世の中ラボ

【第121回】とことん闘う「彼女たち」の実践

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2020年5月号より転載。

『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』という本がおもしろかった。著者は写真家の長島有里枝。彼女自身もかつて巻きこまれた「女の子写真」というカテゴリーを、当事者の側から緻密かつ激烈に批判したフェミニズム批評で、何度となく私は込み上げる笑いが抑えられなかった。
「女の子写真」とは、帯文によれば〈一九九〇年代に若い女性アーチストを中心として生まれた写真の潮流―同世代の多くの女性に影響を与え、一大「写真ブーム」を巻き起こしたムーブメント〉である。この動きにはいくつかの背景があった。
 第一に、九〇年代初頭に長島有里枝やヒロミックスら、七〇年代生まれの若い女性写真家が次々登場したこと。第二に、コンパクトカメラが普及し、街で写真を撮る女子高生らが増えたこと。第三に、写真専門学校で女子の比率が飛躍的に上がったこと。
 当時のことは私もよく覚えている。「スタジオ・ボイス」などの雑誌がたびたびこの種の特集を組んでいたからだ。その渦中にいて時代の寵児のように見えた当人はしかし、この現象に強烈な違和感を覚えていたのだ。問題はどこにあったのだろうか。

批評された当事者からのメタ批評
 この本のおもしろさは、写真批評に対する批評、すなわちメタ批評である点だ。九〇年代の「女の子写真」はどのようにつくられ、どう語られてきたか。嬉々として「女の子写真」を語る男性批評家らの、まあご陽気でご機嫌なこと。
〈彼女たちは、まるで呼吸するような軽やかさでシャッターを切る。これまで、ともすれば体力や技術の面で女性写真家の不利が言われがちだったが、撮影機材が電子化しコンパクトになることによって、女性でも無理なくこの表現メディアを使いこなすことができるようになった。そうなると、女性のしなやかな身体感覚と繊細な感受性は、むしろ写真にぴったりなのかもしれない。今後も女性写真家たちの動きはさらに活性化していくだろう〉。
 写真評論家の飯沢耕太郎が「写真総論――90年代の新しい〈風〉」と題し、七〇年前後に生まれた女性写真家たちについて書いた文章の一部である(『美術の窓』九五年二・三月合併号)。
 これに対して、長島は鋭い論評を加える。〈「呼吸するような軽やかさ」「しなやか」「感覚」「繊細」「感受性」などの言葉で「女性らしさ」を強調されている〉。さらに〈女性写真家の台頭を可能にした要因はここでもまた、撮影機材の電子軽量化だと語られている。しかし〝機械の進歩〟が女性を「写真家」にするという言説は、それ以前に活躍した女性写真家たちがどのように写真家になったのかという疑問に答えることができない〉。
 ほんとですよね。重たい機材の時代にも女性の写真家は大勢いた。アーティストではなく、雑誌業界や広告業界を支える職人としての、いわゆる「カメラマン」もである。
 飯沢耕太郎の筆はしかし、なおも快調にスベる。
〈「ずっと欲しかったカメラ」を女の子たちが手に入れた時、何がおこったのだろうか。彼女たちはこれまでよりもずっと軽やかに、自由に、見方を変えればよりぞんざいでいい加減にこのツールを使い始めた。男の子たちにとって(かつて男の子だった者も含めて)、カメラはフェティッシュな呪具のようなものである。魔法の力を失わないようにいつでもぴかぴかに磨きあげ、手入れしておく必要がある。女の子たちにとっては、カメラはそのような神秘的な力を持つ道具にはほど遠く、ポーチの中にごちゃごちゃ詰め込まれた化粧品とほとんど変わらない〉(「スタジオ・ボイス」九六年三月号)。
 飯沢が「ヒロミックスが好き」と題された特集号に寄せた文章の一部である。素で読んでも、突っ込みどころ満載だ。男の子にとってカメラは「呪具」だが、女の子には「化粧品」? 長島はスパッといい切る。〈このような飯沢の論じかたは、異性愛の規範に依拠したものだといえる〉。
 私は随所で爆笑したものの、評論家にとって、これは恐ろしい本である。何気なく「褒めたつもり」の文章が、二十数年後に曝露され「ほらごらん。こんなに差別的」と当の批評相手に粉砕されるのだ。他人事じゃないっすよ。冷や汗モノだよ。
 批評する主体にも長島の批判は向けられる。この当時、「女の子写真」を語る際の主語は、しばしばジェンダーが刻印された「僕ら」であった。たとえば「ヒロミックスが好き」のマニフェスト。〈初めて恋に打たれたような気持ちで世界を見るような、そんな写真が今、心から欲しいと思う。/行き詰まりは、純粋さだけが打ち破れる。/そう、僕らはヒロミックスが好きだ〉。
 ここでいう「僕ら」とは誰なのか。「異性愛の男性の視点」だと長島はいう。「僕ら」が消費する「女の子」としてのヒロミックス像は、ヒロミックス自身の写真(たとえば下着姿の自らを撮ったセルフポートレート)の意図とはかけ離れていた。主語が「わたしたち」だったら、それはアメリカの第三波フェミニズムにつらなる実践として認識されたかもしれなのに、と。
「僕ら」への対立軸として、長島が提示するのは「『わたしたち』の『ガーリーフォト』」という概念だ。男たちが浮かれていたのと同じ現象が、女性の論者やインタビュアー、あるいは女性誌ではまったく異なる文脈で語られていた。そこには女性をエンパワーメントする言葉があふれていたし、少女たちがそれを歓迎したのも従来の決めつけを逆手にとって「かわいさ」を主体的に選ぶ「ガーリー」な文化とフェミニズムを標榜しないフェミニズム(第三波フェミニズム)と共通する側面があったからだと。
 長島有里枝が批判したような言説は、映画も演劇も美術も音楽も文学も、あらゆる女性表現者に当てはまるだろう。この本はそれも含めて、女性の表現に対する人々の思い込みを逆転させるのだ。

