ちくま文庫

ごあいさつのごあいさつ

文庫『鴻上尚史のごあいさつ1981‐2019』ためし読み①

鴻上作品の公演の度、客席に配られるメッセージ=「ごあいさつ」。 文庫刊行を記念して、ためし読みページをお届けします。 鴻上さんが「ごあいさつ」を書きはじめた理由とは? 序文にあたる「ごあいさつのごあいさつ」です。




 『ごあいさつ』は、僕が芝居のたびに、お客さんに配る手書きの文章のことです。
 始まりは、特別なことではありませんでした。
 僕は、二二歳で劇団を旗揚げしました。
 旗揚げまでの道のりも平坦ではなかったのですが、とにかく、劇団を作り、第一回の旗揚げ公演を五月一五日にするぞと決めて、六カ月間、えんえんと稽古をして、初日を迎えました。
 この日までに、キャスト・スタッフ共々、やることは全部やっています。もちろん、気持ちとしては、まだまだやり足りない、初日があと一週間後なら良かったのに、なんてことを、たぶん、全員が思っていますが、とにかく、初日を迎えます。
 お昼に集合して、夕方まで最後の稽古をします。照明さんも音響さんも一緒になっての最後の稽古です。
 演出家である僕は、最後の最後まで、キャスト・スタッフに指示を出し続けます。 そして、五時過ぎになります。
 キャストは、メイクの時間です。軽い食事も取って、夜七時からの公演に対して万全の体調で臨めるように精神的・肉体的に準備を始めます。
 スタッフは、最後の点検です。照明さんは、機材で点灯しないものはないか、音響さんは、ちゃんとスピーカーはなるのか、音楽はちゃんと全部そろっているのか(その当時は、カセットテープで音を出していました)などなど、開演までの二時間弱、やることがたくさんあるのです。
 で、演出家である僕は、五時を過ぎたので、最後の指示を出した後、
「じゃ、初日、よろしくお願いします」
 と、締めくくります。
「よろしくお願いします!」
 と返す人間がいたり、
「おうっす!」
 と気合で返す人間がいたりしながら、キャスト・スタッフは、それぞれ、自分のやることのために散ります。
 そして、演出家である僕は、やることもなく取り残されるのです! これは衝撃でした。
「お、俺には、もうやることがない!」
 スタッフが忙しく働く劇場の中で、僕は内心、声にならない叫びを上げました。僕は、劇団の旗揚げ公演と共に演出家デビューしましたから、初日、開演までの二時間弱、演出家は突然ヒマになる、なんてことを予想もしていなかったのです。
 いえ、事前には、なんとなくの予感はありましたが、初日までずっと走りに走って、急に「やることがなくなった時間」が出現したことは、具体的に衝撃だったのです。
 あと二時間弱で幕が開いて、その作品のデキと反応によって、これからの自分の人生が決まる、と分かっているのに、この二時間弱、自分にはすることがない。
 ここで、不安に押しつぶされた演出家さんなら、楽屋に行って、メイクをしている役者の後ろに立って、最後の指示を、あーでもない、こーでもないとウダウダと出したりするかもしれません。ですが、僕は、そんなことをしても、俳優さんには、百害あって一利なしだと分かっていましたから、しませんでした。
 また、劇場に行って、最後の点検をしているスタッフに対して、
「もし、照明がつかなかったらどうしよう?」
 なんて、これまた不安を振り回すだけの突っ込みもしてはいけないと知っていました。
 で、なにもすることもない時間を、演出家は持て余したのです︒
 もちろん、幕が開けば、「ダメ出し」と呼ばれる(僕はこの言い方は大嫌いなのですが)チェックをして、明日の公演のためにそれを生かす、という演出家の仕事がありますが、幕が開くまでの二時間弱、本当にすることがなくなったのです。
 どうしようと思いました。
 ただ、何もせずに、じっと開演を待とうかと一瞬、考えました。
「いや、それはまずい。そんな何もしない時間に、自分は耐えられない」
 すぐに、そう思いました。
 精神的に不安定な時に一番やってはいけないことは、
「公園のベンチでボーッとすること」
 です。
 のんびりしろよとか、リラックスしたら、なんていう言葉と共に、焦っている人に、そんなアドバイスをする人がいますが、これが、じつは、不安定な人には、一番危険なのです。
 公園のベンチでボーッとすることで、妄想や不安は際限なく膨らんでいきます。つまりは、不安はどんどん大きくなっていくだけなのです。
 不安に押しつぶされそうになる時、一番、有効な対抗手段は、なにかに熱中することです。仕事の不安に押しつぶされそうな時、それに対抗するのは、南の島でボーッとすることではなく、南の島でざんぶざんぶと泳いだり、スキューバのライセンスを取ったり、ナンパをしたり・されたりすることなのです。
「よし、お客さんに対してメッセージを書こう。それを『ごあいさつ』と名付けよう」
 ごく自然に僕はそう思いました。
 そして、すぐにノートを出して、書き始めました。
 根本には、見に来てくれたことへの感謝がありました。書き始めた時点では、本番の二時間弱前ですから、本当に来てくれるかどうか分かりませんでしたが、それでもゼロってことはないだろうと、想像力で、見に来てくれた人に感謝の言葉を伝えたいと思ったのです。
 なにせ、所属していた早稲田大学演劇研究会の決定で、入場料はタダ(作品のデキが分からないから、入場料は取ってはいけないと言われたのです)、作品の結果によっては、劇団の存続は認めない、なんていうものすごいシバリの中での旗揚げ公演でしたから、よけい、見に来てくれた人に、ありがとうを伝えたいと思っていたのです。

