高橋 久美子

第18回
スミレ

絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。また12月18日には待望の詩画集「今夜 凶暴だから わたし」をミシマ社から刊行されました。

 
 アスファルトのほんの僅かな切れ目から、折りたたんだ蝶々の羽のように花弁が顔を覗かせているのを節子は見逃さなかった。若い頃はノッポのせっちゃんとか、電信柱なんて呼ばれて腰をかがめてばかりいたけれど、今じゃ本当に縮んでしまって顔を上げられないから下ばかり見て歩くようになって、お陰で、踏みつけて歩いていた小さな草花にも気づくようになったのだから何が人生を変えるかはわからない。
「まあ、ここにも、スミレかしら」
 杖を支えにしながらしゃがみこむと節子は足の小指の爪ほどの紫の花弁を愛おしそうに眺めた。そのとき丁度玄関の扉が開いて、住人の女性が驚いたように「おはようございます」と上ずった声で挨拶をした。女性は、ゴミ収集場になっている家の前の電信柱の下にゴミ袋を置くと、「あのう、何されているんですか?」と不安げに尋ねた。それもそのはず、ここは、通りに面したこの女性の庭なのだから。
「あなた、これ見て。お花が咲こうとしているの」
 と、節子は地面に頭を擦り寄せたままかすれた声で返事した。
「まあ、ほんと。こんなところからお花。強いですね植物って」
 女性も屈んで、アスファルトの隙間に目を凝らした。
「家にも二本咲いていたんだけどね、これスミレだと思うのよ。それも日本のスミレ。いつぶりかしら。子どもの頃見たっきりかもしれないわ」
  と節子が言うと、女性は、なるほどという感じで深く頷きながら、
「確かにスミレって名前は親しみあるけれど実際見たのは私も初めてです。植物お詳しいんですね。お庭も綺麗になさってますものねえ」
 と大げさに節子を褒めたが、この女性と話をするのは多分初めてのように思った。数年前引っ越しの挨拶で亀屋のどら焼きを持ってきてくれたのはこの人だっただろうか、それとも黒船のカステラの人だったか。住宅密集地に五十年も前から住むので、色んな人が入っては出ていって夫が亡くなったあたりから同世代の人も少なくなり他の家との交流が殆どなくなっていた。若い人たちと共通の話題がないこともあるが、ただなんとなく、なんとなく立ち話をする習慣が時代にそぐわなくなったのだと心得ている。
  女性は、草抜きをしばらくさぼっていたからスミレが見られて良かったと笑った。家の中から「おかあさーん。ごはんごはん」という声がしたことに節子は気づかずにマイペースに会話を続けた。
「ははー、ふーん。ふーん。そうですねー、少しくらい雑草を残しておくのもお庭にゆとりがあっていいですよ。私も、昔は植物をあれこれ育てておりまして。んー、でも一人暮らしですと、この時期は落ち葉がひどい。あれを掃き集めるのだって毎日骨が折れますからねえ」
 おかーさーん。もう! 遅れちゃうよー。と、声がさらに大きくなったがやっぱり節子の耳には届かなかった。
「ごめんなさいね、おばあちゃん。私、息子の朝ごはんの準備が」
 そう言うと、返事も待たないまま、女性は目の前の扉に吸い込まれていってしまった。
「あー、そうかー。学校があるものねえ、お引き止めして悪いことをしてしまったねえ」
 とドアに向かって謝った。そしてスミレの花をなでると、また杖を伝って腰を元の高さまでもっていき、そろりそろりと用心深く歩いた。お天道様を仰ぎたいけれど、もうそれは叶わない。本当に三歩で終わってしまう朝の散歩を終え、また静かに家に戻った。
 
