高橋 久美子

第20回
卒業式

絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。また12月18日には待望の詩画集「今夜 凶暴だから わたし」をミシマ社から刊行されました。

「そのー、あれだよね、Amazonっていうのはー、あの、GoogleとかYahoo!と同じようなあれですよねえ」
 と、山野茂吉は言った。
 はい、もう無理無理ムリムリ。佳代は口元にうっすら笑みをたたえて適当に頷いてみた。一体どうして母さんはこんなじいさんと再婚するというのか。ちゃんちゃんこから首をカメみたいに出して、人差し指でパソコンのキーをぽつぽつと打っている姿は近年まれに見るダサさだった。世のじいさんを否定しているわけではない。ネットなんかに惑わされず堂々と自分の道を歩いている人なら、むしろかっこいいと思うもの。
 悪びれることなく、山野茂吉はまだ話を続けてくるのだった。
「ガラケーだったんだけどね、この度、じゃん! スマホデビューしまして。で、ネットでねースマホカバーを買わないといけないって先生に言われたんだけど、いくらしても、ほら。パスワードが違いますって。僕、楽天で買おうとしたら何故かAmazonに飛んじゃうんだよねえ。で、楽天で入れているのと同じパスワード入れてるんだけど、ダメなんだよねえ。僕はAmazonは知らないからなあ。佳代ちゃんわかる?」
 二人はパソコン教室で出会ったと聞いたが、一体何を学んできたんだろう。もしかしてワードとかエクセルとか一生使いそうにないものを学んでいるのか? 今すぐ、真っ先にAmazonの使い方を教えてもらうべきだ。佳代は制服のポケットにスマホをしまうと、革張りのソファーから立ち上がってパソコンを覗き込んだ。何度も間違ったパスワードを入力したのだろう、もはやブロックがかかってしまっている様子だ。
「あの、でもトップ画面に、山野茂吉って名前出てますから、Amazonにアカウントは持ってますよね。前に何か買ったことあるんじゃないですか?」
 佳代はなるべく口を開かないように喋った。この空気を吸うのが、生理的にムリな気がしたから。
「いやいや、何も買ったことないよー。楽天ではあるんだけどねえ」
 そんなはずないし。アカウント持ってるからAmazonのトップ画面にあんたの名前出るんでしょうが、馬鹿。横で心配そうにパソコンを覗き込んでいる母さんも、もうきっと馬鹿になっているに違いない。だって二人同じ顔をしているもの。夫婦って顔が似てくるって聞いたことあるもんな。
 ネットが使えないなら抗わず、静岡のばあちゃん達みたいに正々堂々と電気屋で買えばいいじゃん。と私が言うのを察知したのか、「ネットでしかこのカバー売ってない機種なのよ。ね、ね」とすかさず母は助け舟を出した。どうせパソコン教室で騙されて怪しい会社の安いスマホを契約させられたんだろう。それにしても、十歳も年上の人と結婚するってどんな気持ちだろうか。だってもう少ししたら死ぬかも知れないよ、山野茂吉。またすぐに一人になるかも、とは考えなかったのだろうか。
 自分の十歳年上っていうと……ああそうだ。二十八歳の科学の津久田を思い出した。背は低いけど白衣姿に眼鏡が格好良くて、しかも頭もキレキレで大学院時代にはいろんな賞も取ったんだと噂で聞いた。みんなでチョコ渡しに行ったりしてたなあ。懐かしい。あんなのが私の青春か――。だったら、母さんと山野茂吉も今が青春なのかもしんない。
 津久田は去年の春、五組の女子と科学準備室で手作り弁当食べているところを見つかってまだ夏だってのに他の学校へ飛ばされた。弁当だけで謹慎になるわけはないから、本当はもっといろいろあったんだろう。あと二年も経てば許されることが、何で今だけは許されないんだろうって考えたことも懐かしい。もし本気で好き同士だったなら進学よりも大事なことかもしれないのになって。そんなことより、津久田が選んだのが五組の、中の下くらいの女子だったことが意味不明だった。やっぱり美人すぎるよりは、そんくらいが安心感あるんだよって皆が言ってて、全然納得できなかった。ああそうか、だから母さんも山野茂吉を選んだの? 好きってなに? そのあとすぐに、その子も高校を中退したらしいから、もしかしたら今も二人は付き合ってたりするんだろうか。だったらいいよね。まあ、どうでもいいけど。

