高橋 久美子

第23回
私達の協奏曲

絵本作品でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。5月26日には最新刊、絵本「あしたが きらいな うさぎ」(マイクロマガジン社)が刊行されたばかり。


 ゴールデンウィーク恒例の、バレー部の同窓会だった。リモート飲み会になった今年は、参加者も増えるんじゃないかと思って私も久々に出席したけど、結局ドタキャンばかりで、いつものコンビに私が加わっただけになってしまった。子どもが……とか、旦那の実家がとかいうのは口実で直前になって昔の付き合いがちょっと面倒になったんじゃないかと思う。リモートってそういうとこ便利だよな。
 優子が画面の向こうでスルメをかじりながら何か言っている。優子の家の電波状況が悪いのか口を開けたまま静止してしまった。会話もとぎれとぎれのグダグダだけど、私も小鳥もそのまま放置していた。まあ世の中このくらいでいいときもある。何でもかんでもきっちりしすぎだから息苦しいんじゃないかな。
「そやけど、あの頃には想像できんかったよなあ。小鳥の方が早々と別れて、恋多き翠がすっかりお母さんやもんなあ。そういや、子どもらは? 学校休みやけど、どうしてるん?」
 優子はやっとバグっていることに気づいたのか、電波の良いところを探して家中うろうろしながら尋ねた。
「ああ、旦那と公園へ行ってる。しばらく旦那も子どもも家だから、けっこう大変でさあ」
「へー、いいやん家族一緒に過ごせて。あれ、翠の旦那さんって在宅勤務できるんだっけ。何の仕事?」
 と小鳥が言った。今日知ったけど、小鳥は去年の秋に離婚したみたいだ。
「出版社に行ってる。といっても小さい出版社だけどね」
「へー、出版社かー。すごいなあ」
  小鳥がニコリと微笑んだ。ん? なんだろうこの微妙な空気。子どもの塾の先生とも画面越しに喋るから慣れているはずだが、久々に会うからかどうも空気感が読めない。やっぱり私もキャンセルすれば良かったなあ。

