ちくま学芸文庫

喜田貞吉──頑固者の賤民研究

『賤民とは何か』解説

被差別民・被差別部落の歴史をテーマにした小説、評論を数多く発表している作家・塩見鮮一郎氏が、『賤民とは何か』(喜田貞吉著)についての解説をお寄せ下さいました。本書の著者・喜田貞吉についても『蘇る巨人 喜田貞吉と部落問題』(河出書房新社)という著作を発表されています。わが国の先史、古代史、民俗学、部落問題など多岐に亘る分野で先駆的業績を残した独自な学者・喜田。彼の学問的核心、賤民の研究とは?

 1 人となり

 どれほどの人が知っているのか。いかほどの人が関心を寄せられておるのか。それがは
っきりとしないので、かれについて書くのがむずかしくなる。柳田国男(やなぎた・くにお)についてなら、もう『遠野物語』の、あるいは『海上の道』などの著者で、さらに、民俗学を近代に根づかせ、独創の「常民(じょうみん)」という概念をひろめた、となる。しかし、同時代を並走したかれ、喜田貞吉(きた・さだきち)にはそういうものがない。七、八十年もまえなら、「法隆寺再建(さいこん)論争」の一方の旗手とか、「南北朝正閏(せいじゅん)問題」で詰め腹を切らされた文部官僚といった程度の知識は、新聞紙上を借り、かなりひろく共有されていた。
 かれには代表的な著書がない。ジャーナリスティックな発言をするので、書肆(しょし)
としては一冊の本にまとめたい。依頼すると、このテーマに関する研究はまだ充分ではなく、もうすこし時間をください。実際、古代史や民族の形成、蝦夷(えみし)の研究、部落に関する論稿は、数年をまたいで、とびとびにつづく。
 探究は進行中だというのは正論だが、それをいえば、すべての学徒が同じ状態にいる。
未完未熟とわかっていても世に問いかけて意見を聞き、つぎのステップにすすみたい。そ
のような学者を言外に批判することにならないか。喜田の場合は、弁明の言葉よりもさき
に、当人の体質があった。性癖(せいへき)といってもいい。腰の重い頑固者。弥生時代からつちかわれた列島の農民気質である。喜田はそれを沢庵(たくわん)の漬物石のように腹の底に置き、そこから、軽佻浮薄なモダンボーイの先生たちにむけて、きびしい批判の矢を射つづける。
 幼少時の環境や体験が関係していた。
 徳島駅から牟岐(むぎ)線に乗り、十二キロほど南下する。立江(たつえ)駅には、四国霊場十九番の札所(ふだしょ)の立江寺がある。さらに西へ三キロほど行くと、櫛渕(くしぶち)村(現・徳島県小松島市櫛渕町)になる。喜田貞吉の生誕の地だ。家族と寺子屋の先生の期待を一身に浴びて、おだやかな少年時代ををすごしたが、徳島市の中学校に入ると一変する。「郷中者(ごうちゅうもん)」とからかわれ、「百姓」「ちび」「鼻べちゃ」と、いじめの集中砲火をあびる。もう学校へ行きたくない。第三高等学校が誕生すると、そこの試験を受けて中学から逃げた。
 この時期の屈辱が、喜田をがまんづよい頑固者にした。時代の本流からはずされてもくじけない。郷中者と言われて、たじろぐことはもうない。農民はふるくは「オオミタカラ」と呼ばれた。「オオミタカラは、[大御田族(おおみたから)]で、天皇の大御田を耕す仲間ということであろう」と、本書の初めのほうに書いている。「大御宝」と表記できないのを残念がる口調が見え隠れする。
 帝国大学(東京大学)に入ったのは、一八九三年(明治二十六年)で、数えで二十三歳。国史科をえらんだ。文部省の図書科に席を得たのは三十一になってからで、数年のフリーターの期間がある。在野の歴史学者と語らって、雑誌「歴史地理」を創刊し、そこに研究論文を掲載する。
 入省してまもなく国定教科書を作成することになり、喜田は小学生用の歴史と地理を担
当して九冊を書いた。教科書が使われ出してから六年ほどが経って、歴史の教科書に南北
朝が並立されている。不敬ではないかという批判が起こった。喜田にしてみれば、北朝の
天皇を「賊あつかい」にしたくないので並立しただけで、だれよりも天皇を尊崇している。大逆事件の起きた一九一〇年(明治四十三年)のことで、世間の空気はぴりぴりしている。関係者のだれかを人身御供(ひとみごくう)にしなければおさまりがつかない。
 渦中の人は、一九一三年(大正二年)に京都帝国大学の専任講師に転じた。一九二四年
(大正十三年)には、東北帝国大学の講師にもなり、東京の自宅から西へ北へと通う多忙な日をすごした。一九三九年(昭和十四年)、直腸がんの手術を、御茶ノ水の順天堂医院でおこなったが、もう手のほどこしようがなかった。享年は数えの六十九。遺骨は櫛渕村へ運ばれ、墓は生家の裏山にある。

