海上の鳥居で有名な厳島神社だった(金閣寺は10位)。
 寺の代名詞にまでなったあの黄金色の建物、いわゆる金閣は、正式名称を舎利殿という。あのような建物は、日本にしかない。しかし、あのような建物は、実は日本でもよそにない。全面金箔貼りの仏教施設など、ほかには平安後期に造られた中尊寺金色堂(岩手県平泉町)くらいだ。まして、第一層が公家文化の寝殿造風、第二層が武家文化の書院造風、第三層が禅宗様と、階層ごとに様式が違う混合体(キメラ)など、 類例がない。そもそも、五重塔などの仏塔を除けば、 多層建築そのものがまれで、三階建てであること自体が異常だ。
 金閣寺は、日本文化の中で、完全に孤立した特異点である。金閣寺は北山という場所にあるので、学校では、金閣寺が代表する当時の文化を「北山文化」と覚えさせるが、その教え方は誤解しか生まない。北山文化は、「北山(だけで、10年間だけ、義満だけが愉しんだ超ローカル)文化(というより個人の趣味)」と教えた方が、まだましだ。

誰もついていけない個性と独創性​

 建造物には、造らせた人間の思想的な特色が丸出しになる。金閣寺がこれほどまでに異様で、孤立的で、主張が強いのは、造らせた足利義満の思想が異様で、孤立的で、主張が強いからだ。史上に類がない金閣寺の存在は、史上に類がない義満の権力の証であり、その義満の個性を、既存の枠組みから超越してゆく " 規格外 〟ぶりを教えてこそ有意義だ。
 南北朝の合一のために、義満が朝廷の支配者となったことを、ほとんどの人は知らない。長い戦争と精神的退廃で瀕死の朝廷に、義満が活を入れ、全力で復興し、自ら主人公となって儀礼の奥義を究め、自ら総監督となって厳しく管理し、そのために無言の恫喝とジョークで天皇や廷臣を翻弄し、天皇を自殺未遂に追い込んだことを、知る人は少ない。
 かつて、義満が天皇の地位を奪おうとした、という説があった。今から一世紀前に提唱されていた説だが(田中義成 1923)、20世紀の末に大々的に紹介し直され、一世を風靡した(今谷明 1990)。実は今、その説を信じる歴史学者は皆無に近い。その説の証拠とされたものが、実は証拠にならないことがわかったからだ。ただ、さらに研究が進んだ結果、義満が天皇家との融合を図っていた証拠が見つかり、皇族化を狙っていた可能性が見えてきた。さらに、明との外交でも、新発見が相次いでいる。たとえば、明と交わされる国書が想像を絶する巨大さだったとか、明との国交は密室でひっそりと行われていた、といったことだ。義満像も室町幕府像も、大きく書き換えられつつある。
 私自身もいくつかの発見をした。教科書が「北山文化」の一言で済ませる北山という空間が、どれほど特異で空前絶後で、そして日明貿易を可能にするためのトリックに不可欠の場だったか。そのトリックが仮想現実空間であり、それがどれほど独創的で、義満の個性だけに依存していたか。そのことと、義満が寵愛した世阿弥が能・狂言を大成させたことが、実はどれほど深い関係にあったか。それらを私は専門書で詳しく論じたが、義満の魅力は、私に欲をかかせた。中世ファンや室町時代ファンはもちろん、食わず嫌いの一般読者にもぜひ、新しい室町的世界・義満的世界を紹介し、私たち専門家が惚れ込んで抜け出せない蠱惑的魅力を共有したい、という強い欲求に駆られた。本書はその産物である。

義満を駆り立てたものと義満の仕事の完成系

 義満一家やその時代については、優れた一般書が増えてきた。今さらこのテーマで書くことは屋上屋を架すかのようだが、本書は独自の切り口に絞ることで一線を画したい。さらに、まだ専門家に気づかれていないと思われる新史料を紹介し、学術的な価値も出しておきたい(本書ではいくつか新説を提示したので、注でその根拠を示した)。
 本書は、「室町殿」(むろまちどの)全盛期の物語である。「室町殿」とは、豊臣秀吉の登場以前、中世で唯一の統一権力として義満が作りあげた地位をいう。それは、単なる室町幕府の将軍を超えて、朝廷も何もかも支配した、画期的な地位だった。しかも義満は、その後さらに「北山殿」という画期的な、というより意味不明に近い地位を作った。それらが義満の手で、なぜ、どのように生み出され、何が達成されたのか。そしてどのような問題が残り、後継者たちがどう解決し、そしてどう室町殿の権力が失われたのか。それを描きたい。
 室町殿は日本全体の支配者なので、あらゆる分野と関わる存在だが、本書では3つに絞った。1つは、京都との関係だ。京都は、天皇制と朝廷の物理的実体だった。京都で誰がどのような儀礼を行い、どこにどのような建造物を建てるかは、〈その人が天皇に対して、したがって天下の万人に対して何者であるか〉を広く喧伝する媒体になった。史上唯一、本拠地を京都に置いた幕府の長は、京都を使って何を表明し、京都をどう変えたのか。
 そこから派生して、天皇との関係が2つ目の焦点となる。天皇を温存しながら日本の最高権力者となった室町殿とは、一体何だったのか。義満や後継者たちは、なぜ、どう天皇を扱ってきたのか。そこには、日本を今も漠然と縛る、天皇制の本質が隠れていそうだ。
 その実相を、何と当の天皇自身が日記に記録していた。以前に私が翻刻(解読して活字化)した後円融天皇の日記の全容を、本書は初めて一般向けにお目にかける。そこには皇位についての、天皇と義満の2人きりの、密室での密談が記録されていた。
 3つ目が、将軍と大名の関係である。実は、義満が最も苦労したのは大名の掌握で、それが室町殿の本質と直結している。源頼朝は東から順に日本を制圧して鎌倉幕府を創ったし、徳川家康は関ヶ原の合戦で敵対する大名を屈服させてから江戸幕府を創った。しかし、室町幕府だけは、大名を統制できないまま見切り発車で成立し、それが尊氏・義詮・義満の三代の将軍を困らせ続けた。それこそが「室町殿」の確立へと義満を駆り立てた原点なのだが、そもそも、なぜそうなってしまったのか。原因を作った人はわかっている。初代将軍尊氏の弟、足利直義である。義満の人生は、直義が残した負の遺産の精算に費されたといってよい。本書はまず、その話から始めよう。

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