  高校時代、帰る方角が一緒だったからいつも私達は一緒だった。セッターの優子と、アタッカーの小鳥は小学校からの幼馴染みで県内でも有名なコンビだった。強豪チームの中で自分は万年補欠だったけど、そんなのは関係なく何でも話し合えた。合宿も対外試合も、勝っても負けても、どこまでも一心同体だと思ってきたはずだ。
 結婚してからだろうか、どこか疎遠になってしまったのは。特に何か原因があったわけじゃない。子育てに忙しくなったからというより、単に共通の話題がなくなっただけだろう。毎年こうしてみんなで集まっても、その後二人だけで飲み直しに行っているのを知っている。高校生じゃあるまいし、そんなことにいちいち嫉妬したりはしない。私には家族がいる。東京の小鳥の家にも優子は頻繁に遊びにいっているに違いない。でないといくら友達でも小鳥の離婚をいじったりできないもの。
「優子は、病院勤務大変じゃないの? 今の時期ってきっとみんなピリピリしてるよね?」
 話題をすりかえてみる。
「そうやー。本当にご苦労さまだねえ」
 小鳥が何度も頷く。
「まあ確かにピリピリはしとるけど私は内科だから。子どもがおる家庭は特にいろいろ気使うと思うなあ。嫌なこと言われたりした人もおるっていうし。私はまあ独り身やし、全然平気やで。子どもと言えば、翠のとこ、何年生だっけ?」
 おお、流石セッター。また話をこっちに戻すのか。
「ええと、小学四年と二年になったよ」
「あの翠が二十四で結婚したときは、びっくりだったもんねえ。高校時代何人と付き合ってたっけかな?」
 優子のトスを受けて、小鳥がアタックを打ってきた。
「いやいや、重なってはないからね」
 私も一応レシーブはするが、明らかに押されている。
「だって、御手洗さんを仕留めた女だよ?」
「久々に聞いたその名前! 二六歳の若き作曲家、御手洗さん。胸アツすぎる!!」
「今日は三人だけやから、この話してもいいやろ?」
「いいわー。こういうキュンとする話、最近全然してないもん」
 もはや、どっちがどっちの声かわからなかった。興奮気味の二人の顔が画面ぱんぱんに迫ってくる。
「なあなあ翠、あの名曲喫茶はもう行ってないん?」
「まさか、二人とも何十年前の話しとるん。行っとるわけないやろー」
「ひゃー、焦って関西弁に戻ってるし! ほんとかな?」
 前髪を束ねた優子のおかめ顔が、バグって静止する。
「でも、今思うとすんごい青春だったよね。あんな少女漫画みたいなことほんとに起こったんやからね」
 小鳥が落ち着いて、一言一言嚙みしめるように話しだした。
「忘れもしない、高二の春、遠征で東京行ったときだったよね。財布落として泣きべそかいとった翠に、お母さんから電話がかかってきた。学生証の裏に実家の電話番号書いてたんよな確か。拾ったのは九歳年上の御手洗さん。そうして、少女は財布を直接渡してもらうことになったのです。彼が待ち合わせに選んだのは、なんと名曲喫茶。クラッシックの流れる店内に少女たちは吸い込まれていく……」
「ちょっと待って、今考えたら怪しくない? なんで名曲喫茶で渡す? しかもけっこういかがわしい場所にあったよね。普通、デパートの喫茶店とか、ハチ公前でよくない?」
 酔っぱらった優子が突っ込んできた。
「そりゃどんな人か全くわからんから、人の少ない場所の方がいいと思ったんやない?」
「ええー。そうかなあ。女子高生に財布渡すのに名曲喫茶って、この年になって考えたらけっこうやばいよ」
「まあ、それで終わらなかったのがねえ……。二人は運命って思ってたんやけどなあ」
 小鳥が、遠い目で呟いた。
 そうだ、それで終わりにしなかった。私は、半年後またばったりと東京で御手洗に会った……ということにしているが、本当はまた会えるかもしれないと思って修学旅行のとき一人でわざとあの名曲喫茶に行ったのだ。
 御手洗は、二階席のスピーカーの前の席に座って本を読んでいた。ずっと話しかけられずに、斜め横の席からただ彼を見ていた。ライターでなくてマッチをすって煙草に火をつけ、ときどき、鼻歌にしては大きめの声で流れてくる旋律に合わせてハミングしている。白いシャツの襟の部分はよれてくすんで、黒縁のメガネがだんだんとずり落ちてきて、それを右手中指で押し上げる。目にかかった前髪をときどきかき上げる度、長くなった煙草の灰がシャツに落ちてしまいそうでひやひやした。
 私は偶然を装って声をかけてみた。彼は驚いて、でも顔をほころばせて再会を喜んでくれた。帰り際、さりげなく電話番号を交換した。そうして迷惑にならない程度にときどきメールをして、彼が音楽大学の講師をしながら作曲家を目指していると知った。私の全く知らない世界に住んでいる人だった。それでいて少年のように常識にとらわれない無垢な魂に包まれた人だった。何度目かの恋は、今までのどれよりも私を夢中にさせた。
 翌年、東京の大学を受験し、何度か会ううちに本当に御手洗さんと付き合うことになっていた。バレーの才能はなかったけど、恋愛の才能はあったのかもしれない。今、相手が何を望んでいるのか、どう言えば喜んでくれるか、学んでもないのに全部分かった。
「ね、さすがに、あれからもう会ってないんでしょう? 何してるのかな御手洗さん。今頃売れっ子作曲家になれてたらいいね」
 小鳥は相変わらず天然だけど、三十過ぎた天然はただの空気読めない人だと思う。
「会ってるっていったらどうする?」
 二人が言葉を失っている。
「それは、駄目、やないかな、だって……」
 続きを言いかけて優子がまたバグってしまった。
「やだー、冗談だよ冗談。もうどこでどうしてるかも知らないよー」
 私は大げさに笑ってみせる。
「けど、そういう気持ちになることってあるよね?」
 と小鳥が言った。
「へ?」
「あるでしょ? そういう気持ちになること。
 私はあったよ。家で一人でいるとね、ふと、私ここで何してるんだろうって。このまま一人で年取っていくのかなって。別れんければよかったかなとか思うこともあるし、高校時代に戻りたいなとか、もう大阪帰ろっかなーとか思うこともあるんよね。女は上書き保存って、あれ噓やんな。割り切れることばっかじゃないよ。くよくよすることやってあるし、過去にすがりたくなることだってあるしね」
 標準語と関西弁が混ざっていることには気づいてないのだろう。優子不在のまま、小鳥がこんなに喋ることは今までなかった。少なくとも私に、自分の気持ちをあけすけに伝えたのは初めてのことだ。
「小鳥、頑張ったんだね。でももう大阪に帰ってもいいんじゃないかな? そんなに無理することないよ」
「うん。でもな、まだ帰れんねん。私、結婚してから東京きたやん? 全部嫌いなまま帰るの、なんかしゃくやなって思うんよね。せめてこの街を好きになってから、それから堂々と帰ろうかなって。それに、思い出に恋しても両思いにはなれへんしな」
 私は小鳥の決意に深く頷いた。
「御手洗さん、なんか魅力的な不思議な人だったよねえ。才能の塊っていうか。私だってあの辺通る時、今だに思い出すんやから、翠もそりゃ懐かしく思うときあるでしょう」
「それがね、私、全く思い出すことないんよ。二人に言われて初めて彼のこと思い出したかも。御手洗さんかー。懐かしいね。今頃何してるのかなあ」
「うわー。流石、百戦錬磨の女の言うことは違うなあ。別れたときは大変だったのに。
 今が幸せな証拠やね。良かった、幸せそうで」
 小鳥が画面の向こうでニコッと微笑んで、また微妙な空気になる。あれ? 何だろう、私今イラッとしてない? カメラ位置の関係かな、見下されているみたいな笑顔に見えた。口角は思いっきり上がってるのに目が笑ってない。この違和感には覚えがあった。そうだ、私は高校時代からずっとこの笑顔を見ると話を終わりにしなくちゃと思っていたような気がする。これ以上は二人の世界に入ってはいけない、そう思っていた気がする。決して小鳥のことが嫌いとかそういうことじゃないんだけれど。
 ああ、思い出してきた。何でも話せてたなんて、記憶の改竄だ。帰り道の話は途中からいつも試合のことばっかりで、補欠の私の意見も聞いているふりして私のことなんて見ていなかった。二人はお互いの目だけを見ながら話していた。インターハイをかけた試合で優子が指の骨を折ったときも、小鳥は多分それを知りながら止めなかった。私はベンチからいつも見ているだけだった。一生分の熱を使い切るほどバレーに命を燃やす二人のことを。私にはないものを全部もっていた二人のことを。二人が私を見てくれたのは、御手洗さんのことを報告をするときだけだった。まるで疑似恋愛をするかのように羨望の眼差しを私に向けた。そのときだけ私は対等でいられると思えた。
 優子は相変わらずバグったままで、ついでにトイレにでも行ってしまったのか画面に姿が見えなくなっていた。
「じゃあ、私、そろそろ夕飯の支度するから。優子によろしく言っておいてね」
「あ、標準語に戻った。家族モードにスイッチ入れ替わったんや。うんうん、じゃあまた。会えて嬉しかったよ。ばいばーい」
 
