単行本

星座のようによりそって

李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』書評

李琴峰さんの新刊『ポラリスが降り注ぐ夜』を、文芸同人誌『かわいいウルフ』の編集や『文藝別冊 川上未映子』への寄稿などで活躍するライターの小澤みゆきさんに評していただきました。PR誌『ちくま』3月号より転載。

 私も「ポラリス」に行きたい。読み終わった時、素直にそう思った。「ポラリス」とは、新宿二丁目にあるというレズビアンバー。李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』は、とある冬の夜、バーで交錯する女性たちを描いた連作小説集だ。年齢も国籍もセクシュアリティも様々な彼女たちは、それぞれにままならないものを抱えて「ポラリス」にやってくる。
 李琴峰の三冊目の日本語の単行本である。デビュー作『独り舞』、芥川賞候補作『五つ数えれば三日月が』と、李は女性から女性への愛を、時に中国語や漢詩を織り交ぜながらみずみずしく書いてきた。また「ディアスポラ・オブ・アジア」(『三田文學』二〇一七年秋季号掲載)や「星月夜」(『すばる』二〇一九年十二月号掲載)では、言葉も地域も異なる場所でマイノリティとして生きようとする女性たちの哀切をすくい上げた。『ポラリスが降り注ぐ夜』は、日本における国籍・言語的な意味でのマイノリティと、セクシュアル・マイノリティを取り扱った小説として、また恋愛小説として、集大成的作品だ。李の小説を紹介しようとするとどうしても「女性同士の恋を描いたレズビアン小説」で「台湾語と中国語・日本語を行き来する越境文学」といった説明の仕方になってしまうが、そうした安易なカテゴライズを撥ね除ける強靭さと繊細さがこの小説には同居している。
『ポラリスが降り注ぐ夜』は七つの短篇小説で構成される。章によって主人公は異なるが、同じ登場人物が別の章に視点を変えて登場する仕掛けも楽しい。失恋したレズビアンの女性が掲示板を通じて年上女性と邂逅する「日暮れ」。台湾のひまわり学生運動を舞台とした「太陽花たちの旅」。「蝶々や鳥になれるわけでも」ではアセクシュアル(他者に恋愛感情を持たない)の中国人女性の苦しみと救いを、「夏の白鳥」では「ポラリス」店主女性の半生と変わりゆく街を活写する。「深い縦穴」ではバイセクシュアルとレズビアンのあわいに触れ、「五つの災い」では台湾のトランスジェンダー女性が感じる疎外感を描く。最後の「夜明け」では、誰もいなくなった「ポラリス」に光が差し込む――というふうに、様々な状況下におかれた彼女たちの声が、ポリフォニーとなって、新宿二丁目の夜に響き合う。
 評者はシスヘテロの女性なので、かならずしも登場人物たちに自分を重ねることはできないが、果たして「自分を重ね」「感情移入する」ことだけが小説の読み方だったのだろうかと気付かされる。文学の役割の一つが声なき者の声をアンプリファイすることであるならば、李の小説は日本文学という街の中で幽かな声を拾い上げる。「社会的弱者である女性にしか見えない現象、照射できない現実があることは間違いなく事実だろう。そしてそれは、セクシュアル・マイノリティ作家にも言えることだ」(*)と李はいう。同じ場所に生き、同じものを見ていたはずでも、まなざしによって見える世界はこんなにも異なる。新宿という街にいてもそこから通りを曲がり二丁目に足を運ぶ人はどれくらいいるだろうか。少なくとも評者はそうすることはなかった。本作を読むことではじめて、具体的な声をともないその街の姿が視界に〈現れた〉ように思う。
 各小説の人物たちは「ポラリス」に集うものの、直接全員が顔を合わせることはない。しかし星々がゆるやかに星座を形成するように、女性たちもまた連帯をしているのだ。恋をすることの歓びやその痛ましさ、あるいは自分が自分でいつづけることの困難さを、彼女たちは共有している。物語の最後、さえという女性が、「ポラリス」の店主・夏子に尋ねる。「私はここに入ってもいいですか?」夏子はこう答える。「うちは女性であれば、外国人でも、誰でもウェルカム」。私たちはひとりではない、そう静かに思わせられる。

(*)『OVER vol.2』オーバーマガジン社、五十頁。
※ウェブ版掲載にあたり、一部表現をあらためました。