単行本

書物を読むのは極悪う御座います?

「禅の語録」復刊・完結

 禅は問答の宗教である。坐禅や作務がいかに重要であろうとも、禅はそれのみでは完結しない。禅の宗教としての生命を保ってきたものは、問答による「道」の達成と伝授であり、それゆえに禅門では、古来無数の問答が展開され、それを記録する大量の「語録」がのこされてきた。
 だが、そのようにして積み重ねられてきた禅の書物は、概して難解、さらには一見不可解ですらあり、参禅者は文字に執われてはならぬと常に誡められてきた。夏目漱石の『門』のなかで宜道という禅僧も、主人公宗助に次のように諭している。

書物を読むのは極悪う御座います。有体にいうと、読書ほど修業の妨になるものはないようです。私どもでも、こうして『碧巌』などを読みますが、自分の程度以上の所になると、まるで見当が付きません。それを好加減に揣摩する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべき所に頓挫が出来ます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。……(岩波文庫、頁二〇八)

 むろん、これは初心の心得であって、名のある老師が内に蓄えている学識は実はたいへんなものである。しかし、右のような考え方の影響は深く、一方で膨大な典籍をのこしながら、もう一方で禅門では、確かに、書物に対する軽視や蔑視、さらには敵視の意識が根強くつづいてきたのであった。
 だが、この半世紀ほどの間に、状況は大きく変わってきた。その転換を決定づけたのは、一九六九年から刊行の始まった筑摩書房『禅の語録』二十巻(既刊十七巻)であった。入矢義高と柳田聖山の事実上の監修によって遂行されたこの叢書は、本文校訂の厳密、訓読と現代語訳の正確、注釈および解説の精深と周到において、禅宗文献読解の水準を一気に推し上げたものであった。禅籍が禅研究のみならず、ひろく東アジアの歴史・思想・文学・言語等の研究でも重要な資料として用いられるようになったのは、実に『禅の語録』以後のことと言って過言でない。そのような読みを貫いているのは、禅の問答に対する入矢の次のような考え方であった。

いかにも冷暖は自から知るべきものであるが、ただ知っただけで終りではない。その「知」ったことを自分でまず言葉に表わし、そのことによってその「知」を客体化するという、この省察の過程をくぐらせることで、それを知った己れの「それ」との関わりかたを確かめなおす――いわばこうした自己検証の鍛練を経なくては、その悟りも、その美も、おのれのものとはなり得ないし、人に示し得るものともならない。(「中国の禅と詩」『増補・求道と悦楽』岩波現代文庫、頁八四)

 禅の書物を言葉による「自己検証の鍛錬」の記録と看、その文字と精神を、虚心に、正しく、深く読む、それが入矢の読みであり、その読みを支えたのが、唐宋代の口語に対する入矢の該博な学識と柳田の歴史研究・書誌研究の重厚な蓄積であった。
 その後、禅の思想史的研究は大きな進展をみたが、その間、『禅の語録』は常に不可欠の拠り所でありつづけた。そのことは、今も変わらず、おそらく今後も変わらない。さらに近年は、研究者のみならず、禅門の心ある人々の間でも、外向きの発信と内向きの修行の双方を充実させる真摯な努力の一環として、東京や京都で勉強会が組織され、『禅の語録』以来の学問的成果をふまえた熱心な禅籍の講読が行われている。そうした気運に後押しされて、長らく未完のまま品切れとなっていた『禅の語録』が、今回ついに、全二十巻二十二冊という新編成で復刊された。禅は今まさに、新たな時代に入りつつある。かの宜道和尚も、今なら、こう言ってくださるのではなかろうか――いや、書物を読むことも、そう悪いことでは御座いませぬ。時によい薬にもなりますから、御止しにならぬ方がよいでしょう。
(おがわ・たかし 駒澤大学教授/中国禅宗史)

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