ちくま新書

問題は「記述式試験」だけではなかった!

2019年12月17日、文部科学大臣による記者会見で導入見送りが発表された大学共通テストの記述式試験。著者の紅野謙介さんは、この教育改革がいかに危ういものであるかを指摘し、警鐘を鳴らし続けてきました。歪められつつあることばの教育の未来形を考える本書は、国語教育のみならず、この国の教育全体をも照らし出す一冊です。冒頭の試し読みを公開します。

†背中から未来に入る

 堀田善衞という作家がいました。一九九八年に亡くなられたので、もう二十数年が経ちました。スタジオ・ジブリの宮崎駿監督や鈴木敏夫プロデューサーとも親交があり、ジブリの「風の谷のナウシカ」や「ハウルの動く城」といったアニメーション映画を見ると、彼らが堀田さんをいかに愛読してきたかを感じるように思います。
 私も、堀田さんの没後一〇年のときに、縁あって「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」(神奈川近代文学館)という展覧会の編集委員をつとめたことがあります。そのときに宮崎さんや鈴木さんにもお会いし、あらためてお二人の堀田善衞に寄せる敬愛がいかに深いかも知ることができました。
 敗戦を上海で迎えた堀田さんは、『広場の孤独』(一九五一年)などの小説で芥川賞を受賞したあと、中国を舞台にした数多くの小説を書き、その後、インドやキューバ、アフリカにも関心を寄せた国際性豊かな作家でした。日本の古典にも造詣が深く、『方丈記私記』(一九七一年)や『定家明月記私抄』正続(一九八六、八八年)といったすぐれた文学エッセイも書いています。
 その堀田さんが一九九四年に書いたエッセイに「未来からの挨拶――Back to the Future」があります。今ではちくま学芸文庫の『天上大風 同時代評セレクション一九八六-一九九八』(二〇〇九年)で読むことができます。これは、よく知られている「バック・トゥ・ザ・フューチャー」という八五年のハリウッド映画にちなんだエッセイですが、ただ堀田さんが注目したのは映画の内容ではなくて、タイトルそのものでした。   “Back to the Future”、この言葉には何か背景がある、そう直感した堀田さんはバルセロナ大学の古典学の教授から、この言葉がホメロスの『オディッセイ』から来ていると教わります。英訳版の『オディッセイ』を開いてみると、そこには“the only one who sees what is in front and what is behind.”という言葉が見つかります。訳注によれば、古代ギリシアにおいて過去と現在は私たちの前にあり、見ることができる。しかし、未来は私たちの背後にあるため見ることができないと考えられていたとあったそうです。「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるであろう。すなわち、Back to the Futureである」。
 そこにソフォクレスの『エディプス王』の一節が呼び込まれます。“not seeing what is here nor what is behind.”、すなわち「ここにあるものも見えなければ、背後にあるものも見えない」。つまり過去と現在だけが、私たちの前にある。それは見ようと思えばしっかり見ることができます。ところが、未来は私たちの背後にあって、見ることができない。その見えない未来に向かって、私たちは後ろ向きに背中からこわごわ進んでいくことになる。過去と現在を見つめることが不安に満ちた未来への一歩を支えるのです。
 まさに、この言葉が本書の導きの糸となりました。堀田さんもかつてその文章が国語教科書の教材となり、入試の問題文となったことのある書き手でしたが、その堀田さんたちが活躍した時代から遠く離れて、いま私たちは国語教育の大きな転換点に立っています。
 何しろ「戦後最大の教育改革」だそうです。未来の形を示すという意気込みのもと、改革の理念を示す入試問題のサンプルや、高等学校の国語教育のプランが発表されています。しかし、どうもその未来形は相当に危なっかしい。もし、未来に向かって後ろ向きに進んでいかなければならないとしたら、今できることは国語教育の過去と現在をしっかりと見つめることです。未来を先取りしたというサンプルやプランがどのようなものなのか、その問題点を探ることが確実な歩みにつながるのだと思います。

