資本主義の〈その先〉に

第17回 資本主義的主体 part6

5 予定説の逆説

恩恵による選びの教説

 それでは、カルヴァン派の教えとは何だったのか。カルヴァン派を特徴づける教義とは何か。それは「恩恵による選びの教説」である。「予定説」とも呼ばれるこの教義を、ヴェーバーは、ウェストミンスター信仰告白をそのまま引用することで紹介している。ウェストミンスター信仰告白というのは、イングランド国教会の改革のために、1646年に、ウェストミンスター会議(神学者たちの会議)で作成された信仰告白(信念の表出)である。イングランド国教会よりも改革が進んでいたスコットランド教会は、1647年にこれをすぐに採決し、イギリス議会も翌1648年に採決した。以上は、17世紀の清教徒革命から名誉革命へと続く一連の変革の中での出来事で、信仰告白が定着するまでにはさらに紆余曲折があるが、結論的に言えば、今日では、世界中の教会で、非常に権威のある信仰基準として受け入れられている。ウェストミンスター会議を主導した改革派の神学者こそ、カルヴァン派であり、ウェストミンスター信仰告白は、カルヴァニスムの信仰の表現となっている。
 ここに示されている予定説とはどのような教義なのか。キリスト教の基本設定をまずは思い起こしておかなくてはならない。人は、神によって救済されているか、あるいは呪われているかどちらかである。前者は、神の国での永遠の生命が与えられ、後者には、永遠の死滅がある。救済か呪いかは、最後の審判において明らかになる。ここまでは、カルヴァン派、プロテスタント、カトリック等にかかわらない、キリスト教の基本的な前提である。
 予定説は、その上で、次の点を徹底的に強調する。人類のうち誰が救済され、誰が呪われるかは、神によってあらかじめ予定(決定)されており、それは、人間の行為によって変えることはできない。そして、神のその決定は、人間には不可知であり、「判決」がくだされるそのときまではわからない。ということは、自分が救済される側に予定されているのか、呪われた側に予定されているのかは、最後の審判のときまでわからない、ということになる。
 以上が予定説の要諦である。これは、しかし、とんでもない教義ではなかろうか。二つのことがただちに疑問になる。第一に、こんな神、予定説において想定されている神は、信じるに値するだろうか。つまり、誰がこのような神をあえて信じようとするのか。そんな者はいるのだろうか。第二に、仮に信じる者がいるとして、その者の行動に何か変化が生ずるだろうか。つまり、このような神を信じている者と信じていない者の間に、何か行動に現れる違いがあるのか。
 これらの疑問は避けがたい。ジョン・ミルトンが「たとい地獄に堕されようと、私はこのような神をどうしても尊敬することができない」と言ったことはよく知られており、ヴェーバーもこの言葉を引用している。日本の代表的なクリスチャン、内村鑑三も、『キリスト教問答』で、予定説の説明に苦戦しており、(自分自身で想定している)質問者に、「そのようの(ママ)事をいまでも信ずる者がありますか」などと疑問を出され、とまどったりしている。
 予定説的な状況を次のように置き換えたら、これがいかに奇妙な説であるかがわかる。たとえば、私が大学で授業を受け持つとしよう。私は教室に集まった学生たちにこう宣言する。この授業は、予定説方式である、と。つまり、どの学生が合格し、どの学生が不合格かを、私はあらかじめ決定しており、その決定は、学生が学期中に何をなそうと変えることはできない、というわけだ。このとき学生はどうするだろうか。学生は、まったく勉強をしなくなるだろう。がんばってよいレポートを提出しようが、教師(つまり私)の質問によく答えようが、積極的に討論に参加しようが、合否はもう決まっているのだから意味がない。
 私が学生たちの学習意欲を引き出し、熱心に勉強させたかったら、予定説方式とは正反対のやり方を選ばなくてはならない。つまり、君たちが合格し、単位を取得できるか、不合格となり単位を落とすかは、君たち一人ひとりの努力次第である、と言わなくてはならない。よく勉強し、よいレポートを提出すれば合格するだろう。私は、その結果を見るまでは合否を決めてはいけない。
 しかし、実際に起きたことは、私のこの予定説方式の授業とはまったく逆のことである。予定説を採用するカルヴァニスムの下で、人々はあの行動的禁欲に基づいて行動したのだ。それは、予定説方式の授業に出席した学生たちが、普通の授業に出ている学生たちよりも熱心に勉強した、ということを意味している(ように見える)。どうして、こんな逆転が生じたのか。何かが根本的に違っているのである。予定説方式の授業と、プロテスタントの予定説とでは。それはいったい何なのか。
 人は一般に、救いを求めて宗教を信仰する。だから普通は、宗教は次のように説くことになる。何か善いことをすれば、それによって、救われ、幸福になる、と。いつどこで幸福が得られるかは、さまざまである。現世の比較的近い未来かもしれない。天国や彼岸かもしれない。あるいは一旦死んだあとの来世かもしれない。いずれにせよ、何らかの行為と救済とを結びつけるのが、一般の宗教である。
 ところが予定説は違う。あなたの行為が救済の確率をいささかも上げることはない、と説くのだ。とするならば、そんな神をわざわざ信ずる気もしない、というミルトンの批判はまことにもっともだ。

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