海をあげる

私の花

 3歳のころ、娘ははじめて迷子になった。お正月の1月1日の朝、おみこしのように娘を担いで「ワッショイ、ワッショイ」と家じゅうを練り歩いていた夫は、急に叫び声をあげたかと思うと動けなくなり、「ごめん、たぶん、これはぎっくり腰」と言いながらそろりそろりと寝室のベッドまでたどり着くと、それきりもう起きることができなくなった。
 横になった夫のそばに娘は座り、「とーちゃん起きて」と手をひっぱって、起きあがることができないことを知ると、今度は声をあげて泣きだした。ベッドの周りをうろうろしながら、「風花がこんな調子だと治るものも治らないから、とにかく風花を連れてどこかに行ってくる」と言って、その年のお正月はスタートした。
 1月1日は海の見える丘まで散歩に行き、その帰り道でイチゴを買って、夫の実家のお食事会には娘と行った。
 「今朝、風花を担いでおみこししてたらぎっくり腰になった」と言うと、高校時代の憧れの先輩でいまは家族になった義理の妹は、「お兄ちゃんがごめんね」と小さくなって謝った。
 1月2日は近くの公園にヤギとカモを見に行き、夜は実家で開かれる新年会に娘と行った。
 1月3日は動物園に行くために、朝早くから準備しておにぎりをつくり、池の鯉のご飯にしようと途中のコンビニで150円くらいの食パンを買った。
 動物園の大きな池で鯉にパンをあげていると、娘は突然、「鯉にはあげない」と言って逃げ出して、鯉にあげるはずの食パンをむしゃむしゃひとりで食べ始めた。私は娘を追いかけて、たくさん走ってたくさん笑った。
 動物園で散々遊び、おうちに帰る前にトイレに行こうと娘を誘い、娘のトイレを済ませてから「かーちゃんもトイレに入りたいんだけど」と言うと、娘は「お外で待っている」と言う。「じゃあ、かーちゃんが出てくるまで、こっちのドアを触って待っていてね、約束ね」といって隣のドアのノブを触っているように娘に言ってトイレに入った。
 トイレを済ませてドアをあけると、そこに娘はいなかった。
 髪の毛が逆立つような思いで娘を探す。なにか食べ物のあるところじゃないかと思ってひさしのあるパーラーまで走るけれど娘はおらず、動物園に入場したときに「ぬいぐるみを見る」と言っていたから、入り口付近の売店かと走るけれど娘はおらず、「もっと乗る」と騒いでいたからメリーゴーランドを見ているかと乗り物のエリアまで走るけれど娘はおらず、これはもう場内アナウンスと並行して警察に連絡しようと思って入り口にある受付に走ると、駐車場に通じる階段から知らない女性に手をひかれた娘がやってきた。
 「風花!」と声をかけると、娘は「あー、かーちゃん」と言ってにこにこ嬉しそうに手を振って、娘と手をつないでいた女性は、「駐車場でウロウロしていたので、受付に連れて行こうと声をかけたんです」と話す。
 娘はトイレを出たあと、ひとりで長い距離を歩き続け、入り口を抜けて駐車場まで歩いて行って、私の車を探していたらしい。
 お礼を言って娘をうけとり、手をとって娘のそばにしゃがみこみ、「風花、かーちゃんの顔をみて。かーちゃん泣いているでしょう? ひとりで行ったらだめ」と言うと、娘はびっくりした顔で「おうちに帰るでしょ。車に行こうとしたの」と言う。私はしゃがんだまま娘と話す。

 「でも、ひとりで行ったらだめ。1、車を運転している人は、小さな子どもはみえない。2、小さな子どもを連れて行く不審者がいる。3、不審者は、おうちにお菓子があるからおいでって言って子どもを誘拐する。だから、ひとりで行ったらだめ」

 娘が頭をかしげながら真剣な顔をして、「誘拐のこと、教えて」と言う。
 「誘拐っていうのは、知らないひとのおうちに連れて行かれて、かーちゃんやとーちゃんに会えなくなること」と言うと、「違う。誘拐のこと。お菓子がどうした?」と娘は怒る。なんで怒るのだろうと思いつつ、「子どもを誘拐するひとは、お菓子があるからおいでって言うんだよ」と言うと、「違う。お菓子はなぁに」と娘はまだ怒っている。
 子どもと話すときにはディテールが大事なのかもしれないと思いいたり、「お菓子、お菓子は、えーっと、お菓子は、たぶんクッキーとかチョコレート。えーっと、あと、おせんべいあげるから、おじちゃんのおうちにおいでと言うんだよ」と言うと、娘は急にきりっとした顔をして、「風花は決めた。かーちゃん、風花は誘拐される」と言うので、ずっこけた。
 これはもう繰り返し話さなくてはならない話題なのだと思い直し、帰りの車で誘拐は怖いのだと私は話す。それでも娘は、「おせんべいがもらえるから、風花は誘拐される」と言うので、ぐったりする。
 家に帰ってから、今日、動物園で迷子になって、トイレから駐車場までかなりの距離を歩いていたと、寝室で横たわる夫に話す。

 「どうも連れて行かれることが怖いというのがピンとこないみたい。風花のことだから、おせんべいに抵抗できないで、ついていきそうなんだよね。今日、とっさに、“誘拐”とか、“不審者”とか言っちゃったから、ちょっと早いけど、性教育も始めよう」

 「それよりおせんべいを食べさせたら」と夫は笑う。私が「やっぱり危険なことは、きちんと教えないといけないと思う」と話すと、「まあ、じゃあ、今年は4歳になるし、ゆっくり始めてみようか」ということになった。
 翌日、夫はようやく動けるようになった。本当にひどい三が日だった。