ちくまプリマー新書

どうせなにもみえない、のか

市原真『どこからが病気なの?』書評

PR誌「ちくま」2月号から、市原真さんの『どこからが病気なの?』(ちくまプリマー新書)の書評を転載いたします。

 私は一人の女性を外来で定期的に診察していた。悪い病気は特にない。年齢は五十過ぎで、たまに骨粗鬆症の検査をし、たまに胃腸薬を処方していて、たまに胃カメラ検査を予約した。当時私は大きな総合病院に勤めていたので、本来なら自宅近くのクリニックなどに紹介すべき患者さんだった。しかしその大きな病院がどの医療機関よりも至近だったため、私がずっと診ていた。十年間くらい診ていた。
 ある時そのご婦人が胃潰瘍になった。治療をして、すっかり胃の粘膜も回復した。でもなんだか良くならなかった。ある日の診察で、そのご婦人がふり絞るように言った。
「先生、この胃潰瘍はストレス性ですか? そうなら、そういう診断書は書けますか?」
 それはもう、慇懃に尋ねてきた。流れで理由を聞くと、裁判資料になるかもしれないとのことだった。長い間夫からDVを受けていたと告白されたのはその時が初めてだった。
 私の衝撃は、DVを受けていたこと以上に、こんな長い間診ていたのにDVを受けていたことに今頃気づいた、ずっと気づいてあげられなかった、という不甲斐なさにあった。よくあることだと言うかもしれないが、私は臨床医であり、どちらかというとそのようなことには敏感であるし、頻繁ではないがたまに接する類の事案ではある。プロの臨床家として、ここまでの愚鈍さは一体なんなのか。懺悔するしかなかった。
 どれだけ診れば、その人を知ったことになるのでしょう。
 どれだけ調べれば、その人を調べ切ったといえるのでしょう。
 長く診てるから。ちゃんと検査してるから。それが一体何なのか。みなかったらみえないが、みていてもみえない。どうせなにもみえないのではないか。諏訪敦氏の作品たちがいつも私の耳に語りかけ、容赦なく問うてくる。
『どこからが病気なの?』の著者は、私と同じ医師だが、病理医である。病理医は、細胞をみている。細胞たちの配列、乱れ、個々の表情などをみて、良悪性の判断を行ったりしている。細胞たちのありようを、みて、病気を診断している。
 私は内科医だが、内科医は良くない。「どうせみえ内科」などと揶揄されることもある我ら内科医は、「推論」というもっともらしい武器で、様々な情報から因果を推測し、要因と診断を予想する。毎日の、すべての我々のコメントには「推測の域を超えない」とかいう文言が枕詞のように付く。これを病理医がやったら大変だ。病理医は、謙虚な診断をする。我々は念のためという旗印の下、大きく(広くマージンを取って)診断をする。
 内科医vs病理医の構図を言いたいのではない。
 とにかく、謙虚で誠実な病理医が、「医療」を紐解き、非医療者にわかりやすく伝えようとしたとき、これほどまでに丁寧で優しい文章になるかと驚嘆する。わかりやすい比喩の連続にたまに脳が眩む感覚に陥るが、壮大かつ易しい思考実験の本だと思えば気持ちが楽になる。明快さややさしさだけがこの本の売りではなく、すみずみ徹底して断定を避けた謙虚さはさすがで、大事な箇所ほど作為的にグレーのままとされて、(読者に迫らない形で)理解の主体性を促してくる。

 よくみなさい。臨床医でも、病理医でも、我々は研修医の時代に指導医からよくそう教わる。この「眼」を何に使うかは実のところ自由で、私と私と同世代である著者が、全然違う専門性のまま全然違うことを今している。
 一人は「どうせなにもみえない」と厨二病よろしく、格好つけ気持ちや考えが伝わることに絶望した気になって、退廃的になり病的な感受性を気取ってみせ、もう一人は「正しい知識は伝わるはずだ」と質実な文章を連ね、この通り述作した。
 ここまで書いて、私のこの解説のタイトルに「、のか」を加えた。そのことだけが、私にできた唯一の一般世間への接点だと思って。

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