宿題の認知科学

「ご想像にお任せします」←よい子のみんなにわかるかな?

「語用論」って、なんだ(1)

好評連載の第2回です。今回は「語用論」をテーマに、人間の会話がなぜ成立するのか、子どもの間違いから探っていきます。

事例1
「筆者の説明のしかたで、「いいな」「分かりやすいな」と思ったところはありましたか。」
「ありました。」


 さあこれ、マル? バツ?

 マルをあげる根拠としては、この質問はあくまで「ありましたか?」と訊いている以上「はい(ありました)」か「いいえ(ありませんでした)」で答えればいいから。そのとおりです。でもこれではマルはもらえなさそう……って、見た人はおそらく思っているでしょう。

 「この答えじゃダメ」と判断する理由があるとすれば、これは出題者の知りたいことに答えていないからです。ここでは「いいな」「分かりやすいな」と思った箇所を挙げなさいって言われてんのに決まってるでしょ?って言いたくなりますね。

 だけど設問には「あったらそれを挙げなさい」とは一切書かれてないですよね。言葉にされていないのに、どうして出題者の意図が伝わると我々は期待できるのでしょう。

 この手の話題でよく引き合いにだされるのが京都人の「ぶぶ漬けでもあがっていかはりますか」(そろそろ帰ってくれ、の意味とされる)だったり「考えときます」(却下の意)です。カドが立ちそうな直接表現をせずとも、その意図するところが伝わる、いわば言葉の知恵ですね(いい言い方をすれば、ですが)。

 このように、言語表現どおりの意味だけでなく、それを使う話し手・聞き手との関係や文脈、その場の状況などの情報から総合的に「意図されている意味」を割り出すのは、言語学でいう「語用論」の範疇です。人間の会話において、話し手と聞き手の間には、つねに一定の了解事項があり、聞き手と話し手がそれを共有していることにより、必ずしも言葉どおりに表現されていない内容のやりとりが可能なのです。その了解事項が語用論的知識というわけです。

 語用論入門で必ず言及される哲学者・言語学者であるポール・グライスの「会話の公理」にその「了解事項」がまとめられています。と、初めてこれを見る人にはよく誤解されるのですが、これは「よりよいスピーチをするためのアドバイス」的なものではありません。そうではなく、「人間の会話にはこのような共通理解があるのだ」ということを、言語学的な観点から見いだしてきれいにまとめたものだと考えてください。

 逆に言えば、ここに挙げたような公理、つまり「了解事項」に反した表現がされた場合、それは言葉どおりの意味でないサインとして機能するというわけです。

<会話の公理>
・量(Quantity)の公理:求められているだけの情報を持つ発話をせよ。求められている以上に情報を持つ発話をするな。
・質(Quality)の公理:偽であると信じていることを言うな。十分な証拠を欠いていることを言うな。
・関係(Relation)の公理:関連性を持て。
・様態(Manner)の公理:曖昧な表現を避けよ。多義的になることを避けよ。簡潔たれ。順序立てよ。

 これらの「了解事項」に一見反した表現は、むしろ多くのことを伝えることができます。そう、実際に表現されていないことまで。以下に、上のそれぞれの「公理」の例をあげてみましょう。

 お見合い相手の男性について尋ねられた女性が、異性としての魅力には関連のない褒め言葉ばかり並べたら、一言もけなさずとも脈がないとわかります。質問の趣旨は、異性として興味があるかどうかに決まっているのにあえて「関係の公理」に違反してみせることにより、聞き手が言葉以上の情報を勝手に見いだしてくれるというわけです。

 語用論は一方的に話し手にとって便利な面ばかりではないので取り扱いにはご注意を。「なにしてたの?」と訊かれて、やたら長い説明を繰り出すことによってウソがばれちゃうのも、「量の公理」に違反したせいで、聞き手にそれ以上の情報を読みとられてしまうから。

 政治家のいう「記憶にございません」に日本中がツッコむことができるのは、「質の公理」を共有できているからでしょう(常識的に、覚えていないなんてオカシイという状況だから、ですが)。同様に、何か立ち入った質問をされた答えとしての「ご想像にお任せします」が、「はい、ボクはクロです」のサインとして機能するのは「様態の公理」のおかげかと。

 ですが、こうした複雑な推論を子供が身につけるのは、語彙や文法の知識を得てまずはひととおりの「言葉どおりの解釈」ができるようになってから、そのだいぶ先のこと。だいたい6~7歳くらいだと言われていますがこのあたりは大きな個人差があり、大人になっても苦手なままの人もいますね。

 私なんかは、「広瀬さんのご提案については慎重に検討することになりました」くらいの表現じゃ自分の提案が却下されてるとは理解できず、「ありがとうございます! で、いつ慎重に検討はじめてくれるんですか」的な返しをしてしまって相手を戸惑わせたこともあります。

 さて冒頭の国語の問題に戻りますが、「筆者の説明のしかたで、「いいな」「分かりやすいな」と思ったところはありましたか。」という表現は、あくまで言葉どおりに解釈すれば「はい、いいえ疑問文」だったわけです。なのに、なぜそれ以上の情報を求めるものとして解答者にちゃんと伝わるのか、という問いも、「言葉どおりの意味」と「語用論的な意味」が異なるというところに答えを見つけられるわけです。ある程度人生経験を積めば。
 
 まず、「そもそもなんでこんなこと訊かれるのか。これって、文章の内容や表現技術をどれだけ理解しているかが問われているということだな」ということに(小3にもなって)いいかげん気づける子は、「そのために「はい」か「いいえ」だけ訊いても仕方ない、それだけ訊いてるわけがない」と推論することになります。大人からすると当たり前だろとしか思えないことでも、それは一定の経験と語用論的知識を必要とすることなのです。
 
 さらにいえば、解答欄の大きさも立派に「その場の状況」から得られる情報ともいえます。解答欄の大きさが、量の公理でいう「求められているだけの情報」を見積もるのに参考になるという知見も、ある程度人生経験(テスト、受験経験)によって培われる部分が大きいでしょう。

 解答欄に書かれた「ありました」という解答は、あくまで設問の言葉どおりの意味に忠実な答えなのか、はたまたそれを逆手にとった「説明するの面倒だからこれでも文句ないはずだろ(語用論的な答えはわかっているけど、字義どおりの答えでも間違いとは言えないところまで読んでいる)」なのか。 このあたりの年齢は、同じ集団のなかでも、語用論的意味が「読めてない」「読めてる」「読み過ぎ」といろんなパターンが混在して、きっと先生を悩ませていることでしょう(うちの子の場合は間違いなく「読めてない」でしょうが)。

 そして、「ありました」だけじゃなくて、それはどういうことか書いて説明してね、とか教えられるうちに、子供たちは徐々に「語用論的な意味」の理解を学んでいくのでしょう。が、それにしても気になるのは、「ありませんでした」の場合どうなるんだろう……。

 次回も、語用論の話が続きます。テーマは、「正三角形は二等辺三角形か」です。