 パソコンを折りたたむと、いつもの台所だった。日が落ちてすっかり肌寒くなってしまった。テーブルの上で携帯が震える。夫からだ。
〈あと三〇分したら帰るね)
 何一つ不満はない。かわいい娘達のためなら命を捨てることだってできる。
 でもときどき、この幸せの奥から迫りくる何か大きなものに押しつぶされそうになる。川面で朽ちていく親魚のように、家族のためだけに身を捧げる日々が惨めに思えるときがある。鏡の前で自分の目を見たとき、夫の下着をたたむとき、母という枠に入れられて自分が姿を消すとき。そんなとき必ず御手洗さんのことを思い出した。彼と一緒に歩む人生はどんなだっただろうか。歩めなかったもう一つの道を思うと闇の方へひた走りたくなる瞬間がないといったら噓になる。
 御手洗は優子たちと同じ種類の人間だった。一生分の命を使い果たしても構わないというように創作に没頭していった。私はただ傍で見ていた。あの日、ベンチから二人を見ていたように。そして次第に熱い炎に焼け焦がされていくのがわかった。私にはあの人たちと同じ火がなかった。

「たっだいまー」
 子どもたちが、春風のように家の中に飛び込んできた。同時に、こめかみ辺りにまとわりついていた毒々しい気は泡になって消えてゆく。ああ良かった。私は母として永遠にスタメンでいられるのだから。小鳥たちの決して手に入れることのできなかった一番の幸せを摑んだのは自分なのだから。あの頃わからなかったことが今はわかる。愛の正体についてだ。頭で考えて作り出すものではなく自然に湧き上がる泉のようなものだということ。
「ほら、二人とも、先に手洗いうがいだろ」
 夫が洗面所で娘たちを呼んでいる。
「はーい」
 廊下を走る娘たちの小さな足音。
 家族の目を盗んで何度かあの名曲喫茶を訪れたことがあった。二階席のいつものテーブル、そこにもう彼はいなかった。同じように、本を開いて爆音で流れる音楽に身を委ねた。もし彼がいたら自分はどうするつもりだったのだろう。
「お母さん、今日ね、パパよりも速く走れたよ」
「噓だよ。それパパが途中で靴脱げたからだよ」
 娘たちの話に相槌をうちながら、夕飯を作る。夫がテレビをつけると、タキシードに身を包んだピアニストが登場し、管弦楽団との演奏が始まった。それはあの人の小さなアパートで、いつもかかっていたラフマニノフのピアノ協奏曲第三番だった。この曲はとても難解でプロでもなかなかピアノとオケの息が合わないのだと言っていた。速弾きのピアノに合わせて娘達はテーブルの周りを走りはじめる。私はコンロの火力を強め、あの人のやっていたように口を閉じたまま誰にも聴こえない声で旋律をハミングした。

 

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