加藤陽子☓長谷部恭男

大日本帝国憲法はどこから来たのか

憲法と歴史の交差点(2)

5月にジュンク堂池袋店で開催されました、歴史学者と憲法学者のお二人の対談の第2回目です。

大日本帝国憲法は、究極の押しつけ憲法?

加藤 先生は『論究ジュリスト』(有斐閣)2016年春号に掲載されている「大日本帝国憲法の制定――君主制原理の生成と展開」で、明治憲法の制定の時点から書き始めておられる。憲法の理論一般ではなく、明治憲法についてのご論文なのでいささか驚きました。これは歴史家的な勘ぐりなんですが、今年の5月2日、憲政記念館で改憲を目指す人々による集会が開かれまして、そこには来賓として渡部昇一さんが出席され、報道によれば、「明治憲法に返れ」というようなご主張を展開されたといいます。長谷部先生は、このご論文のなかで、改憲派も護憲派も、大日本帝国憲法について考えるのであれば、君主制原理を認めなかった美濃部の国家法人理論について、改めてちゃんと検討してみましょうと書かれていますが、これは単に学説的に面白いからではなく、改憲論者に対して、有効な学問的な反論を完璧に書いてしまおう、というご意図がおありになったのでしょうか。
長谷部 私は最近「お前は裏で策謀しているんだろう」と言われることがありますが、そんなことはまったくございません(笑)。純粋な学問的関心から書いたものでして。
今ご紹介いただいた『論究ジュリスト』の論文では、次のようなことを書いています。先ほども申し上げました通り、大日本帝国憲法の根本的な原則は天皇主権原理で、これは具体的には第4条で定められています。
 この第4条に示されているのは、実はドイツから直輸入された君主制原理です。しかも君主制原理は、ドイツで生まれたものではない。その起源は、フランスの1814年シャルト(憲章)に遡ります。1814年4月にナポレオンが退位した後、5月3日にルイ18世が亡命先のイギリスからパリに戻ってきた。5月18日に憲法起草委員会を拵えて、それからわずか半月ほどでつくった憲法なんですね。日本国憲法は2週間で作られたと言われることがありますが、GHQが2週間かけて草案を作って、その後第90回帝国議会で半年かけて審議された。それと比べて、フランスの1814年シャルトは、本当に2週間ちょっとでできあがっている。
加藤 それはひどいですね(笑)。しかし、明治憲法のお手本となった1814年シャルトが2週間でできました、と明るく言われますと、悶死しそうな人々が現れそうで怖いです。
長谷部 そのシャルトの中に、君主制原理が書き込まれていました。ドイツにはいろいろと小さな国(Staat)があったんですけど、シャルトはそれらの国の憲法のモデルとして採り入れられていきます。南ドイツですと、バイエルンやヴュルテンベルクが典型ですね。井上毅はこれらの国の憲法、およびそれを説明する憲法理論を読んで勉強した。そして「これはいいものを見つけた」ということで、君主制原理を大日本帝国憲法の中に書き込んだ。
加藤 つまり大日本帝国憲法というのは、究極の押しつけ憲法だと。井上毅のように1814年シャルトをしっかり学んだ人が、君主制原理をドイツから直輸入した。そういう部分があるということですね?
長谷部 まあ、外来であることは間違いないですね(笑)。しかも、国民の意見など聞かないでお上から賜ったものですし。
加藤 わかりました(笑)。今回、ジュンク堂がこのトークのためにご準備くださった本の中に、上杉慎吉の本がございます。皆さまもご存じの天皇機関説事件、1935(昭和10)年に美濃部憲法学に対して、貴族院・衆議院などで言葉尻を捉えた曲解に満ちた観点から批判がなされました。ただ、美濃部と上杉の論争というのは、すでに大正の初めからなされていた。これは論争としては、内容のあるものでしたか。
