PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

ちくま文庫『現代マンガ選集』刊行開始記念対談

「マンガ」の広さと深さを再発見せよ!

5月から、創業80周年記念企画のひとつとして「現代マンガ選集」がスタートしました! 「本物」だけを選りすぐり、時代を映すマンガの魂に迫ります。刊行開始を記念し、総監修の中条省平さんと編者のひとりである夏目房之介さんに、現代マンガの魅力を語っていただきました。

中条 今回の『現代マンガ選集』の、僕の中での出発点は、二〇一八年に四方田犬彦さんと共編で出版した『1968 漫画』(筑摩選書)というアンソロジーにあります。そのときに、一九六八~七二年に発表されたマンガを並べてみたら、途方もないエネルギーの塊のように見えた。ページを開いたときに、マグマみたいなものが吹き出ているような印象をもったんですね。これはやっぱりただごとじゃないし、あの時代の日本マンガのパワーはすごい、ある種の時代の力を感じたのです。こうした経験があったので、「あの時代を源流とする日本マンガの流れを描けるのではないか」と考え、それを体現したマンガ家と、そのスピリッツを受け継いだマンガ家たちで、アンソロジーが編めないかと考えたのが始まりなんですね。
『現代マンガ選集』は八巻から構成され、各巻ごとにそれぞれテーマがあります。格闘技やスポーツの「肉体」に中心を置く巻、性や犯罪のような「悪」にふれるもの、それとは逆に、日常的な何でもないものを描写した作品を集めたもの、などです。他方、一つのジャンルにまとめた巻もあります。ギャグ、少女マンガ、SF、恐怖マンガを中心として編んだ巻です。それから、一九六八年的なスピリッツを体現する革新的な表現技法を切り拓いた作品も一冊にまとめました。
 ここでは夏目先生の巻と、僕の巻を中心にお話をしたいと思います。夏目先生に『俠気と肉体の時代』の巻の編集をお願いしました。
夏目 ご依頼をいただいてから、作品の選択には大変に悩みました。
中条 夏目先生の採録リストを拝見すると、一九六八年的なマンガの前段階として、白土三平の『ざしきわらし』(一九六三年)と平田弘史の『太刀持右馬之介』(一九六三年)の二作品を採られています。これは本当にすばらしいと思います。おそらく日本の少年マンガは、手塚治虫が基本的なものを作り上げたことは間違いないと思いますが、しかしその制度性をいちばん最初に崩したのは、少年マンガ自身ではない。劇画とか、貸本とか、ある意味では世間の目からは下卑たものと思われている文化の一種、できればなかったことにしておきたいような文化、そこから輩出した白土三平や平田弘史が突破口を開けて、それが少しずつ少年マンガに影響を与えてきた。
 おそらく少年マンガが独自に自分の肉体を発見したのではなく、大人の肉体を描く、そういう貸本や劇画の流れの中で、「あ、俺の肉体も解放していいんだ」みたいな感覚を得て、それでどんどん進んでいったような気がします。
夏目 多分そうだと思いますね。白土三平『ざしきわらし』は『忍者武芸帳』(一九五九―六二年)と『カムイ伝』(一九六四―七一年)の間に描かれています。僕は実は『ざしきわらし』を含む「忍法秘話」シリーズが白土ではいちばん好きなんです。白土三平の線がものすごく生き生きとしているから。
 当時を振り返って本当にびっくりするのは、いろいろなことが同時に起きていたことです。わずか一年の間にいろんなことが変わっていて、それは、むしろ中条さんの担当された実験的なマンガでは特に顕著だと思いますね。六七~六九年には異常なぐらい集中しています。日本の戦後マンガに関しては、この三年、もうちょっと期間を長くとると六〇年代~七〇年代に、圧倒的に核融合みたいなことが起きている。そんな印象がありますね。

