加納 Aマッソ

第23回「すいません」

 新宿駅から歩いて歌舞伎町を北へ抜けるまでは、私のたわいもない話に対する彼女の心地良い相槌は続いていた。ふと、彼女の意識が会話から逸れた気がした。退屈させてしまったかと思ったそのとき、「すいません、ああいうの気になってダメなんです」と申し訳なさそうに言って、彼女は歩くスピードを上げた。前方に、歩道からはみ出して横倒れになっている自転車が見えた。風に煽られてというよりは、どことなく急いでいた持ち主に乗り捨てられてそのまま倒れているといったような印象を受けたのは、その風景が雑多な街に溶け込んでいたからかもしれない。ところどころ塗料の剥がれた白くて細いその自転車を、彼女は小さな手でゆっくりと起こした。それからまた、追いついた私に並んで歩きだした。私は何かしら、つかの間の沈黙を破るためだけのできるだけ意味のないことを言おうとしたが、適当な言葉が思いつかず、ただ彼女の横顔を見ただけだった。そこからわかったのは、今の小さな善行では、彼女の下がり眉を変えることはできない、ということだけだった。またひとつ彼女を知ったと思ったところに、私が図らずも生んだ沈黙が、彼女にふたたび「すいません」と言わせた。
 何事もなく歩いていれば、私たちは自然に自転車が倒れているところまで来たはずだ。その時に自転車を起こせばいい。そうはせずに、会話を中断させてまで彼女は自転車を起こしに行った。おそらく、起こしている間に私を立ち止まらせて待たせるほうが悪いと思ったのだろう。ただ彼女は、私と再び歩きはじめたときも、「もしかしたら間違った選択をしたかもしれない」というような、困ったような顔をしていた。もし私だったら、「良いことをしたでしょフフフ」顔をする。たとえしなかったとしても、晴れやかな表情をしていただろう。
 私は彼女が困ったような顔をするところを、はしなくも見ることが多かった。その度になぜか、心がざわざわした。目上の人から理不尽なことで怒られているとき、彼女は目を泳がすことすら自信がないというふうに、とろとろと黒目を動かした。横で見ていた私は、彼女の不思議な視線の軌道を追おうとしたができなかった。困らなくていい、睨み返せよ、と心の中で強く思った。友人と喧嘩をしたときも「いやぁ、参った」と、また眉を下げていた。参らなくていいから、相手の悪口を並べ立てて笑えばいいのに、と歯がゆかった。でも私がするべきことは、擁護ではない。そして、選択の否定でもない。
 彼女とはさして仲良くないのに、彼女の眉が、視線の軌道が、いつも私を奮起させる。いや、もっと言えば、彼女じゃなくてもいい。「特定の誰か」に困った顔をさせないように、芸人という仕事が存在するのだという気がする。そしてそう思わせるために、あの自転車は倒れていた。どうしたってそれは、因果だと思わずにはいられない。どのタイミングで自転車を起こせばいいか迷ってしまった、という、不幸と言うにはあまりにも瑣末な出来事を一瞬で忘れさせることが、この仕事を続ける理由のひとつであると、そのとき確信できたのだ。

 彼女が自転車を起こそうと手をかける。私も後ろから駆け寄って、彼女の耳元で「頑張れいっ!!!」と大声で叫ぶ。びっくりして彼女は自転車を離す。「うるせえ!!!」と言ってから、笑いそうになる直前に、「労力と見合った応援せんかい!!」と彼女はまた大声で言った。私が先に笑った。
 彼女もまた、誰かのための、芸人だった。

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