ちくま新書

理不尽に立ち向かう写真家たち

新書7月刊『戦後史の決定的瞬間』より冒頭を公開します。日本を代表する写真家14人の作品131点で、戦後日本を振り返ります。

 1945年8月6日午前8時15分、北マリアナ諸島のテニアン島基地から飛来した米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、ウラン型原子爆弾を広島市に投下した。リトルボーイと呼ばれた原爆は43秒後、上空580メートルで炸裂。放射された熱線で爆心地付近の地表温度は3000~4000度に達し、猛烈な爆風や火災で市中心部は一瞬にして壊滅した。当時の居住者約35万人のうち、この年の12月末までに約14万人が死亡したと広島市は推計している。
 後に報道写真家となる福島菊次郎(1921~2015)は広島市に駐屯していた広島西部第10部隊の2等兵だったが、原爆投下1週間前の7月30日夜、貨物列車に乗せられ、丸1日かけて宮崎県の日南海岸まで運ばれた。
 福島らが配属されたのは、米軍が本土上陸した際、爆雷を背負って戦車の下に飛び込み自爆する特攻部隊だった。海岸に10メートル間隔で蛸壺のような壕を堀り、身を潜めて米軍を待つうち8月15日の敗戦を迎えた。
 爆心地近くの広島の原隊は全滅した。福島は、自爆部隊に移ったことで逆に命拾いした自身の運命に慄然とした。
「わずか7日の違いで命が助かった。この戦争体験が、僕の人間形成を決定づけたと思う。職業としてカメラマンになったが、食うために撮るだけではなく、常に戦争体験が根っこにあって、撮る対象を深追いしていきました」
福島は生前、インタビューに答えて写真家としての思いをこう語ったが、プロとして独り立ちするまでには長い年月が必要だった。

 仇を討ってくれ
 復員した福島は、郷里の山口県下松市で時計店を開業した。月に2、3度、広島駅前の闇市に時計などの仕入れのため通いながら原爆ドームや街並みの写真を趣味で撮るようになったが、被爆者にはレンズを向けられなかった。
 1952年8月、原爆死没者慰霊碑の前で知り合った救援活動家の男性が、一人の被爆者を紹介してくれた。広島市江波の漁師、中村杉松である。中村は妻を原爆症で亡くし、自身も重い原爆症に苦しみながら6人の子どもを育てていた。彼との出会いが、写真家への道を切り開くことになった。
 福島が初めて中村の家を訪れたとき、軒下に“貝塚”があるのに気づいた。中村は病気のため舟を出せず、一家は八百屋からくず野菜をもらい、太田川河口で貝を採って飢えをしのいでいた。食べた貝の殻が、うず高く積み上がっていたのだ。
 被爆者を撮影したいと願っていた福島にとって中村は格好の被写体だったが、なかなかシャッターを切れなかった。
「せっかく撮影対象を探し当てたのに、見たこともないような極貧の暮らし振りに、カメラを向ける勇気がなかったんです」と福島は振り返る。
 生活保護の手続きを助けたり、米を持参したりして1年が過ぎたある日、中村が畳に手をつき「あんたに頼みがある」と言った。
「見ての通り、このざまじゃ。このままでは死んでも死に切れん。わしの仇を討ってくれんか」
「仇を討つには、どうすればいいのですか」と福島が聞くと「わしの写真を撮り世界中に知らせてくれ」と中村は答えた。
 こうして困窮と病苦の撮影が始まったが、中村は病気の発作が起きると「頭が割れる」と叫び、のたうち回って体をかきむしる。その姿にカメラを向ける福島も、心身ともに疲れ果てていった。