†手段としての入試改革

 さて、二〇二〇年一月には、大学入試センターによる、いわゆる「センター試験」が行われます。これが最後の「センター試験」となりました。その後継として翌二一年一月から予定されているのが、「大学入学共通テスト」です。
 その新共通テストで、「英語」「数学」とともに変更の目玉となっているのが「国語」です。一昨年、私が刊行した『国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領』(ちくま新書)では、それまでに発表されていたサンプル問題や第一回試行調査(プレテスト)をつぶさに検討し、新たに導入された記述式試験の題材や設問の問題点、採点方式への疑念をあげ、公平性や正確さにおいてリスクが高いことを指摘しました。また、従来からのマークシート式問題に対しても、種類の異なる複数の資料を並べるという大きな改変が加えられたのですが、それについてもこれまでの「センター試験」と比べて相当な無理があり、試験問題としての質的低下が否めないと判断しました。
 この入試問題の改革が高校の国語教育とも連動しているため、まず入試問題の分析から始めたのですが、いろいろな反響をいただいたなかには大学入試の形式の変更が果たして「国語教育の危機」に結びつくのかという意見もありました。理屈としてはたしかにその通りなのです。入試で「国語教育」が危機に陥るというのは奇妙なことです。
 たとえば、大学入試のなかでも最大の「センター試験」を受験しているのは、二〇一八年度で約五八万人です。これは一〇〇万人以上いる一八歳人口のうちの半数と既卒者をふくめての数字です。大学進学をせず、受験しない残りの半数を考えるなら、それは「国語教育」全体の危機というに及ばないのではないか。いぶかしく思うのも無理はありません。大学進学者だけを前提にした発想ではないかと。
 ところが、その奇妙な転倒を推し進めているのが、現在の文部科学省(以下、文科省)なのです。入試を変えなければ教育は変えられない、とばかりに、あえてまず入試に手をつけてきたのが、今回のポイントです。大学進学希望者を対象にした入学試験とは、高校で学んできた成果を測定して選抜するためにあったはずです。ところが、その測定が一点刻みの試験、暗記中心となり、本来の力を測るのに役立っていないと断定した上で(むかしからそのようなことはさんざん言っていたのですが)、この入試を変えることで高校・大学の教育を変える。そうした戦術をとると宣言しているのです。
 今回の改革は「戦後最大の改革」と言われたり、「明治の学制が始まって以来の」という、それこそオーバーな形容句がつけられたりしています。それは、「高等学校の教育をめぐる改革」、「大学入学選抜制度をめぐる改革」、「大学の教育をめぐる改革」の三つが組み合わさった、いわゆる「三位一体の改革」として計画されているからです。ひとつひとつの案は別々に見えますが、すべて連動した計画になっています。それほど大規模な改革プランがいま進行しています。
 初等教育から中等教育の前半まで、つまり幼稚園から中学校までの教育改革は現在、進行中であり、完了が見えているというのが文科省の認識です。義務教育の範囲ですから、すでに「学習指導要領」も徹底されてきている。今回、幼小中学校の改訂も行われたが、こちらの改革準備はできあがっていると考えているのです。その次の段階として、まだ、「学習指導要領」の浸透し切れていない中等教育の後半(主に高等学校のこと)から、入試をへて、高等教育機関(主に大学のこと)のすみずみまでを変えていく。それが今回の目的となっています。
 こうした改革のアクセルを踏んだのは、首相直属の教育再生実行会議でした。もっと以前から、民主党政権の時代でも、その前の自民党政権の時代でもさまざまな教育改革についての意見が出ていたので、教育再生実行会議がすべての起源ではありません。しかし、潜在していたそれらの意見を集約してまとめ、強く実行を促したのが、この会議でした。なかでも二〇一三年一〇月に発表された教育再生実行会議の第四次提言「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について﹂は、「高大接続」を合い言葉に大きな引き金となりました。
 この提言は、冒頭で世界のグローバル化と「人や物、情報等が国境を越えて行き交う大競争」の時代において、日本社会が「生産年齢人口が大幅に減少」すると訴え、「イノベーションの創出を活性化させるとともに、人材の質を飛躍的に高めていく」必要性を説いています。本来であれば「このような力は、義務教育の基礎の上に、高等学校、大学の段階で伸ばしていくものですが、その間をつなぐ大学入学者選抜が、高等学校や大学の教育に大きな影響を与えています」と、「高大接続」の新しい教育を阻害する要因として入試=主犯説が唱えられたのです。

