●翻訳上のエピソード
司会 この作品を翻訳したときの印象深いエピソードはありますか。
斎藤 最初は日本と韓国でフェミニズムの温度差を多少感じていましたが、この本を翻訳して編集作業に入った頃から、日本社会でもMeToo運動が激しくならざるを得ないいろいろな事件がありました。2018年春に、財務省の福田事務次官のセクハラ事件が浮上し、夏になったら東京医科大学の不正入試事件が浮上してきて、この頃になるとこの本は読者がしっかり存在しているという感じがしてきました。2018年12月に出版される頃には順天堂大学でも不正入試があり、大学当局が記者会見で「女子のほうがコミュニケーション能力が高いから」ということをおっしゃった。SNSでは女性たちがめちゃくちゃ怒っていて、ちょうどその頃にこの本が出て、その人たちがこの本を買ってくれたかなというダイレクトな熱気を感じました。そのときには完全に読者像が明確になっていました。
司会 この作品に限らず、斎藤真理子さんはたくさんの翻訳をされていますが、韓国語文学を翻訳する際に難しいと思うところはありますか。
斎藤 全部難しいです(笑)。どの言葉の翻訳も難しいと思いますが、小説の翻訳は、社会的・歴史的文脈をきちんと把握することがとても大事になります。特に韓国の場合は社会の変化が激しいので、変化の中で人々の気持ちがどう変わってきたかを押さえて現代の人に理解してもらうためには、注釈や、きちんとした解説をつけることがとても大事です。ですから、プロデュースをするような気持ちです。『キム・ジヨン』の場合は、私よりも適切な解説を書いてくれる伊東順子さんという友人がいたので、最初から彼女にしっかりした解説を書いてもらおうと思っていました。
●社会的な動きと文学の影響
司会 韓国でこの本が出版されてから3年経ちましたが、この大ベストセラーによって、韓国の文学界にどんな影響があったのか。チョ・ナムジュさんに伺いますが、これらの社会的な動きが文学にも何か影響を与えているのでしょうか。
チョ 韓国社会の動きと文学の流れは、いま互いに影響し合っていると思っています。作家としてはとても嬉しいことだと思っています。なぜなら、以前は女性同士が集まって、「私はこれが大変だった、あれが悔しかった」と語っているだけだったのが、社会が変化した現在は、公式なテーマとして公に語り合っているからだと感じます。
韓国では学校の中でのスクールmetoo運動も活発に行われています。例えば、先生から「女性だから」と少し低く見られたり、先生からセクハラを受けたり、女子学生の可能性を男子学生より低く見積もられたり、というようなことを女子学生たちがどんどん告発して、公の場で議論しています。
社会では、「脱コルセット運動」といって、外見――ハイヒールとかコルセットとかいうものを強要されるところから脱皮しようという運動も起きています。ですから、社会と文学の流れは互いに影響し合っていると思っています。
社会の変化は、韓国の文学、小説の中で顕わになっている、小説の一つの素材となっていると最近強く感じています。
小説の中には、女性が妊娠したら経験する細かい身体の変化を赤裸々に表現しているものもあります。
以前は、不況の中で家長が経験する苦悩や若い男性の就職活動の困難といった題材で小説が書かれることが多かったのですが、現在は、若い女性の視点からの小説がとても多くなりました。例えば、最近、「感情労働者」といって、コールセンターなどで働いている女性の目から見える社会が小説の題材になる。また、昔は男女間や、男性同士の関係を描いたものはありましたが、いまは女性同士の関係、例えば同僚、母と娘といった関係の中での緊張感や微妙な人間関係を表現した小説もたくさん出てきています。女性を題材にした小説がたくさん出ることで、影響力が大きくなっています。
司会 日本社会の中で文学が社会に影響を与え、社会が文学に影響を与えるということについて斎藤さんからご覧になるといかがでしょうか。
斎藤 とても難しい質問をいただきました(笑)。 いつもそのことを考えているのですが。『キム・ジヨン』もそうですが、韓国の小説を読んでいると、社会のさまざまな問題を物語の中に落とし込むことが本当に上手だと感じます。国家や社会の大きな物語と、一人一人の小さな物語を生き生きと有機的に関連づけて描くことができる。そういうことができる身体性みたいなものを感じます。
身体性ということで陸上競技大会で言うと、日本と韓国では競技がちょっと違うかなと思います。うまく比喩にできませんが、何かが違う。筋肉が違うのか、運動神経が違うのか。私は訓練が違うのだと思います。この何十年間かの社会の中での経験の差異だと思っています。
『キム・ジヨン』への感想についていえば、若い人たちは読んで泣いてしまったという人が多かったのですが、上の年齢の人たちは露骨な男性社会の中で生きていくことに適応しなくてはならなかったせいなのか、あまり泣いたという読者はいませんでした。そういうことも身体性のひとつではないかと思います。これからの日本(社会)は、我慢ができなくなる次元にどんどん行くような気がします。そのときに全く違う訓練をして、違う走り方、違う飛び越え方、違う書き方が生まれてくるのかもしれないと、ときどき思います。