世の中ラボ

【第122回】コロナ禍でわかった医療費削減のツケ

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2020年6月号より転載。

 この欄で新型コロナウイルスに関連して感染症本を取り上げたのは2か月前。そのときの数字(3月9日現在)では、世界の感染者は10万9032人、死者は3792人。日本国内の感染者は1207人、死者は16人だった。それが現在どうなったか。
 NHKの特設サイトによると、5月8日現在、世界の感染者は384万5718人、死者は26万9567人。国内の感染者はクルーズ船を除いて1万55755人、死者は590人、重症者が300人である。ちなみに感染者・死者ともに世界一のアメリカでは、感染者125万7023人、死者は7万5662人。国内で最悪の東京都では感染者数4810人、死者は171人に達した。
 国内の1日当たりの感染者数に注目すると、3月25日(感染者96人)頃から急増し、4月11日(同719人)にピークを迎え、緊急事態宣言が全国に拡大された4月16日(同573人)頃からは漸減傾向にあるように見える。とはいえ、PCR検査の総数が圧倒的に少ない中で発表された数字ではあり、とうてい楽観できるはずもない。事実、当初5月6日までの予定だった政府の緊急事態宣言は5月末まで延長された。
 さて、事態がめまぐるしく動いた二か月間で、あちこちから聞こえてきたのが「医療崩壊」という言葉である。「ニューズウィーク日本版」4月28日号の特集は「日本に迫る医療崩壊」、「週刊東洋経済」5月2日・9日合併号の特集は「コロナ医療崩壊」だ。いったい医療崩壊とはいかなる事態を指すのだろうか。

コロナ禍以前から医師不足
 コロナ禍に起因する「医療崩壊」は当初、死者数の多いイタリア(5月8日現在の死者約3万人)、スペイン(同約2万6千人)、イギリス(同約3万人)の例として紹介された。主な要因は医療費の抑制による病床削減、看護師不足などである。逆に感染者数の多さにもかかわらず、致死率が低くおさえられ医療崩壊を起こさなかったドイツ(感染者約17万人・死者約7千人)は、病床やICU(集中治療室)に余裕があり、また1月から対策に乗り出して、医療機関に十分な補助を出していたといわれる。
 では日本はどうなのか。ヨーロッパに比べたら、見かけ上、感染者数も死者数も抑えられてはおり、医療崩壊には至っていないように見える。だが、感染を防ぐ防護服や医療用マスクなどの資材不足、ICUや人工呼吸器などの設備不足、そしてスタッフ不足は報道されている通り。現場からは悲鳴のような声も上がっている。
 都内の感染症指定医療機関の病床数はもともと118床しかなく、コロナ患者の受け入れ先となる急性期・高度急性期の病床の稼働率も八割を超えていた。重症患者の最後の砦であるICU病床も逼迫していて、集団感染が起きた北海道では北見から180キロ離れた旭川の病院まで搬送された例もあった(「東洋経済」)。
 いったい日本の医療はどうなっているのだろうか。
 日本の「医療崩壊」に関連した本が目立つのは2007〜08年である。社会保障費を切り捨ててきた結果、診療休止や病院閉鎖が相次ぎ、産婦人科や小児科の減少が社会問題化。当時の添要一厚労大臣が改善に乗り出したのがこの頃で、09年には、医療制度改革を目玉のひとつに発足した民主党政権は3年で倒れ、現在も根本的な解決には至っていない。
 本田宏『「医療崩壊」のウソとホント』はやや古めの本だが、日本の医療の問題点がコンパクトにわかる点で便利である。
 本田医師によると、「現場で感じる医療崩壊」の第一段階は、たらい回しや医療事故など〈患者さんが診療を受ける際に種々の不都合な事態が起こってくる状態〉。第二段階は〈医師不足や赤字などが原因で病院や診療科が閉鎖され、患者さんが住んでいる地域で医療そのものを受けられなくなる状態〉。第三段階は、後期高齢者医療制度や混合診療で患者の自己負担額が増え〈世界に誇ってきた国民皆保険制度自体の崩壊〉に直面する状態。
 実際、日本の医療はすでに第二段階にさしかかっていると別の本(『本当の医療崩壊はこれからやってくる!』洋泉社、2015年)で本田医師はいう。特に深刻なのは医師不足だ。
〈人口一〇〇〇人あたりの医師数は、二〇〇八年のOECD加盟国の平均三・一人に対して、日本は二・一人となっています。これは三〇カ国のなかでビリから四番目の数値です〉(『「医療崩壊」のウソとホント』)。その後、事態は少しずつ改善に向かってはいるものの、2018年の人口1000人あたり医師数は2.4人。医師数が国内で最多の徳島県でも3.3人で、OECDの平均(3.5人)を下回り、最少の埼玉県など半分の1.7人だ。
 医師不足への道はそもそも80年代からはじまっている。82年の第二次臨調(土光臨調)と、それを受けた「将来、日本は医師が余る」とする「医療費亡国論」(当時の厚生省保険局長・吉村仁の論文)をキッカケに、87年から2006年まで、20年にわたって日本は医学部の定員を抑え続けてきた。
 医師不足による入院診療の閉鎖は首都圏各地で起き、2008年に千葉県銚子市の銚子市立総合病院の閉鎖(10年に銚子市立病院として再開)は大きな衝撃を与えた。〈病院崩壊の例は氷山の一角に過ぎません。首都圏は、山手線の内部など一部を除き、どこも似たような状況です。このままでは、東京のベッドタウンに広大な「無医村地区」ができてしまいます〉と上昌広『病院は東京から破綻する』は指摘する。
 ことに深刻なのは東京以外の首都圏だ。埼玉県と千葉県は人口当たりの医師が特に少ない地域で「救急患者のたらい回し」は避けられない状況だ。東京都内の病院も偏在しており、都立病院や私大病院が集中する都心を除く東部(江戸川区や足立区など)や西部(多摩地区など)は病院も医師数も少ない。
 医師不足は当然ながら、医師の過重労働につながる。残業時間が過労死認定基準の月80時間を超える医師が全体の40%を占めるというデータもあり、〈残念ながら日本の医療現場では、過労死または過労自死する寸前の、ギリギリの状況に追い詰められている医師がたくさん放置されています〉(『「医療崩壊」のウソとホント』)。さらにはここに「医師の高齢化」という問題が加わる。高度成長期に次々と新設された医学部の一期生も60歳を迎え、「当直をこなせるバリバリの勤務医」から引退しつつある。それでも彼らは働き続けるが〈高齢医師が高齢者を診察する「老老医療」の世界が、日本の日常風景になる日は遠くありません〉(『病院は東京から破綻する』)。
 それでもなんとか日本の医療が持ちこたえているのは、医師個人個人の精神力と過労死レベルの労働の賜としかいいようがない。

