高橋 久美子

第22回
四月の旅人

絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。最新刊は待望の詩画集「今夜 凶暴だから わたし」(ミシマ社)。

 いつもより空が澄み渡っていた。風が枝から枝へと器用に飛び移り、子どもたちの薄桃色の頬を揺らした。一番最初に目を覚ました子が大きなあくびを一つ、それが上へ下へと伝わってもう次から次へと子どもたちが目を覚ました。
「ねーぇ、お母さんあれなあに? ハモニカみたいな石の塊が川のずっと向こうにお山のように立ってるねえ」
 最初に起きた子が言った。お母さんはゆさゆさと子どもたちを揺すりながら川下のずっと奥を見てみる。
「まあ! あんな向こうの景色が見えるなんて何十年ぶりかしら。あれは、お家だよ。人間のお家。あの四角いところにみなさん住んでいるのよ」
「へえ! あんなハモニカの穴に住めるなんて随分と小さいんだね」
 一番小さな三郎が言った。三郎は3658番目の子どもだったので三郎と名付けられた。他にも同じ名前の子どもはたくさんいたけれど、近所では一人だ。
「馬鹿だなあ、お前。ずーっと向こうにあるから小さく見えるだけだよ」
「いや、人間は小さくも大きくもなれるんじゃないの?」
 子どもたちはみんな口々に喋り出し、煩いったらありゃしない。
「しーっ、シャラシャラさんの音がするよ」
 兄さんの声にはっとして、子どもたちは一斉に喋るのを止めた。
 橋を渡って、シャランシャランと鈴の音がこちらに向かってくる。うっとりとして子どもたちはその音色に聞き入った。どんどんとその鈴の音は大きくなって、ピタッと子どもたちの下で止まると、シャラシャラさんはこちらを見上げながら言った。
「もうちょっとで開花しそうねえ。やーね、また川沿いが人でごったがえすわよ」
「さあねえ、今年は観光客も来ないし、少ないんじゃないの?」
「そうよ、星子ちゃん、人混み行くのはやめてよ……」
 シャラシャラさんは、お姉さんやお母さんとなにやら心配そうに話をすると、また鞄につけた鈴をシャランシャランと響かせながら通り過ぎていった。子どもたちは、みんなこの音が好きだったのでシャラシャラさんが通るのをいつも楽しみにしていたのだった。遠くなる鈴のリズムに鼻歌を合わせて川はせせらぎ、鳥は歌った。

 一週間ほどが過ぎ、子どもたちは一つ二つと大人になっていった。
「かっこいいなあ兄さん、もう頭に王冠をつけてさあ」
 三郎が陽のよく当たる上の段を見上げて、羨ましそうに言った。
「そう焦りなさんな。お前もじきに大きくなるでしょうよ」
 通りかかった人々が、嬉しそうに兄さんたちを見上げて何やら四角い薄いものを差し向けている。
「あれは何をしているのだろうね兄さん、嫌に気味悪い音がしますね」
「ああ、あれはオブスキュラといってね、時を切り取れる物のようだね。この間、蟻の長老が言ってたよ」
「時を切り取る?」
「そうだよ。人間というのは、思い出が好きなんだそうだよ」
「思い出って、それは美味しいものなの? あの鈴の音よりも?」
三郎は首をかしげた。
「どうだろう。そりゃ、あの鈴の音より美味しいものはないと思うけどね」
  兄さんは、そう言うと王冠を揺すって笑った。
  その時、ブワーンと風が吹いて土や砂を舞い上がらせた。「目が痛いよう」と人間の子どもが泣き出し、お母さんが慌てて持っていた目薬をさしてあげている。
「可哀想に……。風さんや、もうちょいとお静かに通行できませんか?」
 と、三郎は通りかかりの風の子にお願いしてみたけれど、風は
「うるせい、うるせい! 俺は海に頼まれて吹かせてるだけなんでぃ。ああ、忙しい忙しい」
 と言って、またブワンブワンと唸りながら今にも三郎たちを引きちぎりそうに走り去っていった。風の言う、「海」というのはそんなに偉い者なのだろうか、と三郎は思った。空の上の方に行けばいるのだろうか。それとも人間のいるハモニカの石の中に住んでいるのだろうか。さっきから三郎の頭にしがみつくメジロに、聞いてみた。
「ねえ、メジロさん。君は海というのを見たことがあるかい?」
 メジロは風に飛ばされないように体を小さくして答えた。
「それはずーっと遠く、田舎の方の者でございますね。なんせ、私なんか都会育ちですからねぇ、知らないですよぉ」
 お喋りメジロは話を続けた。
「それでもね、渡り鳥なんかとすれ違うと、時々海らしい匂いがするんですよ。どうも懐かしい、昔に嗅いだことのあるような匂いなんですよね。だけど、いつどこで嗅いだのかそれがさっぱり思い出せない。それで渡り鳥に『あなたさまは海を知っているんですか?』と尋ねたら『当たり前だ、海を渡って来たからな』と、こう、しわがれた声で言うのですよ。聞くところによりますと、途方もなく大きい水たまりなんだそうですよ」
 三郎は向かいの家の金魚が入った池を見ながら言った。
「あの家の池よりも?」
「比較になりませんよ」
「この川よりも?」
「ええもう、こんなもんじゃないでしょう」
「じゃあ、この空よりも?」
「ああ、えーと、うーん。そうですねえ。この空の端っこがどこなのか私は知りませんがね、そりゃあこんなもんじゃないと思いますよ。海を渡ってきた鳥はですね、もう、羽なんて、半分擦り切れてしまって中には力尽きて海に落っこちて死んでしまうお仲間もおられたそうで。それはもう大変な思いで海を渡ってきたんでしょう。私らみたいな気楽な都会もんには分からない人生観ですよ」
 三郎はじっとメジロの話を聞いた。
「それでね、ぼっちゃん。大概の渡り鳥が悟ったような顔して言うんです。『まあこの世は大体が海だからね』なんて。『君の体だって海で出来ているんだ』なんつってね。分かるようで分からない。でも分かんないようで分かるんだよねえ。禅問答ですなこりゃ」

