ちくま新書

日本人を無意識に縛る価値観

理不尽な上下関係や努力信仰が幅をきかせ、抑圧的な組織の論理がまかり通る日本社会。われわれに刷り込まれたこうした常識や行動様式はどこから来るのでしょうか? ベストセラー『現代語訳 論語と算盤』の訳者・守屋淳さんが『論語』の価値観を丁寧によみときながら、わたしたちを根深く規定するものの正体に切り込んだ『『論語』がわかれば日本がわかる』より、「まえがき」を公開いたします。

†われわれは何に縛られているのか

 初っ端からこの本のテーマを書いてしまいますと、
「多くの日本人を無意識に縛っている常識や価値観とは何か」
 の探究に他なりません。ちょっと抽象的なので、具体例をあげてみましょう。

●日本人が好むコンピューターゲームの形は、たとえば5人の参加者がいた場合、その五人でチームを作って、強大な敵を倒しに行くようなゲーム。
 アメリカ人の好むゲームの形は、五人の参加者がバトルロイヤルでお互いに殺し合いをして、一人の勝ち残りを決めるようなゲーム。(*1)

●日本企業が何か問題を起こしたときに、誠意を見せることの意味とは、
「事情が判明していなくても、まずは謝罪すること」
 アメリカ企業の場合、
「まずはきちんと原因究明をし、対策を立てること」

 いずれも「日本人あるある」「日米の違いあるある」といった話ですが、なぜこうなるのかには共通の土台がある、というのが本書の主題なのです。
 もちろん人間は、個々を見れば性格も趣味嗜好もまったく違うのが普通の姿。しかし、大きな傾向からいえば、われわれ日本人はある特徴的な「日本人らしい」行動様式を往々にしてとってしまいがち。これは単なる印象論ではなく、特に日本とアメリカを対象とした社会学や心理学、教育学の比較調査の結果からも明らかになっている事実です。
 では、こうした「日本人らしさ」「日本人あるある」の特徴はどこから来るのか ―― その理由を、日米比較などの調査研究の結果と、中国の古典『論語』や、そこから派生した儒教の価値観とを紐づけつつ解き明かしてみよう、というのが本書の狙いに他なりません。
 しかし、いきなりこのように書かれても、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
「自分も周りの人間も『論語』なんか読んでいないし、この情報化の時代に、そんな古臭い価値観の影響なんて受けてないよ」
 実際、20年ほど前に筆者が書店員だったとき、アルバイトの大学生が『論語』の解説書を、「中国思想」ではなく「論理学」の棚に配架していました。そして、これがおそらく一般的な感覚なのでしょう。
 にもかかわらず、読んだことのないはずの『論語』の価値観を、少なくない日本人が今もなお、なぜ無意識のうちに共有しているのでしょうか?

†論語濃度

 本書では、この点を次の二つの事象に注目しつつ、解き明かしたいと考えています。それが日本の「学校」と「会社や官公庁などの組織」、それぞれの価値観なのです。
 そもそもの話、「日本人らしさ」や「アメリカ人らしさ」といった「らしさ」は一体どこで形作られるのでしょうか。
 心理人類学者の箕浦康子先生の研究によれば、遅くとも14・15歳までにどのような文化や環境に置かれていたかが、その人の文化的背景、つまり「○○人らしさ」を形作る決定的な要因となるそうなのです(*2)。そして、そのような文化の刷り込みがなされる代表的な場の一つが幼児・小学校教育。
 さらに社会人になり、伝統的な企業や官公庁などの組織に所属すると、その組織風土が、子供のころに刷り込まれた価値観を強化していきます。
 こうした「教育」と「組織」の文化のなかに、江戸時代より現代までずっと根を下ろし続けているのが『論語』や儒教の教えでした。より正確に表現するなら、まずベースとして、日本の生活環境や社会環境から育まれた何らかの価値観、ないしは時々の為政者たちが定着させたいと考えていた価値観があり、『論語』や儒教の教えが、それを強化する形で外から導入されて、もとの価値と分かちがたく結びついていったのです。
 ただし現代においては、こうした刷り込みの度合いというのは世代や地域、また家庭環境によっても大きく異なります。ですからその影響度は、一律というより、「濃度」の問題と考えるとわかりやすいかもしれません。やたら「論語濃度」が濃い人もいれば、比較的薄い人もいるのです。
 こうした観点からいえば、本書の意義は次のように想定されます。
 まず「論語濃度」が薄い人にとっては、
「うちの上司や両親の言動、まったく理解できなかったけど、これが理由だったのか」
 といったように、「論語濃度」の濃い人の行動様式を理解するためのもの。
 逆に濃い人にとっては、自分を無意識に縛っている常識や価値観とは何かを知るためのもの。つまり、
「うわ、自分にとって『あるある』の話だよ、これは。しかもこんな理由があったんだ」
 と気づくためのもの。これによって、自分を無意識に縛るものを知り、自分を自由にすることができるのです。