長谷部 今の加藤先生のご質問に大ざっぱに答えますと、次のようになります。先ほど述べたように、美濃部達吉は君主制原理と国家法人理論を、互いに対立するものとして捉えた。これらは両立し得ないものですが、美濃部はここで国家法人理論を取った。これに対して上杉慎吉は、君主制原理・天皇主権原理を取った。
 上杉慎吉の代表的な教科書で、『新稿憲法述義』という本があります(増補改訂版、有斐閣、1925年)。この本では一応、国家法人理論に関する議論をしているんですが、面白い記述があります。彼はここで「国家法人理論というのは、暫定的なその場しのぎの議論だ」と言っている。君主主権の国家で市民階層が政治的な力を得て、議会政治を導入していく。何とか折り合いを付けて政治体制を運用していかざるを得ない。その状況を描くのに都合がいいのが、国家法人理論である。だからこれは、過渡的なその場しのぎの議論であると。これが上杉慎吉の主張です。
加藤 上杉の主張をこのようにわかりやすくまとめてくださってありがとうございます。政治体制の過渡的な変遷を意識した議論を展開していたところに上杉の議論の面白さがありそうですね。有名な話ですが、上杉は、いわゆる男子普通選挙法ができる前の段階で、現役軍人にこそ普通選挙権を与えろなどと主張もした人で、トータルとしてのイメージが捉えにくかったのです。
長谷部 これは、戦後日本の憲法学の国家法人理論にたいする受け止め方とほぼ同じなんです。戦後日本の憲法学は、国民主権原理に立脚している。国民主権原理というのは、非常に含蓄の深い概念です。これは国家法人理論と整合するような理解もできるんですが、そう理解しない方々も非常に多い。
 私は芦部信喜先生のもとで憲法学を学んだのですが、先生の憲法の教科書にも、「国家法人理論は、実は暫定的性格を持つものだ。これは君主主権が国民主権に移行する際、君主主権なのか、それとも国民主権なのか。その決定的な対立を回避するために、暫定的に採り入れられた制度・理論である」ということが書かれています。これは上杉慎吉の捉え方とほぼ同じと考えていいと思います。
加藤 宮澤俊義が八月革命説というのを提唱しましたよね。これは、1945(昭和20)年8月のポツダム宣言受諾により天皇から国民へと主権が移行し、新たに主権者となった国民が日本国憲法を制定したと考える説です。つまり国家を、君主主権と国民主権の間に置かずに理解しようとする。宮澤さんはそういう「魔術」を使ったんでしょうか。
長谷部 はい、その通りです。天皇主権から国民主権に大転換したという議論は、実は国家法人理論とは別のレベルの話なんですね。一貫して国家法人理論を推し進める立場からすれば、天皇主権なるものはそもそも法律論として筋の通らないもので、法律学から放逐すべき概念と考えられていました。法律学的に言って、天皇主権から国民主権へと転換することにどういう意味があるのか。美濃部達吉は、それにはあまり意味がないと考える。だからこそ美濃部は、敗戦後に憲法を改正する必要はないと言っていた。彼の学問的な立場からすると、それは首尾一貫している。
加藤 なるほど。大日本帝国憲法に返れ、とまで主張する方々は極端だとしても、戦前の憲法そのものは、統帥権独立による軍部の暴走さえなければ良い憲法だったと評価したい方は、美濃部が、まさに「憲法改正は必要はない」といった、この部分を最大限利用しますね。一方、あれだけ天皇機関説事件で苦い思いをした美濃部が、なぜ、憲法改正は必要ないといったのか、その理論的筋道が摑めず、結局、美濃部は保守であった、ということで話が終わってしまうことが多かった。天皇主権から国民主権へと転換するという考え方に意味を見出さないという筋での、改正不要論だったわけですね。
長谷部 彼の学問的立場からすると、それは誠実な態度ということになると思います。
加藤 よくわかりました。