 やがて風は止み、メジロは食べ物を探しに行ってしまった。温かい日差しが三郎の体を照らし始めた。三郎は海を見てみたいと思った。体がうずうずとして、今にも鳥のように飛んでいけそうだったし、川のようにどこまでも流れていけそうだとも思った。やがて夜と朝が幾度か過ぎ、三郎の体は日に日に成長していった。折りたたまれていた翼が開いて、体の内側にも太陽が当たり、みるみる自由になっていくようだった。
「やあ三郎、お前立派に咲いたなあ。こないだまで、こんなに小さかったのに。どうだい気分は?」
 と、兄さんが上から声をかけてきた。
「はい、少しすうすうします。でも、どこへだって行けそうな気がする」
 三郎は王冠が落っこちないように気にしながら言った。
「そうだよ。どこへだって行ける。僕は、風に乗ってしばらく街を旅してみようと思ってるんだ。ほら、次の風を見ててごらん」
 そう言うと、いちにのさんで、兄さんは家から飛び出した。そして、風の子に上手く乗ってあっという間に向かいの屋根の上までいってしまった。三郎は目を見張った。他の兄さんたちも同じように、川へ浮かんだり、少年と遊んだり、とにかく自由だった。一度旅に出ると、もうここへは戻って来られないことを三郎は知っていた。それでも、ここではない違う場所に行ってみたかった。もうしばらくしたら僕も家を出よう。メジロが言っていた海へ行くにはどうすればいいのだろうかと三郎は考えた。蟻の長老に聞いても、蝶々の先生に聞いても、お母さんに聞いても、海へ行く方法はわからなかった。
 
 さらに一週間ほど経ったある朝、目を覚ますと家にはもう三郎と何人かのきょうだいしか残っていなかった。さっきまで兄さんがいた部屋にも青々とした新しい命が芽生えてきている。川面はもうすっかり、綺麗な薄桃色に染まり、大混雑の大フィーバーだ。みんな手をふって、歌って、踊って、気持ちよさそうに浮かんでいる。
 ――シャランシャララン。
 遠くからあの子の鈴の音が聞こえる。三郎はその音色にうっとりして、一緒にこの音を聞いた兄さんたちのことを思った。シャラシャラさんは、三郎たちの家を見上げると、つまらそうに
「やっぱ、もう散ってるじゃん。一足遅かったねえ」
 と言った。
「仕方ないよ。ほらでもまだ少し咲いているよ」
 お姉さんが、三郎を持ち上げたそのとき、風がさーっと吹いて、その手から三郎は高く舞い上がっていった。王冠から金の粉を撒きながら、どこまでも自由に飛んでいけた。三郎は初めて自分の体が自分のものになったようだった。
「冒険の始まりねえ。気をつけて行ってらっしゃいね」お母さんが手を振っている。僕はこんなに美しいところに住んでいたんだね。外の世界から初めて見たお母さんや家はとても、力強くて、優しくて、三郎は何度もありがとうを言った。猫もお家も人も小さく小さくなってしばらく空を飛んだかと思うと、神社の境内に掃き集められた花びらと一緒に捨てられそうになってまた慌てて風に乗った。自由は見た目よりも難しかった。気がついたら三郎は川面に浮かんでいた。見上げた空は際限なく、それはまだ見ぬ海のようだった。
 ときに雨が降りどろんこになり、水草にひっかかり破れ、太陽に照らされ変色していった。それでも三郎は流れに身を委ねた。どのくらい流れていただろう。ふと、懐かしい匂いがした。メジロの言っていた、分からないようで分かる匂いだった。兄さんの言っていた、「思い出」はこういう匂いかもしれないと思った。新しいのに懐かしくて、お母さんを思い浮かべていた。
 三郎は海になっていた。もう薄桃色の体はない。とてつもなく深くて大きな海の一部だ。たった一つの、だけれど無限の命の塊だった。
 渡り鳥の群れが頭上高くを飛んでいく。そこにはいつも眺めた太陽と大きな空があった。

関連書籍

こちらあみ子

高橋 久美子

いっぴき (ちくま文庫)

筑摩書房

79.0

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入