論理的な反論は「ウザい」のか?
 さて、人々の思い込みを逆転させるという意味で、最近印象に残った本がじつはもう一冊ある。フェミマガジン『エトセトラ』の第二号。作家の山内マリコと柚木麻子の責任編集による特集「We LOVE 田嶋陽子」である。
 田嶋陽子って、あの? と思った人もいるだろう。
 責任編集の山内マリコも巻頭言で書いている。〈田嶋陽子さんは九〇年代以降、「テレビでおじさんとケンカしてるフェミニスト」として認識されてきた。そして多くの人が、そんな彼女にちょっとネガティブなイメージを抱いてきた〉。それは理由のないことではなかったと山内はいう。〈なぜならテレビはいつも、田嶋陽子さんの発言に不快感を示すおじさんたちの味方だったから。田嶋陽子さんの正論を、おじさんの論理でまるめこむことで生まれる笑いに加担してきたから。(略)そしてわたしたちはあのころ、テレビのいいなりみたいなもんだったから〉。
 なぜ彼女は嫌われたのか。当時のバラエティ番組を見返した柚木麻子は、その理由を次のように書く。〈田嶋陽子が真剣に人権の話をしているのに、「美意識」の話をしようとするから、噛み合わないのだ。田嶋陽子の発言ばかりが取り沙汰されるのは、一人だけ明快で筋道が立てられているからだ。なんとなくまかり通っている根拠のないルールに対するキャッチーで論理的な反論。それに激しい拒否反応が起きたというのが田嶋陽子批判の正体だ〉。
 田嶋陽子が「ビートたけしのTVタックル」などのテレビ番組で男の論客に立ち向かっていた九〇年代は、ヒロミックスらの「女の子写真」が雑誌でもてはやされていた時期と重なる。二つの現象を合わせると、九〇年代のメディアがどんなメッセージを発していたかが浮かび上がる。女は「女性のしなやかな身体感覚と繊細な感受性」で勝負しなさいね。田嶋陽子みたいにガミガミと「論理的な反論」を振りかざす女はダメだからね。
 なんとくだらないメッセージに、私たちは惑わされていたのだろう。おかげで、九〇年代の女性写真家たちの作品の意図も、田嶋陽子の発言の意味もキャッチし損ねたじゃないの!
 では、これに類する現代の現象はないのだろうか。私が想起したのは昨年の「#KuToo(クートゥー)」運動だ。
〈私はいつか女性が仕事でヒールやパンプスを履かなきゃいけないという風習をなくしたいと思ってるの。/専門の時ホテルに泊まり込みで1ヶ月バイトしたのだけどパンプスで足がもうダメで、専門もやめた。なんで足怪我しながら仕事しなきゃいけないんだろう〉
 二〇一九年一月、石川優実という一女性の右のツイートからはじまった運動は「靴」と「苦痛」と「#MeToo」をかけた「#KuToo」に発展、一万八千筆の署名を集めた。その経緯は『#KuToo――靴から考える本気のフェミニズム』にまとめられている。
 ちなみにこの件は国会にも持ちこまれ、二〇年三月、ついに画期的な見解を引き出した。共産党の小池晃議員の質問に首相は答えた。「職場の服装について、単に苦痛を強いるような合理性を欠くルールを女性に強いることが許されないことは当然です」。
 おおー! 署名は成果を上げたのだ。とはいえ本を開いた人は驚くだろう。紙幅の半分以上を占めるのは、SNS上で浴びせられた運動への罵詈雑言と、それに対する石川の執拗な反論だからだ。なんでこんなバカをいちいち相手にするのかと年長者は感じるはずだ。だが、長島有里枝にとっての男の評論家と、石川優実にとっての匿名の攻撃がどうして違うといえるだろう。
 不本意な言説とは、当事者の矜持にかけてとことん闘う。フェミニズムの実践とはそういうことなのだと、あらためて教えられた。
 

【この記事で紹介された本】

『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』
長島有里枝、大福書林、2020年、3300円+税

 

著者は1973年生まれ。93年、セルフポートレートでパルコ賞を受賞、写真界の寵児となる。98年、アメリカに留学。2001年、木村伊兵衛写真賞受賞(蜷川実花、ヒロミックスとの同時受賞)。巻頭言が「当事者から、異議を申し立てます。」と題されているように、90年代を中心に自身も含めた女性写真家に対する言説を子細に分析する。引用の的確さも含めて、胸のすく快著。

『エトセトラ VOL2』
山内マリコ・柚木麻子責任編集、エトセトラブックス、2019年、1200円+税

 

2019年8月に創刊されたフェミマガジンの第2号。田嶋陽子は1941年生まれの英文学者。山内マリコは1980年生まれ、柚木麻子は1981年生まれの作家。座談会、エッセイ、書評などのほか、田嶋陽子本人へロングインタビューも収録されており、かつての田嶋を知る人には目からウロコの、知らない人には興味津々のバラエティに富んだ特集に仕上がっている。

『#KuToo(クートゥー)――靴から考える本気のフェミニズム』
石川優実、現代書館、2019年、1300円+税

 

著者は1987年生まれのグラビア女優。2017年、「♯MeToo」運動に啓発されて以来、〈本気で怒ることにした。怒っていることがはっきり分かるような伝え方を意識的にした〉。ちなみに「♯KuToo」は一九年の「新語・流行語大賞」トップ10入りし、著者はイギリスBBCが選ぶこの年の世界の人々に影響を与えた「100人の女性」のひとりにも選ばれた。

PR誌ちくま2020年5月号

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