†見えない具体案

 かつても大学入試の弊害が指摘されたことはありました。そのたびに入試改革が行われてきました。一九七九年からの「大学共通第一次学力試験」、いわゆる共通一次試験もそのひとつです。ついで、一九九〇年から実施されたのが「大学入試センター試験」でした。この計画は一九八五年に臨時教育審議会で提案され、五年かけて実現しました。
 それから三〇年。ふたたびこのような大改革となったのですが、入試改革だけではなく、幼児から二〇代前半まで、日本社会を構成する若年層の思考や能力をいっぺんに作り変えていこうという壮大な計画が策定され、進行しつつあるのです。
 これはあまりに大きな話です。もっと本格的な議論、さまざまな観点からの協議が必要なのではないか、そう思ったときには時すでに遅し。もう動き出していました。たしかに「イノベーションの創出を活性化」することや「人材の質を飛躍的に高めていく」ことに反対の人は誰もいません。目指していることはたいへん立派で、そうありたいと思うことばかりです。しかし、その具体化のプランが実は問題だらけであることが判明したのです。
 さらに、こうした提言を受けて、高等学校の教育課程について「学習指導要領」が新たに改訂され、二〇一八年三月に告示されました。二〇二二年度からはこの指導要領に基づいた教育が実施されることになります。
 この指導要領も、「主体的・対話的で深い学び」とか、「思考力・判断力・表現力」を育てるなど、抽象的ではありますが、すっと読むだけならなるほどなと思うテーマを掲げています。だれしも「論理的な思考力」を身につけて、「創造的」な主体性を築くことに大賛成です。しかし、そうした目標を実現するには、どのようなカリキュラムが必要で、どのような具体的プログラムが必要かは曖昧なままでした。
 教科の科目名でいえば、社会科でこれまで「日本史」「世界史」と区分されていた科目が「歴史総合」という科目名に変わることになりました。「日本」と「世界」はそう簡単に切り分けられないし、どちらかでいいということはないからです。たしかにそうです。したがって、すべて改革案が悪いわけではありません。ところが、おかしなところもたくさん出て来ました。その最たるものが国語科でした。
 国語科の科目名称の変化は次のようになっています。

(現・学習指導要領)
必修科目 「国語総合」(4単位)
選択科目 「国語表現」(4単位)「現代文A」(2単位)「現代文B」(4単位)「古典A」(2単位)「古典B」(4単位)
(新・学習指導要領)
必修科目 「現代の国語」(2単位)「言語文化」(2単位)
選択科目 「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」(各4単位) 

 歴史は「総合」に向かい、国語は分解に向かうというのは何だか奇妙に見えますが、「国語総合」がまず「現代の国語」と「言語文化」に分かれました。ついで単位時間数や難易度によってAかBかに分かれていた「現代文」と「古典」という区分が「論理」「文学」「古典」という分類になっているのが目につきます。なかでも「論理国語」「文学国語」という、日本語としても聞き慣れない、見慣れない熟語が科目名となって飛び出してきたので、よけいに不審の目で見られることになりました。
 英語科では、「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」の四つの技能を身につけることが重要だと強調されていますが、国語科でも同じように「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の三つの領域に強いアクセントが打たれています。これまで国語科は「読むこと」ばかりを中心に教育して、「話すこと・聞くこと」「書くこと」がおざなりだった。今後は「読むこと」を圧縮して、他の二領域の習得を目指す。新しい指導要領にはそうしたことが書かれています。実用的なことが重視され、コミュニケーション能力や社会的に使える力がついたかどうかが焦点になっていることが分かります。「読むこと」の縮小には首を傾げますが、少なくとも「話すこと・聞くこと」「書くこと」にも力を注ぐという提案に、一般論でいえばだれも反対ではありません。
 でも、それはどのようにやるのか。どこまで遵守しなければならないのか。さっぱり分かりません。見えたのは、「大学入学共通テスト」のサンプルやモデルとなる試験問題です。そこからさかのぼって、どのような国語教育が構想されているのか。前著の探究はそこから始まりました。結果的にとんでもなく困った事態になりそうだということが分かってきたのです。

†論理か文学か?