 

憲法学より歴史学のほうが美濃部に関心がある

加藤 憲法学というのは非常に深いわけですが、戦後の憲法学者たちは、美濃部達吉を大切にしてこなかったのではないか、と訝ってしまいます。それは、今に至るまで、美濃部達吉の『憲法撮要』の第5刷・1932年版などがきちんと復刊されていないことなどからも感じるのです。なぜ、全集あるいは選集の企画がなされてこなかったのでしょう。これは単純な疑問です。吉野作造であれば、岩波から全集・選集が出ています(『吉野作造選集』全16巻、1995-6年)。吉野は政治学者ですから美濃部とは当然違うわけですが。美濃部の著作が体系立てて復刊されない理由は、何か、天皇機関説事件時の、お弟子さん筋の対立など、憲法学者だけが知っている秘密の理由などあるんでしょうか(笑)。
長谷部 そのあたりは出版社の方に聞かないとわからないんですが、想定されるのは、出しても売れないということでしょう。
これに関しては、憲法学界の責任も大きいです。戦後日本の憲法学界の一般的な見方は、「美濃部憲法学は宮澤憲法学によって乗り越えられた」というものです。宮澤憲法学にはいくつかの主要な学説がありますが、その中のひとつが、加藤先生が今おっしゃった8月革命説です。
 8月革命説は「憲法の科学」の典型と言われているわけですが、宮澤の「憲法の科学」によって美濃部憲法学は葬り去られた。今さらそんなものを勉強してどうするのか。そういう受け止め方が一般的なんじゃないでしょうか。私のように、美濃部をまじめに勉強する人は変わり者と見なされるんだろうと思います。
加藤 美濃部に関しては、政治史あるいは、歴史学の方が、熱心に研究し続けてきたのかもしれません。私は講談社の「天皇の歴史」シリーズの中の1冊として、『昭和天皇と戦争の世紀』という本を書きました(2011年)。歴史学者にとって、美濃部の天皇機関説事件というのは、何度やっても面白いんですね。1935年(昭和10)になぜ、ああいうことが起こったのか。これまでにも、三谷太一郎、坂野潤治、尾藤正英など、名だたる学者が取り組んできました。
 私なども、先学に学びながら事件について改めて勉強し直したのですが、なおやはり新しい発見などがある。たとえば、幸徳秋水の大逆事件時の大審院次席検事だった平沼騏一郎は、天皇機関説事件で批判の核を提供していた人の一人だと思うのです。このような人々に知恵をつけられ、帝国議会で貴衆両院の議員が質問に立つ。学問的に見れば意味のない質問なのですが、ワシントン・ロンドン軍縮会議体制からの離脱の時期にあたるので、一般の人々の耳をそばだてるような議論の仕方を編み出していて、あざといと思いました。
 美濃部の『逐条憲法精義』の憲法第3条の説明部分には、憲法発布によって、天皇の国務については国務大臣がその輔弼責任を持つのだから、「天皇の大権の行使、国務に関する詔勅について批評し論議することは、立憲政治においては国民の当然の自由」であると書いてありました。その部分をわざと歪めまして、2月27日に衆議院予算総会で質問に立った江藤源九郎などは、「開戦というときに、国民が、いや今度は戦なんか出来ないと言って、この詔勅に対して非議論難しても宜しいのか」と質していました。
また、3月8日には、貴族院の井上清純は、軍人勅諭や教育勅語に示された精神と、機関説的解釈の間に齟齬はないか、と迫っていました。

天皇は法律論では語れない

加藤 長谷部先生は先ほどの「大日本帝国憲法の制定」という論文や『憲法のimagination』(羽鳥書店、2010年)の中できちんと書いていらっしゃいますが、美濃部は万世一系のマジカルな力を持った天皇が日本国を支配しても、国家にマジカルな力を持つ人がいても全然かまわないと思っていた、と。つまり、「天皇は現人神である」「国体は万邦無比である」と考えていてもいいといっている点を取り上げましたね。そのような人が当面、国家の天皇としての権能を果たすことは可能で、そこからスタートして国家法人理論・天皇機関説に行き着く。ですから、美濃部というのは本当に面白い。
 たとえば『古事記』から出てきた「シラス(統治する)」という言葉がありますが、権力ずくで天皇が「はい、征服したよ」と言って日本を治め始めたわけではないだろう、と。天皇が権力をふるうのは国民のためであって、そのための権能を果たすためだと説明する。しかし1935年、彼が天皇の神聖性を否定しているかのように叩かれた。美濃部としては、堅牢な憲法学説を提唱しているので、本来はちっとも困らない。昭和天皇が万世一系でも、全然かまわない。けれども、その万世一系の天皇があくまで、国家の権能を果たすために存在している、そこが大事。美濃部の憲法論の面白さは、機関説擁護の側からも、十分評価されていなかったのではないか。
 美濃部の場合、美濃部が本来論じている地平まで戻って擁護してもらえてないんですね。
長谷部 それはご指摘の通りです。美濃部は次のようなことを言っています。「日本は万邦無比である」「天皇は万世一系である」という物語と同様、天皇に主権が属するというのは、これは国民の神話に属するレベルの話である。もちろん日本国民の多くはそれを信じているだろうけど、それは法律論ではない。国家のありよう、つまり国家はどうやって動くのか、どう機能していくのかということを説明しようと思えば、国家法人理論しかあり得ない。その視点からすると、天皇は国家の一機関である。もちろん最高機関ではあるけれども、やはり機関のひとつに過ぎない。そこに関しては、首尾一貫していますね。