 2 その仕事

 櫛渕村の野人(やじん)は、関心のおもむくまま、きわめて多方面の分野で活躍する。文献学と言っていいのかどうか、たとえば、本書収録の「濫僧(ろうぞう)」という存在に興味をいだくと、古書古典をひろく渉猟(しょうりょう)して、使用例を引いてくる。喜田の文章にはリズムがあって読むのに苦痛はないが、引用がつづくと煩雑(はんざつ)になる。「濫僧」という語は、やがて史書から消える。喜田は気がつかなかったが、僧侶のまねをして、やぶれた袈裟(けさ)をまとい、喜捨(きしゃ)を乞う人は絶えない。江戸の巷(ちまた)にもあふれ、各種の風俗画に描かれている。「願人坊主(がんにんぼうず)」こそが、その末流であって、「濫僧」とむずかしく書こうが書くまいが、どの時代にもいた乞食坊主だ。
 二十年ほどまえ。前世紀の末、喜田貞吉について、分かりやすい本を書くよう依頼され
た。当人の手で代表的な論作すらまとめられていないのに当惑した。逡巡していると、編
集部の数人が手分けして、平凡社刊『喜田貞吉著作集』をコピーしてくれた。神田周辺の
古書店でも見つからなくて、図書館で借りてきた。すさまじい量の紙片(しへん)が段ボールで送られてくる。喜田没後四十年も経過した時点で、雑誌発表の断片をさがし出し、十四巻にもわたる著作集を編んだ。その歴史学者の熱意を感じた。無駄にしてはならない。わたしが書いてもなんの力もないが、勉強するつもりで読み始め、読みつづけ、依頼された仕事を終えた。ひとりの人間の脳に刻まれた膨大な知の集積回路。本は、『喜田貞吉』というタイトルで、一九九九年九月、三一書房から刊行できた。
 ここでは紙数もないので、かれの達成の、ほんの一部を紹介する。ひとつ、被差別部落
の研究、ふたつ、ひろいパースペクティブで賤民をとらえなおした論考。これらは、今日
に通じる内容なのだろう。電子本もふくめて容易に読める。
 右のふたつの喜田の仕事は、大正になってのことである。ロシア革命、シベリア出兵、
米価高騰に生活をおびやかされた市民の暴動とつづき、一九一九年(大正八年)には、部
落民同情融和大会、京城(ソウル)では反日独立運動が空前の盛りあがりを見せる。書き
たいことが山のようにあったのだろう、「歴史地理」の誌面を間借りするだけでは追いつ
かず、「民族と歴史」という自分の雑誌を作った。
 創刊半年後の七月の誌面が、「特殊部落研究号」と銘打たれた特集で、三百数十ページ
を部落史のテーマで埋めつくした。当時の社会の規範に照らせば、破天荒な冒険であった。
代表の論考は、「特殊部落の成立沿革をを略叙してその解放に及ぶ」(注・「喜田貞吉著作集」に未収録。内務省主催「細民部落改善協議会」での講演を基調にして加筆修正した内容だ。なぜ著作集からはずされたのかは不明。)で、各論が付属した。
官学イエスマンには絶対にできない内容だ。時宜を得ていたのだろう、話題になった。
 部落の特性を、①屠者②皮細工人③河原者とした。そのうえで古代の屠者(としゃ)を、猟師と猪飼(いかい)で代表させ、やがて牛馬の処理もする。②皮細工人(かわさいくにん)
は、京都鴨川の河原に小屋掛けしていたので③河原者とも呼ばれる。同じ河原で生活していても、皮革製作にたずさわらない者もいて、「非人」と称した。両者を分かつのは「ケガレ」の概念である。死牛馬に接触する仕事への忌避感(きひかん)が底流にある。(処刑の手伝いやハンセン病者の世話、街路・河川の清掃、葬送の仕事など、現実ではケガレの対象が複雑にからみあっている)。
「えたの定義」の①②③は明快であったので、その後の学者や運動家に引きつがれ、きわ
めておおきな影響を残した。マルクス主義者の佐野学(まなぶ)も引用したし、まだ二十歳にならない青年・高橋貞樹(さだき)も『特殊部落一千年史』で踏襲している。しかし、はっきりさせておきたいのは、喜田の論考もまた先行する著作の影響を受けている。柳瀬頸
介(やなせ・けいすけ)の『社会外の社会 穢多非人』のことだ。一九〇一年(明治三十四年)に刊行されたので、十八年ほどのタイムラグがある。