 新しい指導要領に基づく高校の教科書はまだ出来ていません。二〇一八年三月に指導要領が告示されて、文科省によるその解説の正式版が刊行されたのが、二〇一九年二月です。これまでにない分厚い解説本でも目標や理念、方法の説明が主ですから、具体的な内容はまだ見えていません。したがって、「話すこと・聞くこと」を増やすと言っても、どの程度なのか、その拘束力は強いのか弱いのか、どのような教育が実際になされていくのか、ほとんどの高校の先生たちには分からずにいます。
 「論理」と「文学」を切り分けるという発想は、文学を囲い込むのではないかという懸念を生みますし、必修科目の「現代の国語」には文学的な文章をいっさい入れないというのが「学習指導要領」の方針だそうです。しかし、方針と言っても、どこまで拘束力があるのか、どういう中味になるのか、想像もつかない。生徒や保護者にとってはなおさらでしょう。何となく心配で、漠然とした不安が教育現場をおおっているのはそのためです。
 「大学入学共通テスト」のモデルを見るかぎり、これまでのような著名な書き手による評論やエッセイから出題するのではなく、問題作成委員の人たちがオリジナルに作った文章や図表、会話文が並んでいます。地方自治体の景観保護や、駐車場の契約書、高校の生徒会活動規約など、虚構の題材が用意され、それに応じた設問が用意されていました。記述式試験に表れたこうした特徴が、新しい「学習指導要領」に基づく教育のトーンになるらしい。それは「現代の国語」という必修科目に端的に表れ、実用性と問題解決能力の向上を狙って、「論理国語」という選択科目に接続されるのであろう。そうした推測が広がるにつれて、大きな危惧の表明がなされるようになりました。
 文芸評論家の伊藤氏貴さんがまず『文藝春秋』に「高校国語から「文学」が消える」(二〇一八年一一月)という短いエッセイを書かれました。ついで日本ペンクラブの元会長である作家の阿刀田高さんが同じ『文藝春秋』で「高校国語から文学の灯が消える」(二〇一九年一月)との声を上げました。すぐに続いて日本文藝家協会が、二〇一九年一月に「高校・大学接続」国語「改革についての声明」を発表しました。いずれも高校の「国語」や入試問題の改革において、「実学が重視され小説が軽視される、近代文学を扱う時間が減る」として、批判の声をあげたのです。そこには「文部科学省が提示するこの新たな国語教育について、作家や教師、教育機関、出版者など現場の担当者、そして各分野の有識者、専門家の知力を総結集すること」が要望されていました。
 呼応するように、従来は教育問題などにほとんど目を向けていなかった文芸雑誌にも反応が現れました。集英社の『すばる』七月号が「教育が変わる 教育を変える」という特集を組み、文藝春秋の『文學界』九月号も「「文学なき国語教育」が危うい!――入試激変、カリキュラム大改編」という特集で同じ問題を取り上げました。『季刊文科』という雑誌の七八号(二〇一九年七月)でも「国語教育から文学が消える」と題した特集がありました。
 「文学」が高校の国語から消えると言うと、センセーショナルに聞こえます。雑誌としてはそうした見出しの方が人目を引きやすいのですが、重要なことは、どのような教育内容が求められているかにあります。「論理」と「文学」を分けると何が起きてしまうのか。「現代の国語」や「言語文化」ではどのような授業が計画されているのか。「学習指導要領」の告示から二年近くたって、ようやくその一端が少しずつ見えて来ました。「大学入学共通テスト」の第二回プレテストも、二〇一八年一一月に実施されたので、もう一つのサンプルも出てきたのです。ならば、前著では検討できなかった新たな材料をもとに、さらなる検討を行ってみようというのが本書のテーマです。

