海をあげる

3月の子ども

 3月のおわりになると、ゼミの卒業生たちが私の家を訪ねてくる。卒業生のほとんどは学校の先生になっていて、会いたいという連絡のほとんどは担任をしているクラスに関する相談だ。GWの訪問は、新しい学級で奮闘している話が多く、夏休みの訪問は、とにかく1学期を乗り切ったけれど、2学期はどうしたらいいかという相談が多い。3月のおわりの訪問は、子どもたちと重ねた時間を教えてくれるから、私はうっとりその話を聞いている。
 それでも今年の3月は少し違う。「春休みには会いたいです」といって連絡をくれていたゼミの卒業生のひとりは、3月が始まるとすぐにうちにやってきた。
 彼女と子どもたちのつながりは、とても細やかだ。席に座っていられない子どもがいたら、彼女はその子の手をつないで授業をし、家でトラブルがあって、悲しい気持ちのまま学校に来た子がいたら、彼女はその子の話をじっくり聞いてから授業をする。
 考えてみたら、私はまだ高校生のころの彼女に会っている。「さっき、自分の考えは〇〇だって話していたけれど、こういう側面もない?」と私が問いかけると、「あ、確かに。でも、それは考えたことがなかった」といって、高校生の彼女は目をまるくして静かにたたずんだ。
 教師になって、彼女はますます静かになった。声を聴き取るこのひとは、子どもや親の傍らで、いっそう聴き取るひとになったということなのだろう。

 家にやってきた彼女は、涙をぽろぽろ流しながら話している。

 「突然、学校の休校が発表されて、教室に戻って子どもたちに報告したら、子どもたちみんな泣いていて、私も泣いて。3月になったらこれまでのことを話して、これからのことを話してそうやって送り出すつもりだったんです。1年間、みんなといろいろなことを学んで、授業もすごく楽しかった。こんなこともあったね、あんなこともあったね、だからこれからもっと楽しみだねって、私は話してあげたかったんです」

 「離任することも、自分の口でいいたかったんです。それを、最後の日に知らせることになったら、子どもや親はみんな、裏切られたような思いにならないかなって。先生はどうして話してくれなかったんだって思わないかなあ、とか」

 「どんなに子どもとの時間をつくりあげても、よくわからない上のひとが、私と子どもの時間にわりこんでくる。席をたっている子がいるって指導が入ることがあったけれど、その子は立ちながら私や友だちの話を聞いている。それを知っているから、みんなにこにこ笑うんです。そこへ何も知らない人が入ってくる。今回の休校措置もそうなんです。私と子どもがつくりあげているものを、こうやってだれかが、私たちになにひとつ相談なく入り込んでくる」

 「私ができるのは、子どもの話を聞いて、親の話を聞いて、話を聞いて話を聞いて。話を聞いたら共感しかない。そうやって話を聞くことは辛いことではない。私が辛いのは子どもや親の痛みと、それを知らないだれかが勝手に割り込んでくることなんです。私がいま学校で感じているのは、無力感なんです。結局、私は子どもたちを守ることができていない」

 泣いている彼女にかける言葉はひとつもなく、私たちがいま奪われているのはなんだろうと考える。子どもの日々を知らず、家族の生活を知らず、教師の仕事を知らない誰かの決定によって、ひととひととが重ねる時間が奪われる。4月からの1年間、関係を編み続けた子どもと教師がお互いのことを慈しみあう、そういう3月が奪われる。いままでの苦労のすべてが果報に変わるこの時期に、子どものいない学校に教師は通う。

                  *

 この騒動のなかでも、娘は保育園で変わらない日々をおくっているし、私たちは子どものあずかりを続けている。
 このまえの土曜日、予定どおり保育園の卒園式は行われた。玄関や園庭には、子どもたちが植えたチューリップの花が並んで咲いて、卒園式を迎える年長さんだけ正装で、子どもたちは朝からわくわく落ち着かない。
 娘の担任の先生は、輪になって座るように娘のクラスの子どもたちを促して、綺麗な丸い円ができてからも、すべての子どもがやってくるまで静かに待つ。遅れてきた子どもがやってくると、子どもたちは少し後ろにお尻をずらし、そこに誰かが入れるように丸い円を大きくする。子どものつくる丸い円は、生きているみたいだと私は思う。
 すべての子どもが加わった丸い円ができてから、担任の先生は、「これから年長さんたちのとても大切な卒園式が始まります」と話す。それから、「卒園式が始まってからトイレに行きたい、お水を飲みたいと騒がないように、自分で、いま、何をしないといけないか考えて行動してください。四月になると、今度はみなさんが年長さんになります」と子どもたちに告げる。子どもたちはすっくりと立ちあがり、やらないといけないことをやり終えると自分の椅子に腰かけて、式がはじまるのをじっと待つ。

 みんな本当に大きくなった。

 卒園式は時間どおり始まった。在園している子どもと先生と保護者たちの歌が始まり、廊下に待機していた年長さんが入場してきて椅子に座ると、「卒園証書を渡す」という時間になる。この時間になると、毎年私は泣いている。仲の良い保護者たちは「今から泣いているの? 風花のときには涙腺崩壊だね」と、笑いながら声をかけてくる。それでもやっぱりそれは違っていて、たぶんどの子をみても私は泣く。
 担任の先生に名前を呼ばれると、名前を呼ばれたその子は椅子から立ち上がり、ひとりでゆっくりフロアを歩く。園長先生が両手で高く掲げている、赤いリボンが巻かれた卒園証書をめがけて、子どもはフロアをまっすぐ進む。園長先生の前までくると、子どもは証書を片手でさっと取り、手にした証書を高く掲げたままもう一度ひとりで保護者たちの前を歩いていく。
 子どもは誰かになにかを「授けられる」存在ではなく、自分でなにかを「取りにいく」存在なのだと私は思う。今年も去年もその前の年も、大人たちみんなでそれを見守って、羽ばたくときを待つのだと思いながら、子どもたちのそばにいた。
 そしてまた、同じことを考える。ひととひととが紡ぐ営みを知らないひとによって奪われ続けている私たちの時間と、子どものいない学校に通う若い教師のことを考える。
 3月の子どもは歌を歌う。大きくなることを夢見て歌を歌う。大人はみんなでそれを守る。守られていることに気づかないように、そっとそおっとそばにいて。