 開演までの時間、僕は『ごあいさつ』を書き続けました。
 ということは……と、カンの鋭い人は、分かると思いますが、そうです、『ごあいさつ』は、演出家の鴻上が、初日の開演までの二時間弱の時間を持て余して書き始めたものですから、基本的に初日には、間に合わないものなのです!
 と、!マークで言ってますが、つまりですね、だんだん、『ごあいさつ』が知られ始めると、初日のアンケートに、
「『ごあいさつ』が間に合いませんでしたね。いいんですか? そんなことで」
 なんつー書き込みが出始めたのです。
 これはいけません。
 いいですか? 想像してみてください。五時過ぎに『ごあいさつ』をノートに書き始めます。どんなにがんばっても、一時間以上かかるでしょう。よしんば、奇跡的に一時間で書き上がったとしても、これを、コピーしないとお客さんには渡せません。 
 初期は、なんと、ガリ版(知ってます?)でした。鴻上の文章を、鉄筆でガリガリとガリ版用の油紙に書いて、それを謄写版というもので、一枚ずつ手作業で印刷するのです。開演に間に合うわけないのです。
 コピーの場合でも同じです。
 よしんば、一時間前に出来上がったとしても、その日の分として、何百枚もコピーしないとまずいのです。なかなか、間に合うものではないのです。
 だいいち、僕は二時間弱と書いていますが、じつは、開演の三〇分前が開場の時間で、続々といらっしゃるお客さんを迎えるという大役(!)がありますから、実質、執筆時間は一時間三〇分弱なのです。
 この時間で、『ごあいさつ』が書けたことは一回もありません。だいたい、途中です。
 ほぼ書けても、字が汚くて読めないので、ちゃんと清書しなければいけないこともありました。清書って、実は、時間がかかるのですよ。ちゃんと読める字にしないといけないと思うと、余計に緊張して遅くなるんですね。
 というわけで、僕はこれからも芝居のたびに『ごあいさつ』を書き続け、お客さんに配り続けますが、初日には、間に合わないと思っていて下さい。間に合わなくて当然、間に合ったらおかしいと思っていてね。
 旗揚げから最新までの『ごあいさつ』を集めました。
 芝居のタイトルの横に書いてあるのは、初演の日付です。公演は、何日か何週間か、最大二カ月ほどしている場合もありますが、とにかく初日の月日、初日の劇場を書きました。東京以外で、大阪や福岡、札幌で公演した場合もありますが、初日の場所です。
 さらに、解説を加えました。
 『ごあいさつ』は、僕が書いた文章の中でも、特別な思いがあります。
 
 気に入っていただけると、嬉しいです。

 ごゆっくりお楽しみ下さい。んじゃ。


 文庫版 ごあいさつのごあいさつ 

 
『第三舞台』の第一回公演から『KOKAMI@network』の第五回公演までの解説は、2004年に出版された単行本『ごあいさつ』に書いたものです。
 この文庫は、さらに2019年までのすべての『ごあいさつ』を集めて、それぞれに解説を書きました。
 2004年までの解説は、単行本の出版時に書いたものですが、2019年の時点で、必要を感じた場合は( )の中に書き足しました。
 それでは、ごゆっくりお楽しみ下さい。んじゃ。



 

関連書籍