単行本

トダヤマへのストレンジラヴ

戸田山和久『教養の書』を読む2.0

教養とは何か、なぜ大切なのかを真正面から問い、「世の中をよくするという仕事は、教養への道を歩み続ける人々にしかできない」と熱く啓蒙しまくる戸田山和久『教養の書 』。これぞ今の時代の「学問のすすめ」だ、と(一部で)話題沸騰の本書に、重田園江さんが魂の書評を寄せてくださいました。『ちくま』2020年3月号に掲載されたテキストの「webちくま用拡張版」、どうぞお楽しみください!

 本書は、筑摩書房のPR誌『ちくま』に2017年から2018年まで連載された原稿に、大幅加筆した著書である。初出時のシリーズタイトルは「とびだせ教養」、続編は「ひっこめ教養」で、私はこのタイトルが気に入っていた。というのも、これは少年ならぬトダヤマ中年が、教養とは何かを探り(とびだせ!)、そしてそれに疑念を抱き(ひっこめ!)、最後に教養人の生き方を「自己のテクノロジー(魂への配慮)」として示す物語だからだ。そう、これは「教養のビルドゥングスロマン」、つまりゲーテ顔負けの「教養についての教養小説」なのだ。

 トダヤマにとって教養とは「状態」ではない。それは「行為」である。教養とは自省を伴った知の営みで、いつも自分が得た知識や情報を別の角度から眺め直し、別の解釈、異なった評価を試みることだ。

 たとえばWin-Winということば。これがなんとなく胡散臭いことは、このことばを躊躇なく使う人の顔を見ればわかる。しかしトダヤマは、それを勝手な偏見で判断せず、このことばが嫌いだという友だちに理由を聞いてみる。その答えがまた奮っている。「だって、どこかに二人分負けている人がいるってことでしょ。それを隠しているからイヤなんだ」。さすがトダヤマ、いい友を持っている。誰かの勝ちを別の誰かの負けへと反転させること。これこそベーコンやプラトンが望んだ、洞窟で影を見ている人々に必要な視点の転換だ。別の誰かはことばの表層には出てこないけれど、社会的関心と想像力を備えていればすぐにその存在に気づくはずだ(社会人とされるいい大人の中に、それに気づかない人が多すぎて驚く。世の中にはろくな大人がいない)。

 でも教養は、いつも友だちとつるんでいては得られない。それはひとりになることを必要としている。『トゥルーマン・ショー』のジム・キャリーは最高だが、彼は居心地よいドームの中の世界を振り切るために、最後に友だちを捨てなければならなくなる。ビルドゥングスロマンたる教養の旅は、ひとりになって過去の人々と対話し、それを経てはじめて今という時代に必要な共同性へと還ってくることができるのだ。

 このように、教養の世界には「奥行き」がある。それは歴史であったり文化であったり芸術であったりするのだが、どれも背景、つまり背後にある何かに関係している。この奥行きは私たちが勝手に作ることができないもので、歴史の中に堆積している。それを掘り起こすのが教養で、この奥行きがないと世界も知識もペラペラの紙でできた人形芝居みたいになってしまう。

 このペラペラした世界を表しているのが、トダヤマが取り上げる『華氏451』や『一九八四年』に出てくる「スクリーン」に支配された生活だ。『華氏451』では、人々は暇さえあればスクリーンの前に座り、今ここ以外の記憶や感情を失っている。感情が揺さぶられることは暴力で、平穏を保つために薬漬けの毎日を送っている。一方『一九八四年』では、ことばが切り詰められる。切り詰めとは、類似のことばを一つにまとめて表現の多様性を奪い、今ここにないものを表すことばを全て消し去って、空想や抽象を消滅させることだ。ことばを奪うとは思考の可能性を奪うことである。人から複雑な感情や過去の記憶、そして抽象観念を奪うことによって支配を貫徹するのが、これらS Fのディストピアだ。

