ちくま新書

天文と暦

7月のちくま新書より、嘉数次人『天文学者たちの江戸時代』の冒頭部を公開いたします。ぜひお読みください。

 

宇宙へのあこがれと探求心

 

 夕方、太陽が西の空を赤く染めて地平線の彼方へ沈むと、空は青から藍色へと色を変えていき、やがて一つ、また一つと星が輝きはじめる。

 満天の星空の下に出て見上げると、今にも星が降ってきそうだ。しかし手を伸ばしてみても、高い山に登っても星に手は届かない。夜空の月を追いかけようといくら走っても、月は相変わらず同じ方向で輝いていて近づく気配さえ見せない。そんな体験をするたびに、私たちは自らの存在の小ささと、宇宙の広さとを実感するのだ。

 恒星たちを線で結んで星座を描いてみよう。すると天馬ペガサスや勇者ペルセウス、さそりに殺された狩人オリオン、大神ゼウスが化けた白鳥など、私たちを遠い時代の神話の世界へ誘ってくれる。今度は望遠鏡を夜空に向けて覗いてみると、肉眼で見ることができない土星の環や月のクレーターの姿に息をのみ、はるか数千万光年の彼方から届いた銀河の光を見て宇宙の広さに思いを馳せることができる。

 このような星たちを眺めて、人々は何千年も前から疑問を抱き続けてきた。「私たちをとりまく宇宙はどのくらいの広さがあるのだろう」「星たちの正体はどのようなものなのか」「宇宙はどうやって生まれてきたのか」。疑問を挙げ始めればきりがない。そして、その謎を解き明かそうとして日々研究に取り組んでいる人たちが天文学者である。

 ところで、天文学者が講演や天体観望会などの場で宇宙の話をすると、「ロマンあふれる仕事ですね」「こんな壮大なスケールの研究をされていると、日ごろの悩みなんて飛んで行ってしまいますね」というような言葉をよくかけられるのだそうだ。確かに研究対象である宇宙は果てしなく大きい。浮世離れしたスケールである。しかし、研究に携わる天文学者も人の子である。他の人と同じように日々の生活を送る中でいろいろ悩みを持つことには変わりない。仕事の面だって同じだ。職場で働く限り自分の好き勝手に研究はできない。研究実績があがらないと評価も下がるし、研究費の工面も必要だ。研究歴の浅い若手は就職口を探さなければならない。悩みは尽きないのだ。

 そんな天文学者の悩みは、何も現代特有のものではない。一七世紀イタリアの天文学者ガリレオが地動説を擁護したとして宗教裁判にかけられたという有名な出来事をはじめ、遠い昔の天文学者たちもそれぞれの時代の中で悩みながら研究をしてきたのだ。

 ではなぜ、天文学者たちは悩み、時には命を懸けてまで宇宙の謎を探求し続けてきたのであろうか。

 

江戸の天文学への招待

 

 本書では、そんな天文学者の姿を一つの軸として、特に日本の天文学の大きな転換期となった江戸時代に焦点を当てることにする。

 江戸時代は文化が大きく発展した時代である。天文学についても例外ではなく、様々な人が、各地で、それぞれの目的で天文学に関わる活動を行っていた。本書でそれら全てを網羅することはできない。そこで焦点を当てたのが江戸幕府である。江戸幕府には天文学に関わる施策があり、一七世紀後半に天文方という組織も作られ、幕府が崩壊するまで存続していた。

 また、天文学というと限られた一分野に思われるが、江戸幕府の中で天文学に関係する人物には、徳川吉宗や伊能忠敬といった有名人がいた。さらに、蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)やシーボルト事件という日本史でよく知られた事柄には、幕府の天文学者が関係していた。

 その背景には、かつての天文学が権力と深く結びついていたという事情があった。だから為政者が学問に関わることもあれば、反対に天文学者が政治に関与することもある。例えば徳川吉宗は天文学に強い興味を持ち、改暦を推進した。また蛮書和解御用は天文学者が建議した業務であったし、シーボルト事件は天文学者が国家機密の伊能図をシーボルトに手渡した事件であった。学問といえども世の中の動きと無関係ではいられないのだった。

 一方で、二六〇年余り続いた江戸時代における天文学は、古代から続いた伝統的な考え方に従いながらも、新しく入った西洋天文学の知識も取り入れて、大きな発展を見せた。

江戸後期になると天文学者は地動説を知っていたし、天王星の観測も行っているなど、意外に進んでいると感じさせることも多く、科学の目で見ても非常に興味深い時代である。

 天文学者の行動も含め当時の様子を詳しく知ることができるのは、現存する資料が比較的多いからである。例えば江戸後期だと現代からまだ二〇〇年ほどしか経っていないから、公刊された著書だけでなく、天文学者が著した草稿や書簡といった資料も多く残されている。したがって、それらを読めばどのように学問が発展したのか、天文学者たちがどのように仕事を進めたのか、その様子をうかがうことができる。

 そこで本書では、江戸の天文学に深く関わる何人かをクローズアップし、彼らの当時の天文学上の業績に加えて、現存資料に見られる記述などを交えながら、天文学者たちの仕事ぶりも合わせて見ていくことにしたい。

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