天皇機関説は正しいといった昭和天皇

長谷部 本庄繁という侍従武官長が『本庄日記』というのを残しています(原書房、1967年、普及版、2005年)。本庄繁はちょうど、天皇機関説事件の頃から2・26事件までの間、侍従武官長をやっていて、その間の昭和天皇の言動をつぶさに記録している。それによると、天皇機関説事件が起こった時、昭和天皇は「天皇機関説は正しい」と言っていた。それにもかかわらず軍部の連中は天皇機関説を排撃すると言い、自分を道具として使おうとしている。むしろ軍部のほうが、自分のことを機関扱いしているのではないか。お前はどう思うかと言われたようです。これは歴史のひとこまとして、面白いエピソードです。
加藤 はい、とても。ご存知のように、本庄繁が侍従武官になる時には天皇はちょっと抵抗する。本庄といえば、石原莞爾や板垣征四郎の関東軍参謀らが満州事変を起こした時の関東軍司令官ではないか、と。ただ本庄はとても真面目な人だったようで、天皇とのいろいろな問答を克明に記録してくれた、これはありがたいことです。長谷部先生がご紹介してくださった部分を見ても、天皇はやや自虐的、諧謔的に、「天皇主権説が紙上の主権説にあらざれば可ならんか」(1935年4月19日条)などと本庄にいっている。情報公開請求で全体がもう読める『昭和天皇実録』ですが、刊本の形では東京書籍から刊行がなされつつあります。
 日本国憲法の第99条には、公務員や天皇は憲法を守らなければいけないと書かれていますが、むろん戦前においても、大正天皇も昭和天皇も、宮内省御用掛の先生から憲法の講義を受けていました。戦後、日本国憲法が施行された後、入水自殺した清水澄という憲法学者、というより行政法の専門ですか、この清水が御用掛となって、美濃部の天皇機関説にのっとって講義をしています。その講義録が国立国会図書館の憲政資料室にありますが、肝心の統帥大権と編制大権の部分、すなわち憲法第11条と12条の部分の説明部分だけは抜けています。清水本人が抜いたと思われます。周辺の史料からは、清水が、1930年のロンドン海軍軍縮をめぐる問題の場合、浜口雄幸内閣がとった憲法解釈(条約上の兵力量決定は憲法12条の範囲ではあるが、憲法11条にも関わることから、政府が海軍軍令部側の意見を聞いた上で回訓決定をしたことは全く問題無い)を是とする立場で、宮内省と天皇に説明していたことは確実です。
 天皇はかなりきちっと機関説で講義されていたことがわかります。たとえば、『本庄日記』でも、「若し主権は国家にあらずして君主にありとせば、専制政治の譏りを招くに至るべく、又国際的条約、国際債権等の場合には困難なる立場に陥るべし。露国をして日露北京交渉に於て(芳沢、カラハン会商)「ポーツマス」条約を認容したる我日本の論法は、国家主権説に基くものと謂ふべし」(4月9日条)と述べていました。また、鈴木貫太郎侍従長が、昭和天皇の肉声として伝えている記述なのですが、「もし万一、大学者でも出て、君主主権で同時に君主機関の両立する説が立てられたならば、君主主権のために専制になり易いのを牽制できるから、頗る妙じゃないか」(『西園寺公と政局』第4巻、岩波書店、1982年第3刷、238頁、1935年4月23日条)とも述べている。君主制原理と国家法人説の両立のしがたさについて認識しているとも考えられますね。
長谷部 今ご紹介された『昭和天皇実録』の中に、天皇は敗戦直後、旧憲法の中で第4条の「統治権ヲ総覧シ」という部分を削ったらどうですかと松本烝治に提案したというくだりがあります。この天皇の提案をどう見るのか。君主制原理を否定し、国家法人理論で統一すればいい。おそらく昭和天皇は、そう考えていたのではないでしょうか。彼はかなり深いレベルで、憲法のことを理解していたと思います。
加藤 まさに、そこですね。戦後の『昭和天皇実録』部分で一番の読みどころはそこです。あれは1946年2月7日の条ですね。天皇は、日本政府側が持参した「憲法改正要綱」を見て、述べた部分でした。いわく、「第一条〔大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〕は語感も強く、第四条『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ』との重複もあるため、両条を合併して『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コノ憲法ノ条章ニヨリ統治ス』とし、従来の統治権の『権』を除くこと」はどうか、と具体的な案をも提示していました。
 戦前、高等文官試験を受ける官僚の卵が一番困ったのは第1条・第3条・第4条をどう整合的に書くかということだったそうです。昭和天皇はこの矛盾に注目し、「あそこを削除してしまえば、明治憲法を生かせるかな」と言っている。これは非常に面白いなと思いました。

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