 オーウェルやブラッドベリの世界が、ウイグル人の再教育施設や国家ぐるみのサイバー監視によって21世紀に俄然リアリティを回復しているのは恐ろしい。教養の抹殺は検閲と記事削除を通じて沈黙の裡に進行する。だが他にも恐ろしいことはある。私はこのごろ、書店の「話題の本」コーナーを占拠するしょーもない新書や差別本の隊列に、監視と処罰のディストピアとは違う恐怖を感じる。この前、大木毅『独ソ戦』(岩波新書)を買いにいった本屋で、隣に「「人工知能2.0」前夜、覚醒せよ。」と書かれ著者のドヤ顔がカバーの本が置いてあって戦慄した。いったい何に覚醒しろというのか。2.0前夜っていつのことだ。『独ソ戦』の帯には赤文字で「地獄だ」と書かれており、まさに地獄だなこりゃと頷いてしまった。本が焼かれることは怖いが、粗悪な本や記事が溢れかえる今の社会にも、ある種のテロリズムに似た恐怖を覚える。

 話が脱線したついでに書くが、トダヤマの本は脱線が多いと言われるらしい。私の本もネットの感想なんかでよくそう書かれる。これってなにを望んでいる人が指摘するんだろう。トダヤマも書いているように、著者としては全く脱線だと思っていない。どれもこれも、必要だから書いている。逆にいうと、脱線のない本とはどんな本だろう。さすがにフーリエの『愛の新世界』なんかは、いくらなんでも本筋ってものがないだろうと言いたくなる珍書だ。でもじゃあ仮に、たとえば『教養の書』から脱線を取り去ったら何が残るというのか。

 読者からの脱線の指摘にキレるなんて不寛容だと思われるかもしれない。でもこれは意外に本質に関わる話だ。というのは、教養とはすでに述べたとおり、旅であり、過去への遡及であり、堆積したもの、忘れ去られたものの掘り起こしである。要は壮大な脱線なのだ。だから言いたい。著者が必要と思って書いている一見すると些事に過ぎないエピソードや挿話は、実は教養の旅の一部で、読者をそれに誘っているのだと。この著者は冗長だとか無駄が多いとか軽々しくレヴューに書き込む暇があったら、著者の意図をもう一度反省的に考察しながら読み直してみてほしい。著者がこの無駄に見える箇所をなぜ必要と思っているかを考えることから、あなた自身の読書がはじまるのだから。

 私たちがなすべきことは、ことばの切り詰めとは逆のことに他ならない。たとえば、見過ごされてきた事態を名指す新しいことばを生み出すこと(『教養の書』には「セクハラ」という的確な例がある)。脱線を排して一直線に結論に突き進むのではなく、ことばを豊饒にすることで、細かな差異や新しい事態を発見すること。そのためには時間をゆっくりと、時に無駄に見えるようなやり方で用いることが大切だ。ここから、ことばを知らないこと、語彙が貧困であることが、なぜ無教養とされるかがわかるはずだ。教養はそんなに合理的じゃないし、すっきりともしておらず、何よりわかりやすくないのだ。

 また、トダヤマはとてもストレートに、「世の中をよくするという仕事は、教養への道を歩み続ける人々にしかできない」(第14章)という。自分の仕事がこの基準に適うと言えるようにしたいものだ。これはもちろん職業によってあらかじめ決まっているものではない。それぞれの仕事をどう営みどう取り組むかにかかっていて、料理人や大工などにもよく当てはまる基準ではないかと思う。これに対して、名簿は適正に廃棄しましたとくり返す官房長官や、汚染水が溢れているのに「状況はコントロールされている」と証拠に反して断言する首相、「官邸」に首根っこを掴まれて「やらされてません」と言って出世する官僚のボスなど、教養の風上にもおけない愚か者たちが指導者として日本を仕切っている。ああ、日本終わってるね、と毎日絶望的な気持ちになる。