†日本の組織が持つ無意識のクセ

 会社などの組織の場合も、個人と同様に「論語濃度」には濃淡の差がかなりあります。
 ただし、特に伝統ある企業では「論語濃度」が高めのところが今なお少なくありません。そして、そんな企業のなかには、こうした価値観からの脱却こそ早急のテーマと考えているところが存在します。
 2019年、社員に対する年頭の挨拶で、トヨタの豊田章夫社長は社員たちの前でこう述べました。
「自ら行動する人よりも、管理する人。一芸に秀でる人よりも、欠点の少ない人。スキルよりも年次。こうした、いつの間にかトヨタに根づいてしまった価値観ではなく……」
 ここで否定的に述べられている要素は、実はすべて『論語』や儒教の価値観と関係の深いものばかり。
●管理する人、欠点の少ない人 ―― 君子(地位や徳のある立派な人)
●年次 ―― 長幼の序
 ひらたくいえば、トヨタは『論語』的な価値観を重視しすぎる社内の傾向を是正したいと考えている、と解釈できる発言なのです。
 ただし、『論語』や儒教の価値観は、それ自体すべてダメとはもちろんいえません。正確にいえば、『論語』や儒教の教えとて、人の作ったものである以上、いい面もあるし、悪い面も当然あります。そのうち、いい面に関しては、ぜひとも現代人が取り入れるべきだ ―― そんな風に考えて、筆者は『論語』に関する本を書いてもきました。
 しかし現代において、特に会社などの組織では『論語』や儒教の価値観が持つ問題点の露呈によって、組織がおかしくなっている事例が散見されます。
 しかもこうした問題点の露呈は、歴史を見るかぎり定期的に繰り返されてもいます。太平洋戦争中の旧日本軍の組織的な失敗がその典型例。無意識に刷り込まれた価値観が同じであるがゆえの繰り返しなのです。
 ですから、その根底にある価値観の問題が自覚されない限り、おそらく今後50年、100年たっても日本では似たような「日本企業失敗の研究」「日本経済失敗の研究」のような本が出版され、同じような理由が列挙されていくでしょう。
 しかし、これも前の話と同じで、日本人が持つ「無意識のクセ」は、外部から指摘されれば「自分はそんなクセがあるんだ」と理解し、その対処を考え、進むべき道を再選択することができるのです。すなわち、
●同じものをそのまま選び直す
●同じものを、問題点を改善しつつ、選び直す
●全然別の道を選ぶ
 といった新たな方向づけが可能になります。トヨタの事例ではありませんが、特に日本の大企業などの組織において『論語』的な価値観が問題視され始めた昨今、こうした自覚は重要なことだと筆者は考えています。

 

(*1)和田洋一スクゥエア・エニックス前社長の指摘。

(*2)《9歳以前の子どもは、自分固有のものがまだ確立していないので、違う文化へ行っても、そこでの一般的な行動をはじめは戸惑いながらも、あまり抵抗なく受け入れていくのではないかと考えられた(中略)11歳から14・15歳の間に異文化圏に移行した場合は、前述のように、新しい文化環境の意味空間に不協和を感じていることが観察された。自文化の対人関係行動の意味空間への包摂がすでにかなり進行しているので、異文化の意味空間に不快感を経験するからである》(『文化のなかの子ども』箕浦康子、東京大学出版会)

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