 木造家の古びた窓から、綺麗に掃除された中庭が見えた。角刈りみたく剪定された松の木はおじいさんの代からあるのだとさっき茂吉が言っていた。その向かいには大きくも小さくもない桜の木があって、春風が唸る度、無残にも花びらが引きちぎられて空を舞った。たぶん風が吹かなければまだ二、三日は咲いているはずだったのだろう。
 制服のスカートのチェックを改めて見つめてみると、グレイとも紺とも水色とも言えるようで言えない、何だか曖昧な色で、こんな服を着て三年間を過ごしていたんだなと思ったら損した気分だ。何もかも、遠く淡い思い出の中で霞んでいく。佳代は俯いてひたすらにその正方形の数を数えてみた。このチェックの数がぴったり三年分の日数になったり、結局、告白できなかった墨田くんの誕生日と同じだったりすると素敵だと思った。出してくれた紅茶は、半分飲んだところで冷たくなって、ファンヒーターの直風が当たる顔だけが暑くて頭がぼーっとする。
 卒業式の後に、なんだって、知らないじいさんの家に来ているんだろう。母さんの仕事の休みと合う日がないって言っても、なにも今日でなくてもいいのに。一応ちょっとは楽しみにして来たんだけど、普通に、じいさんだし。やっぱり断って、みんなとフレッシュネスバーガーに行けばよかったなあ。スカートのポケットでスマホが震えて、みんなの集合写真が送られてきた。「卒業おめでとう」とか書いちゃって、抱き合ったりしちゃって。こっちもすぐに、パソコンに熱中する二人の中高年の後ろ姿を撮って送ってやったら、次々に大笑いのスタンプが届いた。
「佳代ちゃんが大学行っちゃったら、お母さん寂しくなるねえ」
 茂吉がパソコン用のあみあみの椅子をこちらに回し向けて喋りかける。高そうな椅子。デスクトップとか道具だけはしっかりしてるんだなあ。母をよろしくとでも言ってほしいのだろうか。聞こえなかったふりをして、スマホをスクロールする。
「経済学部だったよね、やりたいこととかあるの?」
「うーん、まだ特には決めてないんですけどねえ」
 視線を液晶画面に落としたまま答える。
「そうだよね。ま、旅の始まりだもんなあ。やりたいこと何だってやってみりゃあいいよ」
 山野茂吉の家は、やりたいことをやり続けた人生の集約みたいな家だった。切り株で作った富豪の家にありそうなごっついテーブルや、種子島伝来と書かれたガラスケースに入った火縄銃、トラの毛皮、こけしもあれば、なまはげのお面もあるし、フランス人形やスヌーピーの仲間もずらりと並んでいる。鮭をくわえた熊の置物もある、あれはかわいいから欲しいなあ。言ったらくれるかなあ。確か庭師をしていると母さんが言ってたな。どうりで、庭が修学旅行で行った金閣寺みたいに美しいんだ。母さん、片付けとか全然できないけど本当に大丈夫なのかなあ。
 二人はまた、あれこれとパソコンでスマホケースを探し始めた。
〈佳代、卒業おめでとう!! 大学も楽しんでな〉
 父さんからLINEだ。絵文字がいっぱいで可愛い。
〈お祝いに、佳代の好きなコジコジの抱き枕と家具一式送るからアパートの住所決まったら教えてけろ?〉
〈ありがとう! 嬉しすぎる!〉なんて返しながら、山野茂吉と一緒にいることが後ろめたい。母さんの再婚のことは知ってるんだろうか。別にもうどうでもよかったりするのかな。案外、父さんにも彼女がいたりして。
 