発作に襲われ「頭が割れる」と叫び、のたうち回り苦しむ中村杉松

「シャッターを切る時、このまま息が絶えるのではと思ったことも度々ありましたね」
中村の子どもたちは中学校を卒業すると次々と家を出て行った。残された中村の慰めは飼い犬のポチだったが、生活保護を受けながら犬を飼っていることを市の福祉課が問題視した。
 ある日、中村が犬を抱き、肩を落としているので「どうしました」と福島が声を掛けると、「保健所が犬を捕まえに来る」と言って泣きだした。金がないので犬の鑑札を受けることができなかったことが捕獲理由になった。
 中村が逃がそうとしてポチを何度も遠くに連れ出したが、戻って来るのだと言う。中村の頬を伝う涙をポチが慰めるようになめた。その姿を福島が写真に収めた直後、捕獲係が現れ、犬を連れ去った。

生活保護を理由に中村杉松の飼い犬は処分されることに。犬は何度逃がしても戻り、涙が伝う中村の頬をなめた

  命削る撮影
「遠慮はいらん。何でも写してくれ」という言葉を受け、その後も中村が七転八倒する姿や親子で薄い雑炊をすするような窮状を福島は撮り続けたが、ある日、寝ていた中村の内股に目をやると、大小、無数の傷痕が見えた。
「何の傷ですか」と問うと、中村は重い口を開いた。
「女房が死んだ後、死のうと思い、カミソリで3回も切った」。布団は血だらけになり気が遠くなったが、死ねなかった。その後、長い病床生活の苦しみから逃れるように、何度も何度も刃を当てたという。中村はこのとき初めて撮影を拒否した。こんな傷痕を知られると、気が狂ったと思われるからだと言う。
「本当の苦しみを知ってもらうためにも必要な写真です。ぜひお願いします」。さらに福島が頼むと、しぶしぶ撮影に応じた。

中村杉松の内股に残された無数の傷痕。病苦から逃れるためわが身を切り裂いた


「写真に焼いた後、傷を数えたら100近くあった。内股の痛さで、苦しさを忘れようとしたのです」と福島は言う。
 中村は入退院を繰り返し、開腹手術も受けたが容体は良くならなかった。夏に寒気を訴え、布団をつかんで歯をガチガチ鳴らし震える。その横でシャッターを無言で切り続ける福島も少しずつ、精神的に追い詰められていった。
 10年近い撮影の成果を元に、1960年8月、東京・銀座で写真展が開催された。翌年には写真集『ピカドン ある原爆被災者の記録』として出版された。マスメディアに大きく取り上げられ、評論家も激賞したが、福島は、中村一家の撮影を終えた頃から不眠症になり、幻聴や幻覚にも悩まされるようになっていた。
「あんな撮影をずっと続けていたので、とうとう精神科病院に入ることになってしまったんです」
 写真を通じた友人が院長をしている山口県徳山市(現・周南市)の精神科病院に入院し、時計店も廃業した。入院当初は強い精神安定剤の影響でもうろうとした日々を過ごしていたが、「このままでは廃人になる」と思い、自らの意志で薬の服用をすべてやめ、3カ月かけて健康を回復した。病室で「生活は苦しくとも好きな写真を撮って生きよう」と決意し、退院するとすぐに、プロのカメラマンを目指して上京した……。 

 本書の内容
 冒頭で取り上げた福島菊次郎をはじめ、14人の日本を代表する写真家、芥川仁、石川文洋、大石芳野、熊切圭介、桑原史成、笹本恒子、沢田教一、田沼武能、英伸三、樋口健二、広河隆一、細江英公、本橋成一(50音順)が撮った希少な写真と彼らの証言で振り返る戦後史である。
第1章/原爆投下と敗戦、第2章/激動の時代、第3章/高度経済成長の光と影、第4章/公害、第5章/ベトナム戦争、第6章/虐殺と紛争の現場、第7章/沖縄、韓国、中国、第8章/巨匠、鬼才の肖像、第9章/原発推進とフクシマの悲劇という構成。
 被爆者や戦災孤児など敗戦直後の日本から、ベトナム戦争やカンボジアの大虐殺など海外の事案、さらに5年前の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故まで、約70年にわたる歴史的な出来事を131枚の写真とともにたどる。新書でありながら写真集としても充実した内容の一冊となっている。

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