加納 Aマッソ

「年賀状」

あけましておめでとうございます。
Aマッソ加納さんから年賀状が届きました。
2020年が、皆様にとっていい年でありますように。

 毎年、年賀状を書くために、過去にもらった年賀状を引っ張り出して住所を確認する作業をするが、その度に「なんて効率が悪いのだろう」と自分に呆れる。いいかげん一つのノートにまとめればいいものだが、後回しにして年賀状を書き始めると、そのまま忘れてしまう。
 なんてったって、年賀状の求心力がすごいのだ。私は昔から、年賀状のあけっ広げでけろりとしたところが好きだ。堂々としているし、さらにめでたい。富士額の上半身裸の男が仁王立ち、みたいなイメージだ。気心の知れない「賀正」の文字なんかに面積の大半を譲ったりするのも気前が良いし、一年のうち書いているその一日しか意識しない干支に下駄を履かせているのも滑稽で憎めない。年賀状文化の衰退はやむを得ないと思うが、SNSを駆使していない私としては、ほそぼそと続けていければいいなぁと思っている。
 そうは言うものの、実は堂々としていない手紙も好きだ。必ずと言っていいほど封筒に入っていて、私と誰かとの間に郵便局員の視線が注がれることはない。ファンレターである。こんな私にもわずかながら書いてくれる人がいる。そこには「賀正」よりもはるかに小さい文字で、「本年もよろしく」なんかよりももっと具体的なことが書かれている。
 とある学校の先生からのファンレターは、ネタの中身に言及していた。私たちの漫才の中に「絵画はもう鮮度を優先するところまできた」というセリフがある。なんの根拠もないデタラメな話だ。だがそのセリフについて「美術の先生が同じことを言っていました」と書いてあった。絵画が到達した新たな境地に驚きつつも、私はこのネタをフィクションであることを前提で作ったので、「ほなもう出来へんがな」と笑いながら、次のページを愉快にめくった。
 やたらと謝っているファンレターも面白い。「汚い字ですいません」「自分の話ばっかりでごめんなさい」「長くなってしまって申し訳ないです」「すいません何の話か分からなくなってきました」と延々と謝罪が続く。たしかに「何が言いたいんや」と怒りたくなるが、最後に猫のイラストが書いてあったりすると、「責任はこいつにありますんで」と言っているようで、その急に開き直った感じがじわじわきてどうも笑ってしまう。

 一度だけ、ライブの帰り道にファンレターを読んで泣いたことがある。内容はあいにく年賀状でないので言えない。でもその手紙にとても支えられた。
 今、その手紙をくれた人を劇場で見ることはなくなった。それでも、その手紙は今でも引き出しにしまってある。たまに出しては読み返す。私たちを応援していたことを忘れてしまってもいい。せめてその人の元に、今年も大切な人からのあっけらかんとした年賀状が届いていますようにと、それだけを願う。

 今年は年賀状のようにオープンな、郵便局員も楽しませられる一年にしたい。