 今日の味噌汁は、白菜と南瓜に、すりおろした生姜をたっぷりいれた冬の定番だ。歩くのは大変だけれど、夫がこしらえてくれた椅子に腰掛けて炊事をするのも板についた。結婚してからかれこれ六十年、朝は味噌汁と納豆そして大きく巻いた硬めの卵焼きに米と決まっている。戦中の物のない時代に生まれた。あの頃は白米なんてめったに食べられなくて玄米や麦ばかりだったから今は真っ白い米をたらふく食べることにしている。玄米が若い人の間で流行っていると聞いて、選べるというのはなんと素晴らしいことだろうと思った。それしかないのとはわけが違う。卵は一日二つまでは食べてもいいことにしてあるから、朝に作った余りは夜に食べる。
 コーヒーに食パン一枚だけで学校に行かせる母親が増えているとテレビで見たけれど、そんなもんで昼まで子どもの集中力がもつわけがないと節子は思っていた。ガスを弱火にして四角い鉄の上で卵をくるくる器用に巻いていく。
「君の手料理が一生食べられるなんて僕は幸せもんだねえ」
 と言った夫の仏前にも、小さく切った卵焼きを供えると、線香の煙の代わりに湯気が立ち上った。どんどんと二人の記憶がなくなっていくが、結婚して初めての朝に作った卵焼きを食べて言ったこの一言を思い出すと、節子はいつも胸が熱くなった。醤油に少し砂糖も混ぜて甘じょっぱく仕上げるのがこつだ。たまにほうれん草や海苔も巻いてバリエーションを出した。
 一人暮らしは退屈だが、寂しくはなかった。思い出の引き出しを引っ張ってもないのに、古びたこの家に暮らしていると、机についた傷一つで家族の気配を感じることができた。
「うん、本日の南瓜はとびきり美味しいねえ」
 独り言を言っても返ってこないことにも慣れた。孤独死なんて名前は失礼千万、私は決して孤独なんかではない。一人で食べるご飯は美味しくないと言うが、そんなことはない。美味しいものは美味しい。それはきっと一人だからと怠って手を抜いたからだ、努力と忍耐が足りないのだ。冬の木漏れ日を背中にぽかぽかと感じながら、手によく馴染んだ栗の木の箸を口に運ぶ。思えば、あの頃の南瓜はこんなに甘くはなかった。野菜も人間も、いつからこういう甘くて臭みのない物に変わったのかなあと、ふと考える。

