海をあげる

空を駆ける

 朝になっても娘の熱は引かず、夫に娘を任せてひとりで今帰仁村に向かう。
 お通夜の一日はとても静かで、家を訪ねてきた親戚や家族たちと祖母の話をゆっくりした。
 告別式は朝から良いお天気だった。祖母の棺は孫や孫の夫たちに抱かれて、正面玄関から出て、祖母の好きだった庭先を通り抜けて、島の一角にある火葬場にゆっくり進む。
 火葬が終わるまでみんなで待って、火葬が終わると祖母の骨をみんなで拾う。しっかりと形を残している祖母の骨のちょうど膝のあたりに、金具にボルトが2本つけられた鉄の塊がごろんと転がっている。祖母の膝に、20年間入っていた人工骨だ。
 「こんなに重いものが入っていたんだ」「それなのに、楽になったって言っていたんだ」「あの世にいったら痛くないね」とみんな口々に話し、「これも骨壺にいれるんですか」と祭祀場のひとに尋ねると、「いいえ、あの世ではもう身軽になってどこにでもいけるのですから、これは必要がないものです」と教えてもらう。
 骨を拾い終えたあとで、隣に立っている母に、「ねえ、お息を引き取るとき、おばあちゃんはひとりだった?」と聞くと、「ううん。朝10時にいつものように顔をみにいったの。そしたら顔色があんまりよくないなぁって思ってね、それからずっとそばにいて、やっぱり気になるって病院にもみんなにも連絡をとってね。結局ね、おばあちゃんのそばに私がいた10時40分に息を引き取った」と母は言う。「一番、面倒を見たひとのそばで息を引き取ったんだね。おばあちゃん偉かったね」と言うと、母は「そうだね。それに、みんなね、最期に間に合わなかったとかじゃなくて、ちゃんと面倒をみてあげられたって満足しているよ」と母は話す。「それにしても、あのとき話した20年だったね」と母に言うと、母はきょとんとした顔をしている。
 「人工骨いれたときのこと。あのとき人工骨は20年しか持ちませんっていわれて、104歳まで生きるのかなって、話したでしょう」と尋ねると、「そうだった、あのとき、そんな長生きすることはないって思ったけれど、それなのに、まあ、見事に生ききったのね」と母も言う。
 火葬場からお墓まで祖母の遺骨を運びながら、ひときわ緑の濃い祖母の生家のある諸志の近くで、なんとなく祖母はまだこのあたりにいるような気がして車の窓を全開にする。
 竹林の、あのさらさらとした音を聞きながら、祖母は子ども時代を過ごしていた。

                   *

 海の見えるお墓に着き、お墓をあけると最前線に祖父の骨壺がひとりで待っていて、その後ろには、祖父の父母、祖父の祖父母の骨壺が整然と並んで待っていた。
 「お墓のなかはこうなっているのか」「最前列でおじいちゃんが待っていたね」「結婚式みたい」「パンパカパーン」とみんなで話す。
 泣いているひともいるけれど、笑っているひともいる和やかな雰囲気のなかで、お坊さんはみんなに集合するよう促して、それからゆっくり話し出す。

 「なんとまあ、見事に生ききったことでしょう。104歳です、みなさん。104年というのは一言で話せないほどの長い時間です。この104年の間で、このようにここにいるみなさんを生み、育て、そして生きてきました。あっぱれだとしか言えないでしょう。いまごろ、シズは偉かった、シズあっぱれだったと、政春さん、お父さん、お母さんに抱きしめられていることでしょう」

 お坊さんが、お墓のなかに祖母の骨壺をぐっと入れる。祖父の骨壺は深い緑色の焼き物で、祖母の骨壺は龍の絵が描かれたえらく派手な紫色の焼き物だ。
 「骨壺の違いも二人らしいね」「おじいちゃん、おまちかね。おばあちゃんきたよ」と言いながら、二つの骨壺をピタリとそばにくっつける。

 身体から自由になったあと、祖母はびゅんと今帰仁まで駆けて行って、子どものころ暮らした家の竹林を駆け抜けて、祖父と暮らした家や畑や近くの海をふんわり空から一瞥すると、それからはもうまっすぐ空を見て、どんどんどんどん駆けあがり、今ごろはもう、おじいちゃんに会えたはずだと空を見る。

 あの雲のあたりに、食いしん坊でわがままな、私のおばあちゃんは行きました。戦争を生き抜き、たくさんの子どもたちを育てあげ、おじいちゃんを見送ったあとの晩年は、子どもや孫にたくさん甘えて暮らしました。それはそれは見事で、あっぱれな人生だったと思います。私のおばあちゃんは、まっすぐ空に駆けて行きました。

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