石ノ森章太郎と岡田史子

中条 私が担当する『表現の冒険』は、技法的な側面に注目しています。ただ、当然のことながら、技法と思想、形式と手段が分けられるはずはないので、技法的なものに着目して、アバンギャルドで熱い作品を集めると、自然と中身も熱いものになっていく。その結果が、私が集めた作品群です。
 年代順に構成してみました。まずは石ノ森章太郎と岡田史子、つまり『COM』ですよね。『ガロ』と『COM』から、選集を始める起点を考えました。その中で、石ノ森章太郎は、さっき夏目先生が挙げられた貸本とか劇画という少年マンガとは異なる世界から来た力に押されるのではなく、王道としての少年マンガの内部から、まず最初に表現上の実験をやってしまったという点で、やはり石ノ森章太郎は途方もないと思います。石ノ森はもともと少女マンガの出身ですよね?
夏目 初期には少女誌にも描いていますね。
中条 端的に言えば、貸本などのセックスやバイオレンスとは無縁のところで、マンガ的な表現を磨き上げた石ノ森が、そういうのと無縁に『ジュン』(一九六七―七一年)という傑作を描いた。しかもすごいのは、「マンガ家マンガ」であり、マンガの自意識みたいなものが誕生するきわめて初期における高度な達成であることです。単にマンガ家が主人公であるっていうだけではなくて、なぜ俺はマンガを描くのかとか、なぜ俺はマンガ家になっているのかっていうような問いをも含んでいる。だからそういう意味で、マンガにおける「表現の冒険」を考えるならば、石ノ森章太郎という人を出発点に置きたいと思ったのです。
 岡田史子がどういう影響を受けたかについては、僕はつまびらかにはわからないんですが、ただいきなり『COM』に、一切のそれこそ「マンガの制度」みたいなものと断絶した数ページの作品を送りつけて、掲載された。しかも彼女は「花の二四年組」(七〇年代に少女マンガに革新をもたらした女性漫画家たち。萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子などが含まれる)ですよね、生年だけで分類するならば。
夏目 そうですね。
中条 同年代ですよね。岡田は「花の二四年組」よりもはるかに早く、要するに、制度を取っ払うことだけをやってくれた。そのおかげで、『COM』の読者だった後の「花の二四年組」が、岡田史子のやり方に勇気を与えられた、そういう感じがします。
 だから、石ノ森と岡田っていうのは、『COM』の時期的にも早い「表現の実験」の先達であると同時に、「花の二四年組」のような革命をも用意し、導火線に火をつけたマンガ家じゃないかっていう気がしています。それで、まずはこの二人を巻頭に構成を試みました。
夏目 石ノ森さんに関しては、われわれの世代の評価はどうしてもそうなるんですよ。何よりも様式の革新ですごく先進的なことをやっていて、このセンスがいいわけですよ。
中条 そうなんですよね。
夏目 手塚さんは嫉妬したと思うな。あきらかに石ノ森さんは本当に飛び抜けていて、形式面での実験を意図的に進められた人ですよね。ここで最も重要なのは、実験的でありながらも、娯楽であることを絶対はずさなかったことです。だから『ジュン』は、いささかちょっとセンチメンタルに過ぎるんですけど、それは『COM』という場所の問題だと思うんですよ。『COM』は、『ガロ』に対抗して手塚さんが作ったマンガ雑誌で、『COM』は「自由に描いていい」ということを知らしめた。最も大きな功績の一つが女性の登用です。それは『ガロ』にはほとんどなかった。特に、石ノ森さんは少女マンガへの影響力があった。あと比肩するマンガ家マンガといえば永島慎二。その三人がいたうえで、新人が自由勝手にやるという空間をわれわれに見せてくれた。これはのちに、同人誌のコミケにつながるんだと思います。岡田史子は、その中で飛び抜けて自由なものを描いた。
 あの時期の岡田史子をはじめとして、そのあと萩尾望都も『COM』に描くんです。彼らに触発されて、のちに日本のマンガ言説が「少女マンガ」を発見する。それを読んで影響を受けたのが、第一次オタク世代で、そのあとの戦後のマンガ観につながっていく。『COM』はそういう意味で大きな存在です。