 ペケポンと間抜けなチャイムの音がなったのは、読み終えた新聞を畳み手すりを伝って廊下を歩いていたときのことだった。まあどうせヤクルトさんだろう。毎日変わりはないか、新商品はどうだこうだと勧めてくれるに違いない。今日こそは断ろう、二本も冷たいのをこの寒い木造家で飲めるわけがない。糖分の多い赤い蓋の方は血糖値のことも気になるし今日こそは断ろうと意を決して玄関へ向かう。
「はーいはーい、お待ち下さいねー」
 ギギギと立て付けの悪いドアを開けると、屈んだ腰を伸ばさずとも目が合った。ん? そこに立っていたのは見慣れたヤクルトさんではなく、黄色の毛糸の帽子をかぶった女の子だった。節子はしばらく、はて、と子どもの顔を見て、孫の年齢を順に思い出したが、どう考えてもこんなに小さな子は家にはいなかった。赤いランドセルを背負って髪の毛をお下げにした子どもは、黙ったままつっ立っている。
「あらー? お嬢ちゃん、どこの子? 朝の、スミレの家の子?」
 小学三年生くらいだろうか、少女はもじもじとしたまま何も言わない。
「お家を間違ったんじゃないかねえ? まあまあ、コートも着ないで寒かろうに。ちょっとこたつにあたるかい?」
 少女は、白いブラウスとカーディガンにスカートという出で立ちで、いくら元気でも師走の風景に混ざるには無理があった。その下から、ひょろひょろと長く伸びた手足が覗いていて、見ているだけで鳥肌が立つようだ。節子は、少女を居間のこたつに案内すると、石油ストーブに火をともした。唇の色が紫になって、朝ごはんを食べていないのだろうと思った。全く、どこの親だろう、朝起きたらまず温かいものを食べさせなければ子どもはすぐに血糖値が下がってしまう。三人も育ててきたから、顔を見れば大体のことがわかった。
「朝ごはん食べるかい?」
 少女は小さく頷いた。
  お盆に今日の残りの朝食を乗せて持ってくると、少女は一目散に食べた。それにしてもどこの子だろうなあ。警察に届けるのも薄情な気がして、まあしばらくはゆっくりすればいいさ、とテレビをつけて何も聞かずに過ごしてみた。そのうち、お腹がいっぱいになって眠たくなったのか、少女はこたつの中ですやすやと眠ってしまった。虐待なんかを受けているんじゃないかと思ったが、眠っているところを見るに外傷はなさそうだ。親と喧嘩でもして家を飛び出したのだろうか。それとも学校で嫌なことがあってズル休みだろうか。まあ、かつてはどこの誰だろうと、こうして家に遊びに来た子は一緒にご飯を食べさせていたんだから、そっとしておいてやればいい。
 十時をまわって、襖だけで区切られた居間から顔を出して少女はつぶらな瞳でこちらをきょろきょろと見ている。
「まあまあ、よく寝ていたね。学校始まってしまったねえ。今からいくかい?」
 と意地悪く尋ねてみたが、嫌そうに首をぐにゃんと項垂れたので、
「ほっほっほ。それじゃいいもの食べるかい? ほーれ! 今ちょうどホットケーキを焼いていたとこさ」
 と言うと、少女は台所の方へ走ってきて、ちょうどフライパンの中でぷつぷつと気泡を出しながら焼けていく満月型のものを嬉しそうに眺めている。
「これ食べたら、あんたのお名前くらいは教えてくれるかねえ」
 こんがりきつね色になった少女の顔ほどあるホットケーキを皿に入れると、バターとはちみつをたっぷりとかけて渡した。引き出しからナイフとフォークを出してやるとそれを器用に使いながら口に運んでいった。温かいミルクを飲み干し、一息つくと少女は
「おばあちゃん、ごちそうさま」
 と言った。それは、どこか懐かしい聞き覚えのある声だった。
「おいしかったかい? うん。そりゃあよかった。それで、あんたはどこの家の子だね?」
「私は、近くの家に住んでるよ。おばあちゃんの家の前のお花綺麗に咲いてたね。ほらあれはスミレだね」
「へー。おじょうちゃんよく知っているんだねえ」
「うん。ほら植物図鑑持ってるよ」
 そう言うと、少女はランドセルの中から古びた植物図鑑を取り出し、パラパラとページをめくった。紫色の小さな花の写真がアップになって、白や薄紫のスミレが並んでいる。節子は首から下げたチェーンを手繰り寄せてメガネをかけると、一緒に図鑑を見た。
「エイザンスミレに、ノジスミレ、タチツボスミレ。そうそう、確かたくさん種類があるのよねえ。でもやっぱり、これじゃないかい? ええと、ス、ミ、レ。ただのスミレだねえ。ははは、スミレはスミレかあ」
 スミレのページの頭に大きくカラーで載っている、〈雑草にまぎれて咲く〉と書かれた紫の背の低い花の横には「スミレ(菫)」とだけ書かれていた。
「おばあちゃん、私こんなにごちそうになったからお手伝いする」
 女の子は、図鑑をしまうと、皿とマグカップを台所に運びながら言った。
「いいのいいの。ここでテレビでも見て、今日はゆっくりしてきなさい」
「ううんと。じゃあ落ち葉を掃いてあげる。私得意なのよ」
 白い靴下で廊下を滑るように走ると、少女は外に出て行った。まるで追いつけない風のようだ。節子もやっとのことで外に出ると、女の子は竹箒と熊手を交互に使って庭の落ち葉をかき集めはじめていた。
「おやまあ、手際が良いねえ。学校でちゃんとこういうことも教えているんだわ。感心感心」
「おばあちゃん、スミレがこんなに綺麗だよ。寒いのにちゃんと咲いて偉いねえ」
 節子は声のする方を振り返って驚いた。小さな中庭に、スミレが絨毯のように敷き詰められているではないか。昨日まではなかったと思うのだが、一体自分は夢でも見ているのだろうかと目をしばたたいた。
「まあ……驚いたねえ」
 節子はしばらくその場に立ち尽くしてその光景を眺めていた。
「ありがと、もういいよ。ほらぁ、手がこーんなに冷たくなって」
 温めてやろうと少女の手を握ったとき、節子ははっとした。どこかで握ったことのある手だった。小さくてやわらかくてそれなのに、指が大人みたいに長くて綺麗で。この手、この手は……まさか、と思った。
 黄色い毛糸の帽子――。母さんが隣町の縫製工場の手伝いに行って、やっとのことでためたお金で姉妹に毛糸の帽子を作ってくれた。赤いのをお姉ちゃんのせっちゃんに、黄色いのを妹の唄子ちゃんに、と。
 揃いの帽子をかぶって畦や道路脇の小さな野花を採って遊んだ。近所に住んでいた一回り年上のお姉さんからもらった立派な植物図鑑を開いてあれやこれやと調べながら。ノビル、イヌフグリ、スミレやレンゲも、草だと思っていた物の中には食べられるものや、薬になるもの、綺麗だけど毒のあるものもあって、二人で調べては食べられるものを探した。まだ危なっかしい唄子の手を引いて学校へも連れていった。小さくて柔らかくて、でも貝殻みたいなピンク色の爪。大きなせっちゃんの手とは形が違うね、と友達にからかわれても少しも悔しいとは思わなかった、妹のかわいくて美しい手。まだ寒い冬の終わり、野道を紫の小さな花弁が覆い尽くして、花を踏まないように跳びながら帰った。
「こんなに寒いのに偉いお花ね」
「私達もスミレのように頑張らないとね」
 遠い遠い記憶がまるで昨日のことのように蘇って、置いたままにしていた箱の鍵をあけていった。
「唄子……」
 抱き寄せた唄子のうなじからは赤ちゃんのときのまんまの甘いミルクの匂いがした。小さな胸がトクトクと波打つのが節子の肩を伝って、それが嬉しいのに苦しくて、涙が季節外れの雪のようにこぼれた。
「うたちゃん、良かった。小学生になれたのねえ」
「せっちゃん。おかしいね、どうして泣いているの?」
「唄子、うたちゃん。うたちゃん」
「せっちゃん、泣かないで。これあげるよ。学校でスミレの押し花したのよ、わたし。すごいでしょ」
 唄子は、誇らしげに植物図鑑に挟まった白い半紙を手渡した。やがて、真っ白い光が差し込んで、次第に景色はゆらゆらとぼやけていった。唄子の笑い声が遠のいていく。その後を節子も追いかけたけれど、光の境界線はまたたく間に広がって向こう側に行くことができなかった。