死ねといっているのも同然
 以上のような現状を考えれば、今度の新型コロナウイルス禍が医療の現場をどれほど圧迫する事態だったか想像に難くない。
 日本の医療崩壊は、もともとは高齢化社会の進行とセットで語られてきた。この種の本でよく出てくるのが「2025年問題」だ。団塊世代が75歳(後期高齢者年齢)を迎える2025年に日本の救急医療は決定的な危機に瀕するというのである。
 笹井恵里子『救急車が来なくなる日』もそうした観点から書かれた本で、救命救急センターがすでに70代、80代の高齢者でいっぱいの現状を紹介している。消防庁の調べによると、搬送者に占める高齢者の割合は、1997年は約34%、2007年は約46%、それが17年には約59%にまで増加した。
〈救命救急センターが高齢者でいっぱいになると、何が起きるのだろうか。/「それはもう、高齢者治療に追われ、若い人の突然の病気に対応できないんですよ。先日も四十代男性の会社員が心筋梗塞を疑われるような症状でしたが、高齢者で救急のベッドが埋まっていたので断りました」〉。〈「当院だけではありません。どの病院も救急搬送は増えています。救急現場は、受けても受けても、どんどん球が投げ込まれてくるような状況です。だから、球によっては受けることができなくなっている」〉。
 まるでコロナ感染者の対応で追われる現在の話みたい。
 一九年から順次はじまった「働き方改革」でも医師は例外扱いで、通常の病院勤務医の労働時間の上限は、一般労働者の過労死レベルと同じ年960時間。救急などの地域医療を担う病院の勤務医にいたっては、2035年までの特例で、上限がその倍に当たる年1860時間。死ぬまで働けってことですよね。医療体制の不備は当然患者にも跳ね返るわけだから、救急搬送が間に合わなかった患者にも死ねってことだ。
 このたびのコロナ禍は、はからずも日本の医療態勢がどれほどギリギリであったかをあぶり出すことになった。
 日本の医療の問題として、もうひとつ気になるのは自然災害だ。上医師は、東日本大震災や熊本地震の際の経験として、災害時は保育園が閉鎖されるため、医療スタッフ、特に女性が九割を占める看護師に影響が行き、ただでさえ手薄な現場に大きく響いたことを指摘している。〈首都圏の災害対策は早急に見直す必要があります。医師と看護師の数を増やし、災害時にも女性が働き続けることができる体制整備が必要です〉(『病院は東京から破綻する』)という提言は、喫緊の課題だろう。
 八〇年代の「医療費亡国論」に加え、小泉政権の「聖域なき構造改革」で一兆円以上がカットされるなど、さらに進んだ医療費削減。そのツケが、いま回ってきたのだと実感せざるを得ない。

【この記事で紹介された本】

『「医療崩壊」のウソとホント――国民が知らされていない現場の真実』
本田宏、PHP研究所、2009年、1200円+税

著者は1954年生まれ。弘前大学医学部卒。東京女子医科大学腎臓病総合医療センター外科、埼玉県済生会栗橋病院外科部長、同副院長などを経て、15年に外科医を引退。政権交代による医療制度改革に期待するも、民主党政権の崩壊でそれも幻に終わる。医師不足をはじめとする医療崩壊の問題に一貫して警鐘を鳴らし続けており、本書では一般読者向けに医師不足の現状を解説。

『病院は東京から破綻する――医師が「ゼロ」になる日』
上昌広、朝日新聞出版、2017年、1500円+税

著者は1968年生まれ。東京大学医学部卒。虎の門病院、国立がんセンターで造血器悪性腫瘍の臨床と研究に従事。2016年よりNPO法人・医療ガバナンス研究所理事長。新型コロナウイルス感染症の発症初期から、日本の対応の遅さと不備を指摘し、PCR検査の必要性を訴えている。本書では西高東低の医療制度(医師も看護師も西日本に比べて東日本が手薄)を中心に論じる。

『救急車が来なくなる日――医療崩壊と再生への道』
笹井恵里子、NHK出版新書、2019年、800円+税

著者は1978年生まれのジャーナリスト。日本医学ジャーナリスト協会会員。「サンデー毎日」編集部記者を経て2018年よりフリーランス。本書では、年々遅くなる救急車の到着時間や「たらい回し」問題を起点に、日本の救急医療が抱える問題点を指摘。都心の大病院から離島の診療所まで、現場で働く医師らの証言をもとに、超高齢社会で救急医療が再生する道を探る。

PR誌ちくま2020年6月号

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