†言葉をきちんと読むために

 「大学入学共通テスト」については、これまで示されたモデル問題は現行の「学習指導要領」に合わせた試験内容であると言われています。まだ旧来の指導要領に応じて、手心を加えたものだというわけです。新しい指導要領が実施されてから三年後の、二〇二五年一月に予定される「大学入学共通テスト」Ver.2ではさらにもっと大きな改革を行うと予 告がなされています。
 新しい教育課程に応じたテストになるので、今回の改革で加えられた部分が一気に増量する可能性がありますし、教科をまたいだ合教科型のテストが用意されるのではないかという予測も出ています。つまり、「英語」とか「国語」とか、「理科」「社会」という教科を超えた試験問題が出るのかもしれません。
 人生は教科別に出来上がっているわけではないので、現実にふりかかってくる問題は 個々の教科だけで解決できるはずはありません。しかし、かつて「ゆとり教育」が唱えられたとき「総合的な学習」という授業が用意されたはずなのに、その成果はどうだったかが十分に検証されないまま、教科を超えた問題へ、というのはいくらなんでも無理でしょう。でも、そうした夢想のようなことをやりたい、やってしまおうという一部の政治家たちが今回の改革では結集しています。
 しかし、まだ小手先の改革というその「大学入学共通テスト」で、「英語」についてはすでに民間試験導入の延期が決定しました。「数学」についても、記述式試験の問題ではプレテストでの正答率があまりに低かったため、計画と異なり、文章記述を減らして数式中心にするというように解答形式を縮小することが発表されました。実は「大学入学共通テスト」だけ見るならば、もうすでにふらふらの状態です。果たして、そうしたなかで国語教育はどうなっていくのでしょうか。
 本書の構成について簡単に説明しておきます。
 まず第1章では、二〇一八年一一月に実施された第二回プレテストのうち、記述式問題である第1問について検討します。総じてこれまでのサンプルやプレテストの不評を輓回しようとして、かなり改善された試験問題になっているのですが、その分、問題点がたいへんクリアに浮かび上がってきました。このテスト分析を通して、教育改革の内実を探る手がかりにしたいと思います。
 第2章は、同じ第二回プレテストの第2問を分析してみます。第1問はこれまでのモデルと異なり、署名のある文章を複数、組み合わせて記述式問題を作っていました。そして実用的といわれる文章を中心とした問題を第2問に持って来たのです。あまりに不評だったための苦肉の策かもしれませんが、その第2問でも大きな問題点があることが分かりました。
 第3章は、新しい「学習指導要領」解説のための解説本を読んでいくことにしました。どのような教育課程に基づき、どのような教育内容を計画しているのか。ここではその前提として、解説本の著者たちの現在の教育についての考え、また「学習指導要領」そのものの捉え方を、それらの本から抽出して批判的に検討してみました。
 第4章は、「現代の国語」と「言語文化」という必修の二科目について、いまどのような指導計画が組み立てられているのかを追及しました。教科書もまだ出来ていない現状においては、こうした解説本が手がかりになります。熟読した結果、大きな失望と落胆を抱くことになったのですが、どこに問題点があるのか、このままではいかに従来の国語教育の長所をなくしてしまうかを明らかにしていきます。
 第5章は、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」という四つの選択科目について検討を加えました。「論理国語」の内容には目を疑うとともに、決して文学軽視はしていないと豪語しているその「文学国語」がどういう授業として構想されているかが分かってきます。
 第6章は、今回の改革の背景にある思想的な問題を押さえた上で、「学習指導要領」改訂の弱点を取り上げます。これまでの定番的な教材や小説にどのような可能性があるかを探り、複数の資料を読み、それらの情報を統合し、構造化するという目論見がまったく逆の、国語教育の迷走を招き寄せるであろうと指摘しました。テスト問題や指導要領解説を読むことは、高校生や高校の先生、予備校の先生と文学研究者が同じテクストに向き合っている瞬間を感じる興味深い体験でした。テクストとテスト、「ク」があるかないかの違いではありますが、それらの文章をどう読んでいるかを試す絶好の機会となりました。ところが、そのなかで今回の改革推進派の方たちがいかにテクストを読めていないか、それがテストそのものの作り方にも、指導計画にも表れていることがよく分かりました。文学が消える、消えないという話ではなく、そもそも言葉の力や怖さをあまり理解できていない人たちが国語改革を引っ張っていたのです。
 入学試験や高校の「国語」に表れた徴候は、大学とも同じ根でつながっています。「アクティブ・ラーニング」という言葉が今や大学教育のあらゆる局面に登場し、カタカナの合言葉がいたるところでくりかえされています。浅薄なキイワードの乱舞がこの教育改革を貫く特徴です。
 本来、「国語」は、人間の人間たるゆえんに結びついた言語を扱う教科です。あえて「学習指導要領」の言葉を使うならば、言葉を通して「生きる力」の根源にふれる教科こそ、「国語」だと思います。だからこそ「生きる力」は、何よりも日常生活、社会生活の生きた現場に結びついていなければなりません。ところが、私には、今回の改革案は「生きる力」の獲得を目指そうとしながら、結果的に「生きる力」を弱体化するプランのように見えます。私たちの過去と現在に端を発した教育改革のねじれを見すえながら、「ことばの教育」の未来について考えていきたいと思います。

 

(付記)大学入学共通テストの「国語」「数学」に記述式試験の問題を導入する計画については、二〇一九年一二月初旬、ようやく政府与党内からも延期ないし再検討の意見が出て、文科省もその意向を無視できない状態となりました。おそらく本書が刊行される時点では、既に何らかの決断が示されていることでしょう。まさに時々刻々の変化が起きているのですが、たとえ延期になったとしても、それは採点の公正さを維持できないなどの理由によるものです。あまりに遅いその結論は当然のこととして、新学習指導要領が現行のままであるかぎり、しばらくしたら、また同じような計画が起き上がりこぼしのように浮上してくると思います。その背景に潜むさらに大きな問題を本書を通して確認していただければ幸いです。

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