つげ義春『ねじ式』の衝撃

中条 岡田史子の次に位置づけたのが、つげ義春、林静一、佐々木マキという『ガロ』系の作家です。この三人は、ともかく格好いい!
『ねじ式』(一九六八年)には大きな衝撃を受けました。いま考えてみると、ことごとく、古臭い日本の風景ばかり描いているのに、それがこんなにも神秘的で恐ろしくて、ある意味では美しかったり、懐かしかったり、気持ち悪い世界になり得る。ポップな衝撃あるいは何かを破壊していく衝撃とは違う、自らの日本人という限界をそのまま出しても、それが前衛的で幻想的な表現になりえることを『ねじ式』は示した。当時中学生だった私は子どもながらも、そのことにショックを受けました。
夏目 当時の僕は高校生でしたが、同じように感じました。ただ、今から考えてみれば、『ねじ式』の土俗性って近代的日本なんですよね。明らかに近代的な土俗を選んで彼は描いています。そこが水木しげるとの違いだと思います。つげさんは水木さんのところにいて影響を受けています。
 形式として考えるならば、文字と絵の関係がそれまでと異なってきたとは言えると思いますね。『ねじ式』以前は、あんなふうな組み合わせをしなかったんです。物語を作るためには、もっとマッチングしてないといけないじゃないですか。でも、必ずずれてくるんですよね。文字だけ読むのと絵だけ読むのとで、何か違う世界が展開するのがつげ作品の特徴で、それをああいう幻想的な絵でやったからよけいに際立ったのだと思います。しかし、今となっては、そんなに異化効果がない。
中条 むしろ、何か懐かしい感じのほうが強いですね。
夏目 だから今の若い人は、『ねじ式』のすごさが、よくわからないんだと思いますね。
中条 それはさっき夏目先生がおっしゃったことと通じていて、ああいう表現があまりにも広くいきわたり遍在的な力を発揮すると、何となくみんなが影響を受けて、そういう表現を咀嚼してしまうんですよね。
 映画が好きなのでそこから例をとると、同じことがゴダールの『勝手にしやがれ』(一九六〇年)にもいえます。『勝手にしやがれ』で世界の映画は完全に変わりました。蓮實重彥さんは、あの映画を観た瞬間に「もう映画は終わったと思ったんだ」とおっしゃっていますが、いまの若い人にしてみれば、「ありがちなチンピラの犯罪映画じゃないですか」「この映画のどこがすごいのか、先生、説明してください」と尋ねにくるんですよね。
夏目 全く同じだと思いますね、それ。
中条 僕は何十回と観ていますが、毎回見直すたびに面白いし、新鮮。だから、『勝手にしやがれ』は単なる偶像破壊を行なったことによって歴史に残った作品ではなく、映画そのものがすでに別の次元の完成度を帯びていたからだと思うんです。
 たぶん、『ねじ式』にもそれが言える。だから今読むことは、偶像破壊的な効果を持ってはいなくても、それを超えた次元の、ある種の奇妙な完成度の高さ、ほかのマンガには絶対ない何かを実現している。この点で、実験的なものが時間の経過によってしばしば色あせてしまうのに対して、『ねじ式』は古典的な完成度もあわせもつ。若い読者は、この点から最初に『ねじ式』を面白がってもらって、そのつぎに絵の上手さを味わい、最後に作品に描かれていることが、もしかしたら自分の奥底にもある日本人の無意識みたいなものにふれているから、じわじわと恐ろしい気持ちがしてくることに気づく──。こういうふうに、読み方が徐々に変化するならば編者冥利に尽きます。
夏目 これはマンガに限った話ではありませんが、いわゆる「実験的な作家」はしばしば痩せた感じがする場合があるんですよね。理念が先行していて。現代芸術なんか、結構、僕はそんな感じを受けます。でも、つげさんはそうじゃない。つげさんはもっと豊かです。無意識がすごく大きいんです。だから時代を超えるんだと思います。
中条 コンセプトじゃないんですよね。
夏目 そこは大きな違いだと思う。違う言い方をすれば、反復に耐えるというか。もちろん、今のすべての読者が納得する作品ではないと思います。ただ、当時だってそうだった。
中条 一九六八年的なものは解放を目指しましたが、そのすべてが成功したわけではありません。むしろ、世界的に見れば一九六八年の学生運動はことごとく挫折しました。ただ幸いなことに、文化において、破壊を目指すような動きは作品として残った。それが何十年か後に、新たな読者を感動させることもできる。そうした作品においては、自らの肉体の崩壊、あるいは、その死さえも引き換えにする覚悟で描かれていて、表現の質としても主題的にも、きわめて高度です。今回の選集では、こうした作品を、いろいろなジャンルの中で、各選者が自分なりの見方で、どんどん発掘してくださる。この選集を読んだ方は、日本のマンガが一九六八年以降にものすごい力で爆発していったという歴史的な事実と、日本マンガの広がりと深みを、本当に今ここの出来事として体験できるはずです。僕自身も、これを読んで、八回のマンガの新たな生として体験したい、そういう気持ちになっています。自分自身がいちばん読みたかったものになるという気がしています。


※二〇二〇年一月一五日、学習院大学中条研究室にて収録。

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