 モラルを欠いた為政者は古今東西その例に事欠かない一方で、無教養の方は大学人にも忍び寄っている。大学院時代の私の恩師(この人こそ教養人)がかつて驚いたと言っていたことを二つ記憶している。一つはおそらくこの先生の法学者仲間の誰かが、「さいしゅう」という中国からの帰化人の話をしていた。幕末明治初期に日本で活躍した人らしい。そんな名前は聞いたことがないと不思議に思っていたら、それが「西周」であることが後で判明したそうだ。もう一つは大学の採用人事で候補者を紹介するときに、紹介者である文化論系の教授(東大教授)が、能の熊野(「ゆや」と読む。熊野の長藤と同じ)をずっと「くまの」と読んで、それを誰も直さないから困惑したそうだ。

 こういったことはどうでもいいことかもしれない。しかし「さいしゅう」はさすがにないんじゃない、と思ったあなた。なぜそう思うのか。西周の読み方を知っていることは教養にとってなぜ大切なのだろうか。彼が明治日本の啓蒙を象徴する人物であるだけに、なおさらこれは重要な問いだ。

 さて、教養について力説しすぎて、そろそろひっこめ!の方の思いが強くなってきた。一緒にされたら迷惑かもしれないが、そもそもトダヤマや私のような人間が教養の大切さを語らなければならないほど、日本の教養は危機的なのだ。もっと教養がしっかり守られている時代なら、私たちのような種族は、おそらく教養に蹴りを入れたり、そこに亀裂をもたらしたりする方を好んだと思う。しかし今はそんなことをしている場合ではない。教養は瀕死で、風前の灯だ。だから教養のよさを語ることと、その誤った使用や弊害に警告を発することの両方を、一つの著作でやらなくてはならないというややこしい事態が起こる。教養をとびださせたりひっこめたりしながら、新しい時代の共通文化を作り出していく使命が私たちにはある。そのための指南書としてこの『教養の書』を推薦したい。もちろんあなたがこの本を会得したら、登りきったはしごを後ろ足で蹴り捨てるように、豪快に棄てていいです。

【読者のためのトリビアな注書き】

・第2章注8の丸山眞男が引いたミルの出典は、「セント・アンドルーズ大学名誉学長就任講演」が元だと思われる(日本語では、竹内一誠訳『大学教育について』岩波文庫)。丸山は『文明論の概略を読む』などでこれをミルのことばとしているが、この警句そのものは、トダヤマが『教養の書』で「ダーウィンの番犬」と呼んでいる、トマス・ハックスリーのものらしい。ハックスリーはミルの演説から着想を得たのかもしれない。なお、ハックスリーのフレーズ(Try to learn something about everything and everything about something)はネット上に溢れており、Tシャツや百円ショップで売られているバインダーにまで印刷されている。

・スタンダールの「ごく少数の幸福な」の原文はpour les quelques heureux。

・『ダイハード2』に出てくるゼウス(ズース)という名前について。キリスト教徒でないのはわかるが、なんでゼウスなんだろう。ゼウスは、クロノス(サタン)という我が子を次々呑んじゃった怪物神の息子で、人間の女を片っ端から犯してそこら中に子どもを作った。そのうえ地上にパンドラを送ったとんでもない迷惑神の名をつけるとは不思議だ。

・『パルプ・フィクション』でトラボルタが話している「ル・ロワイヤルチーズ」はフランスに実在し、クォーターパウンドチーズを指す。クォーターパウンドがロワイヤルと訳されているということだ。日本ではクォーターパウンドは2017年に販売中止になった。

・トダヤマも嘆く「映画の邦題死ね」の最新版として、ケン・ローチ監督『家族を想うとき』を挙げておく。原題はSorry We Missed You.宅配便の運転手が主人公で、このことばは配達先が不在のときに使う決まり文句、「お届けにあがりましたがご不在でした」。なぜこれが「家族を想うとき」になるのか、家族を取り上げているようで実は社会全体に厳しく問いかけつづけてきたケン・ローチを愚弄しているレベル。

 

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