高橋 久美子

第19回
美しい人

絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。また12月18日には待望の詩画集「今夜 凶暴だから わたし」をミシマ社から刊行されました。

 飴色に光る真鍮の取手を押すと、木の扉がギギギと音を立て開き、異世界へと誘った。爆音で流れるオペラに時男の細胞は一斉に分裂を始める。風俗街の入り口にあるこの名曲喫茶はまるであの世への関所だった。再開発でビルが乱立した迷路の街をくぐり抜けると、戦後から変わらぬ佇まいでひっそりと建つレンガ造りの館が現れる。大正時代からあるそうだが、空襲で焼けて戦後に再建されたと聞いた。
 一階から吹き抜けの二階へと正面の壁を覆うように巨大な木製スピーカーが三台も取り付けられ、クラッシックが毎日流れ続けている。初めてここを訪れた日、こうして爆音を聴いていると、もはや自分の知っているクラッシックではないことに気づいた。「クラッシック」という概念を飛び越えて、今最も新しいものとして輝いていた。癒やしや安心感といったものではなく、むしろ心にむくむくと野心の湧くような気配すらする。バロックや中世、もっと昔の音楽家たちの情熱や苦悩が目に見えぬ魂になって飛びかかってくる。これは時男の知っているパンクでありロックだった。
 時男は奥でレコードを片付ける女性店員に二階を指差すと、一見さんは上ることの許されない上階へと進んでいく。壁や重厚な柱、赤いビロードの椅子に染み付いた臭いはタバコだけではなさそうだ。九十年以上続く店内には人々の汗や涙、言葉にはできぬ妖気のようなものがへばりつきそれがこの喫茶店の歴史そのものを作っていた。時代に流されることもなく、突っぱねることもなくただただ積み重なった、自分とよく似た臭いだった。
 所定のテーブルに腰を下ろすと、家に帰り着いたような安堵感に包まれる。ネクタイを緩めジャケットを隣の椅子にかけ、ズボンからジッポを取り出すとタバコに火をつけ、深く息を吸い、目を閉じた。
「いらっしゃいませ」
 足音もなくやってきた先程の女性店員は消え入るような声で挨拶するとテーブルに水を置いた。愛想が悪いのもこの喫茶店の良さだ。ミルクと砂糖は必要ないと言っているにも拘わらず毎回「ミルクとお砂糖はおつけしますか?」と聞いてくるあたりも、この店に限っては正解だった。全てのリズムが音楽よりも規律正しくあった。
 時男は頻繁にこの名曲喫茶で仕事をサボっている。いやエネルギーをチャージしている。出版社の営業を始めてもうじき二十年、いくら世の中がデジタルに移行したといってもこの業界は足で稼ぐしかない。来る日も来る日も新刊を持って、書店の担当者へお願いをしてまわった。自分が本当に面白いと思ったものだと熱意をもって薦められるが、当然そういうものばかりでもない。書店で売れるも売れないも書店員がその本を気に入って売る気になってくれるかどうかにかかっているので大手の書店員と仲良くなることが必至だったが、時男はてんで駄目だった。元々編集者志望で入ったのに、真逆の性質をもつ営業ができるわけがない。いつかいつかと思いながら二十年が経ってしまったのかと思うと、この先も小説になりそうにない人生だろう。
 ジージーという音が聞こえると階下で先程の女性店員の声がする。
「只今の演奏はミヒャエル・ギーレンによる東京ライブ1992。ウェーベルン作曲のパッサカリア……指揮は……」
 二時と六時には演奏会と称して、ライブ盤のレコードがかけられる。目を閉じて、演奏を聴き、土砂降りの雨のような人々の拍手をあびているとまるでオペラハウスにでも来ているようだった。一階と二階を合わせると二百席はある客席は全てスピーカーに向かって並べられ、それらに座るのは観光客と数人の学生らしき若者だけだった。カーテンを締め切った室内は、昼下がりだということを忘れさせ自分の中にだけ埋没することができる。壁にかけられた携帯電話の絵には斜め線が引かれ、「写真撮影はご遠慮ください」とあり、その隣には「会話はご遠慮ください」だ。初めて来たときはまるで注文の多い料理店だと思ったが今は教会にいるような神聖な時間だった。