 帰りがけに、山野茂吉が一人暮らしの必需品だよと言って大きなピンク色の包みを渡してきた。茂吉も一人が長かったから、随分料理の腕を上げたんだと笑った。大したものじゃないから、帰って開けてみてと言う。この形と、重さからいくと鍋や調理器具のセットだなあ。母一人子一人で育ったんだ、あんたに負けないくらい私も鍋やフライパンを操ってきたと言いたかったけど、面倒くさいから礼を言って帰ることにした。
 桜が残りの花を落とすまいと踏ん張っている。陶器のカエルが座る玄関から、いろんな形の飛び石を歩いて門まで来ると振り返って、山野茂吉に手をふる。白髪が門灯に照らされてやっぱり静岡のじいちゃんを思い出した。Amazonの新しいアカウントを作ってあげればよかったかなと少しだけ罪悪感が残った。
 紫がかった月が夕暮れ空の隅っこにぼんやりと見えている。電車を降りると、通りの桜並木の下ではまだまだ宴会が続いているようだ。大学生になったら、こんなところで自分も飲んでいたりするのかもしれない。寒そうに見えるけど、やっぱりお酒を飲むって楽しいんだろうか。
 線路沿いのカフェKITUTUKIを通りかかると常連客が外に出て語り合っている。自分の道を生きる自由な大人が集っているって感じのカフェだ。学校帰りに通る度、いつかスタバじゃなくここに入ってみようと思ったのに、三年間が過ぎてしまった。
 佳代に抱えられたピンク色の包み紙を見て客たちが「卒業式かなあ」とか「そんな季節だよねえ」なんて話している。すぐ傍をライトをつけた満員電車が大げさに音を立ててすり抜ける。いろんな人が通り過ぎていく。こんなに近くにいても殆どの人とは出会わないで人生を終えていくんだなあ。そういうことを、ここにいる人達も、母さんも、父さんも、山野茂吉も考えながら大人になったのだろうか。
「山野さんのことあんまり好きじゃなかった? なんか、ごめんね」
 母さんはいつも先に謝ってくるからずるいな。父さんと別れたときだってそうだ。こっちが怒る前に先に自分を貶めるから、責められないじゃん。街頭に照らされた二つの影が重なったり離れたりして、自分達より先に歩いていく。
「ううん、いい人だって思うよ」
 誰だって、大体はいい人だ。悪い人になんて今まで出会ったことないもの。父さんだって悪い人じゃないし、津久田だって、5組のあの子だって、きっと悪い人じゃない。知らないけど。
「うん。ありがとう。そうなんだ、いい人なんだ」
 大人になるまでに全員がそういうのをどこかで学ぶのだろうか。ググっても出てこないことばっかだと本当はみんな知っている。

 信号待ちをしているとポケットの中でスマホが震えた。カラオケに移動したらしい。いつの間にか人数が増えて、男子もちらほら来ているみたいだ。その中に墨田くんの丹精な横顔もあって胸がギュッと潰れてしまいそう。
 みんなで尾崎豊の「卒業」を歌っている動画も送られてきてきた。去年の学祭前、誰かがYouTubeで尾崎のライブ映像を発見して以来、みんなでドハマリしたのだ。とても同い年には思えない、尾崎の飢えた瞳と絞り出すような声が眩しかった。こんなに強く主張したいことが果たして自分にはあるだろうか。自分たちには24時間手のひらの中に自由があって、先生とも親ともそれなりに仲が良くて、尾崎の気持ちがわかるようでわからなかった。スマホができる前と後じゃ戦前と戦後くらい違うんだって先生が言ってたけど、その喩えもわかるようでわからない。横から覗いて「あら懐かしい」と母さんが言う。私だって懐かしいよ。何もかも懐かしいことだらけだよ。だけどほんの少し清々しい。寂しいのに、清々しかった。信号が青になって二人は歩き出した。
「母さん、幸せになってよね」
「ありがとう。お互いに新生活楽しもうね」
 顔を見合わせて、くくっと笑った。大きさの違う鍋が歩く度に絶妙なリズムを奏でて、それは聞き慣れた懐かしい音だった。

関連書籍

こちらあみ子

高橋 久美子

いっぴき (ちくま文庫)

筑摩書房

814.0

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入