佐藤文香のネオ歳時記

第36回「ペーパードライバー講習」「ヘアサロン」【春】

「ダークマター」「ビットコイン」「線状降水帯」etc.ぞくぞく新語が現れる現代、俳句にしようとも「これって季語? いつの?」と悩んで夜も眠れぬ諸姉諸兄のためにひとりの俳人がいま立ち上がる!! 佐藤文香が生まれたてほやほや、あるいは新たな意味が付与された言葉たちを作例とともにやさしく歳時記へとガイドします。

【季節・春 分類・生活】
ペーパードライバー講習
傍題 ペーパー講習

 進学や転勤などの理由で、4月から生活環境が変わる人は多い。職場内で転勤の内示が出るのは、だいたい2月で、車がないと話にならない田舎への転勤や、営業職として就職が決まったという場合、新年度までに運転の練習をしておく必要がある。東京などの大都市や、地方でも街の中心部に住んでいれば車はいらないので、学生の間に運転免許証を取得した人が、就職してからほとんど運転したことがないというのは珍しいことではない。久しぶりの運転が不安な人は、とりあえずペーパードライバー講習を受けるのである。
 学生の間にとりあえず免許だけはとっておけと言われてそうしたものの、結局ほとんど運転しないまま14年。そんな私がこのたびペーパードライバー講習に通うことにしたのは、他ならぬ環境の激変が迫っているためである。なんと4月から1年間、アメリカはカリフォルニア州のオールバニー(サンフランシスコの近くの町)に住むことになったのだ(現時点ではまだ「予定」)。夫の仕事の事情であり、現在前任者が住んでいる家に住むことになるので、家財道具などは譲り受ける。そのついでに車も売ってくれると言うが、夫はなんと運転免許を持っていない。しかしアメリカでは車がないと生活に苦労するとも聞く。もしやこの私がアメリカで運転……!? 友達に相談したところ、「アメリカではバックは使わないから大丈夫だよ、駐車も全部前進でいける」だの、「歌人のKさんだってアメリカでだけは運転できたんだから」だの、みんな適当なこと言って笑っている。結局、「運転できない」というコンプレックスを克服するためになかば自棄になって、車を買い取ることに決めた。ハンドルと車線の左右は違うにしても、とにかく練習せねば。夫は英会話で私は運転という分担、我々にこれ以外の選択肢はない。
 教習所での講習もあるが、私が選んだのは先生が教習車で迎えに来てくれるタイプだ。車通りの少ない場所まで先生が運転してくれて、そこで席を交代し、まずはミラーや座席の位置を調節。シートベルトをしていざ走り出す。といってもまずは左折左折左折左折……と、ひたすら左折。続いて右折右折左折右折左折右折……いつまでたっても車体とタイヤの角度が違うことが理解できず、ハンドルを切りすぎて角の電柱にぶつかりそうになったり、センターラインを大幅にオーバーしたりを繰り返す。右左折が安定してできるようになったら次のテーマに移行するはずが、できるようにならず時間が来たので、また先生に大きな道まで運転してもらって、そこから家までをがんばることに。
 信号待ちに車線変更、うわ、工事やってるの? あれ、この標識はなんだっけ? 全てがおそるおそるだったが、同時に少し感慨深くもあった。普段歩いている東京の道路を、まさか自分で運転することになろうとは、と。いつもはタクシーの運転手さんに「この角を左に」と言うその角を、自分でウィンカーを出して曲がることができるとは、と。歩くのと運転するのでは、同じ道でも見えるものが違う。その新鮮さは、早春に味わうにはちょうどいい。「ペーパードライバー講習」はちょっと長い言葉だが長音も多いので、字余りに気づかれないくらいにささっと使ってしまおう。

〈例句〉
ペーパードライバー講習三輪のバイク避け  佐藤文香
ペーパー講習今のは先生のブレーキ
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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