 しばらく瞑想に入っているうちに、床下がガタガタと揺れ珍しく新しい客が二階席へやってきたようだ。うっすらと目をあけると、斜め前の丁度スピーカーの前の席に髪を肩まで下ろした女性の後ろ姿が見えた。先程と同じ無愛想な店員がオーダーを取りにくる。目隠しの衝立があってよく見えないが、髪の毛がシャンデリアの光を反射して美しく光っている。
 昼間にこんなところへ一人で来るなんてどんな女なんだろうか。すごくいいところの奥さんか、いやいや場所的には風俗嬢の休憩か。にしては硬派な雰囲気である。それでいて適度に色気は漂っているのがいい。髪を耳にかけると細いゴールドのリングピアスが光った。変に装飾がなくシンプルな輪っかだけというのがセンスを感じる。流石、都会の女性だなとしばし見とれてしまった。
「コーヒーを、ミルクとお砂糖少し入れてお願いできます?」
 女の声ではっと我に返った。よく似た声の人もいるもんだ。時男は目を細めて女を凝視した。
 メニュー表を返そうと、ちらりと店員の方を向いた横顔。やっぱり似ている。化粧した顔をもう随分見ていないが確か口紅を塗って、アイラインを引けば綾瀬はるかを丸くしたような顔になっていたはずだ。カバンから眼鏡を取り出して、もう一度身を乗り出し確かめる。妻だ。妻の翠に見れば見るほど似ている。
 いやしかしそんなことあるはずがない。家からは電車で一時間半はかかるし、まずここへ来る理由もない。第一、妻がこれほど艶っぽく美しいはずがないではないか。今頃いつものフリースの部屋着にジャージでソファに寝転がってテレビでも見ているだろう。大丈夫だ、俺の妻はこんなにイカした女ではない。
 だが言い聞かせれば言い聞かせるほど時男の心臓は鼓動を速め額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。
 もし、これが妻ならどうする。家から一時間半も離れた風俗街で主婦が一人、一体何をしているというのか。しかも二階へ上ってきたのをみると、もう何度も来ているに違いない。夫を会社へ、子どもたちを学校へ送り出したあと、電車に乗って都心に出てきて何をしているのか。
 女はファーのついた上品なコートを脱いで隣の椅子にかけるとまるで恋人を待つ学生のように腕時計を気にしながらコーヒーをすすった。
「只今の演奏はマーラー作曲の交響曲第五番嬰ハ短調……」
 かったるい声でアナウンスが入り、しばらくして次の曲が始まる。何の曲なのか、時男は知らない。聞いても右から左へ抜けていく。翠も知らないはずだ。音楽の趣味があったなんて聞いたこともなかったし、コンサートどころかカラオケさえ一緒に行ったことがない。
 だとすると、まさか本当に浮気だというのか。時男は斜め後ろからじっと女を見つめた。背もたれに寄りかかって、時折音楽に合わせて頭を左右に揺らしながら、妻とよく似た女はじっと何かを待っているようだった。もしかすると、ここで男と落ち合ってホテルへ向かう気なのかも知れない。だってホテルと風俗しかないエリアなのだからそれ以外考えられないじゃないか。苛立つ時男をよそに頰杖をつきながら、女は音楽の中に溶けていく。髪をかき揚げた横顔には、ゴールドのリングピアスが光を集めゆらゆら揺れていた。
 そろそろ会社に戻らねばならない時間になったがこのまま帰るわけにはいかない。上司に「打ち合わせが長引いています」とメールを入れると、引き続き彼女を見張ることにした。
 女が急に立ち上がりこちらに向かってくるので慌てて顔を窓の方へ向けた。後ろにある本棚から迷いなく一冊の本を抜き出すと、また自分の座席へと戻った。あの赤い布張りの表紙は明治二十年代に刊行され、昭和四十七年に再版された小川未明の童話集に違いなかった。ここに通い始めた頃、時男もその本を手にとり読み耽ったからだ。
 女はその真ん中のページあたりを開いた。きっと続きを読むのだろう。
 やがてピアノ協奏曲に混ざって、鼻をすする音が聞こえてきた。女はスカートのポケットからハンカチを取り出し頰のあたりを押さえ始めた。今どの辺を読んでいるのだろう。貧しくてどこへも行けない少女が海の向こうへ思いを馳せている辺りだろうか。
 ワーグナーの弦楽四重奏曲をBGMに、妻かもしれない女の後ろ姿は美しかった。童話集を読み終えると女は腕時計を確かめ、本棚に本を戻すと足早に立ち去っていった。
丁度子どもたちの帰ってくる一時間半前だった。

 深夜、仕事を終えて家に帰ると既に家族は寝ていた。テーブルには「あたためて食べてね」のメモと一人用の土鍋が置かれてある。
 鍋をコンロにかけていると二階から翠が降りてきた。眼鏡に髪を束ねたいつものフリース姿だ。
「おかえり、今日も遅かったわね。お疲れ様」
「あ、うん。ただいま」
 今日どこかへでかけていたか聞きたかったが怖くて口をつぐんでしまった。
「お風呂、追い焚きしてね」
「うんうん、する。あのさ、翠、最近子どもと読んで面白かった本とかある?」
「え? 私がー? リカと光がはまってるのは、あれだよクマのパティントンとねえ……あとー」
「小川未明とかは?」
「おがわ? だあれそれ。初耳……」
「あ、そう。そうだよねえ知らないよねえ。明治時代の人だもん。いや今度児童書も担当することになってさ」
「そうなんだ。ふーん。いいのあったら二人にも教えてあげてね。じゃあもう遅いから寝るね。おやすみー」
 あくびをしながら二階へ上っていく妻の後ろ姿に昼間の女の面影はない。やっぱり他人の空似だったに違いない。
 ほっとしてコンロから鍋を下ろしテーブルの上に置こうとしたとき、隣にあった箸に当たって一本転がしてしまった。追いかけてしゃがみ込んだそのとき、ソファーの下に何か光るものが見える。
 何だろうかと手を伸ばして摑むとそれはゴールドのピアスではないか。いや、よく見るとこれは子どものプリントを留めているただの文房具のリングだ。それにしてもよく似ている。自分の耳もとにあててみると丁度昼間見たのと同じ大きさである。これを耳につけようと思えばできなくもない。時男は輪っかを開けたり閉めたりして確かめた。いやあれはもっと細かった。それにこんなに安っぽい色ではなくもっと深みがあった。
 自分の妻に限ってそんな嘘をつくはずがないではないか。気持ちを落ち着かせるとテーブルにリングを置き土鍋の蓋をあける。
 立ち上る白い湯気の中、キムチ鍋がグラグラと煮えていた。

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