 右の本をまず柳田国男が読み、つづいて喜田貞吉も目を通した。柳田は時代の趨勢に押
されてか、友人が書いた『破戒』に刺激されてか、一篇だけ被差別部落について論じてい
る。「所謂(いわゆる)特殊部落ノ種類」で、ここに、「柳君ノ著『穢多非人』ハ二十余年前ノ研究トシテハ奇特千万ノ書ナレドモ」と、まちがいだらけだが、柳瀬頸介についてふれている。
 柳瀬頸介の研究の仕方も古書史書を探索して、テーマに関係する文言(もんごん)を抜き書きしてくる。参考文献としてあげられている書目は、雑誌もふくめて、八十六項になる。喜田もこのリストに目を通したはずで、未読のものは探して読んだだろう。双方の内容が似てくるのは自然かもしれない。早い時期での「ケガレについての言及」は、柳瀬の最大の功績である。古代では神事(しんじ)のときだけ忌(いみ)をきらったが、仏教によって四時(しじ)始終にひろめられたとする。
 一方、喜田は「神にも生贄(いけにえ)として獣類を供え」ていたことを述べ、「仏法では、殺生肉食を悪事」にすると強調した。だが、ここには国家神道に浸透された著者による二重のレトリックが隠されている。仏法渡来以前の、女王卑弥呼のころでもケガレたし、清流の水でもって身をきよめた。『古事記』冒頭の話などもふくめて、喜田はよく知っているくせに、都合の悪いことはなにも言わない。仏徒(ぶっと)についても、かれらが死穢(しえ)にふれるのもいとわず、死者を寺でとむらい、墓地の管理をする。また神仏混
淆(こんこう)の知恵によって、日本ではおおきな宗教戦争を回避できた経過についても考えない。
 「特殊部落研究号」が出てから九年後、一九二八年(昭和三年)に喜田は再度、同じテーマに取りくみ、それが本書の主要論考『賤民概説』になった。さきの論文が部落の歴史を追うのに力を注いだのにくらべて、こちらは広範囲の雑多な賤民を個別に論じながら、それらの変遷の過程に穢多部落を置いた。右のふたつの研究はおおむね重なるが、後者にはあたらしい事象もつけくわえられ、論の強弱にも変化がある。
「漂泊と定住」という概念は、柳田が「所謂……」で提起し、喜田がうけついで展開した。賤民とはなにかという問いへのひとつの答えだ。貴族や武士、宗教関係者などがよい土地を占有するが、農民もまた五穀栽培のために定住し、「オオミタカラ」と呼ばれる。一方、経済的な理由で零落した者、合戦での敗者、病者、捨て子、犯罪者などは、住むところを求めて流浪する。櫛渕村にもいつからか流れ者の一族が住みつくが、「来(き)たり人(にん)」と呼ばれ、村祭りに参加できない。かれらを喜田は思い浮かべ、また獲物や食物を求めて山間を移動する集団のことも考えた。漂泊もまた賤民のしるしになると即断した。(穢多身分が無税の土地に定住して生活し、子孫に諸権利を相続している事実をいわない。気がつかなかったのだろうか。もしこのことを問えば、武士擡頭とともに穢多村が城下か近郊に置かれ、そこの頭かしらにほかの賤民の統治がまかされた経緯が判明した)。
 以下、蛇足になりますが、『賤民概説』の第十節にある、「坂の者」について。「サカノモノがサカンモノになり、、転じてサンカモノとなった」とある。一種の語呂遊びで、戦前の歴史学者は、さがしていた言葉が古典に見つからないとき、この「転じて」をやる。喜田はほかでも、「エトリ」が「エッタ」になったという『塵袋(ちりぶくろ)』の説を諾(うべな)っているし、オロッコ(ウイルタ)が自分たちを「エッタもしくはイェッタ」と呼んでいると聞くと、あれほど「穢多は異民族ではありません」と強調していたくせに動揺する。「坂の者」とは、奈良坂とか京都の清水坂に集住していた非人のことで、「サンカモノ」になったりはしない。維新後になって流布した「サンカ(山窩)」は、ふるい資料には見つからない。せいぜい、「山家」を「さんか」と読んで、山住まいの隠棲びとが、『山家集』を編んでいる。
                               (二〇一九年五月)
 

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