 節子はしばらくぼんやりとまどろみの中に身をおいた。ゆっくり左腕を上げるとしわくちゃの甲が見える。あれ? どっちが本当の世界だっけ。さっきのは夢? それとも、まだ私は小学生で、今も長い長い夢の途中なのではないか。ここがあの小さなバラックで、唄子が走ってくるのではないか。
「やあねえ、耄碌しちゃって」
 独り言を言っても返事はなく、頬のあたりを伝った涙の跡が冷たかった。
 お仏壇の角に置かれた小さなお位牌を両手で包むと目を閉じた。いつの間にか田んぼや畑は消え失せて、街でスミレさえも見なくなって、驚いている暇のないほどに忙しく子育てと家事に追われ、そうして気づけば辺りはビルばかりになっていた。背は縮んでせっちゃんと呼ぶ人はいなくなってしまった。
 手すりを伝って応接間へいくと本棚から古ぼけた植物図鑑を取り出し、スミレのページを開くと変色した半紙がひらりと落ちた。丁寧に開けると中には薄紫色になったスミレの花が挟まれていた。
「うたちゃん、喝入れにきてくれたのねえ」
 窓の外はすっかり夕暮れ色に染まり、二本のスミレが照らされ萌えていた。今朝供えた卵焼きがなくなっていることに節子はまだ気づかない。
「よいしょっ」と立ち上がると、台所へ戻り鉄瓶を火にかけた。

 

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