人生につける薬

第7回
人間は世界を手持ちのストーリーで説明したい

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

人は物語の収支決算が合うようにしたいもの

『生ける屍の結末』という本の構成

 前回紹介した「黒子のバスケ」連続脅迫事件の犯人・渡邊博史(ひろふみ)は、自分で自分の事件の成り行きを冒頭陳述でいったん説明しました。その内容は、まるで、世間の人々が興味本位で、

「きっとこういう動機であったに違いない」

「こんな事件を起こす奴はこういうやつに違いない」

とネットであれこれ取り沙汰するような事情説明と、まったく同じようなものでした。

 それが、数か月後の最終陳述においては、説明が大きく変わってしまっています。かつての自分がした説明を否定すると同時に、ウェブ上に存在するさまざまな人たちの勝手な推測をも否定してしまっています。

 渡渡邊博史被告の著書『生ける屍の結末』という本の第1章は、犯行の手順を時間順に説明し、最後に自分が逮捕されるところで終わっています。

 そして第2章では、冒頭陳述と最終陳述、そしてインタヴューなどから構成され、著者自身が自分の行動の動機を分析しています。冒頭陳述のあとに差し入れられた高橋和巳医師の著書を読み、自分が高橋医師の言う「異邦人」に相当することを知った経緯も、この第2章に書いてあります。

 

〈異邦人〉と世界観

 著書『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』(筑摩書房)で高橋医師は、幼児期の虐待を経て成長した人を〈異邦人〉と呼んでいました。被虐待者は幼少期に独特の世界観を形成し、その世界観がそのまま変更されず、当事者たちをとらえつづけているせいで、彼らは生きづらさを抱えているのです。なお、「世界観」というものは、僕のこの連載で言う「一般論」「格言」と密接に関係があります。

 被虐鬱を抱えた渡邊被告は、まさに高橋医師が言う〈異邦人〉に属するわけです。

 そして著者は第2部の後半になって、世間の人々の推測する自分の犯行動機を否定し、世間に対して反論しています。

 『生ける屍の結末』という本のこういった構成を見て、僕はあの小説を思い出しました。

 〈きょう、ママンが死んだ〉という冒頭の一文で知られるカミュのロングセラー小説『異邦人』(1942年、窪田啓作訳、新潮文庫)です。高橋氏ではなくカミュの『異邦人』です。奇しくも渡邊被告も第2章で、母(いわゆる「毒母」)との関係について明言しています。

 『異邦人』という小説は2部構成になっていて、第1部では主人公ムルソーが海辺で人を射殺してしまうまでを記述しています。そして第2部では、この不条理な殺人に対して世間があれこれ主人公の動機を推測し、いっぽう逮捕された主人公は、その世間の推測に対して反論しているのです。『生ける屍の結末』にそっくり、いや『生ける屍の結末』が『異邦人』にそっくりなのです。

 

僕たちは事件の成り行きを「知りたい」のか? 「決めつけたい」のか?

 ムルソーの殺人に対しても、また渡邊被告の脅迫事件に対しても、世間は

「きっとこういう動機であったに違いない」

「こんな事件を起こす奴はこういうやつに違いない」

と、動機を勝手に決めつけてしまいます。

 僕はこの連載の以前の回で、

「人はできごとの理由を知りたい」

と書きましたが、こういうものを見ていると、むしろ

「人はできごとの理由を自分の知っているパターンに無理やり落としこみたい」

と書いたほうが正確だったのかもしれません。

 つまり、浜辺での殺人にせよ、『黒子のバスケ』にたいする連続脅迫事件にせよ、そういう非日常なできごとを前にした人は、そのできごとを自分の知っているパターンで説明したくなってしまうのです。

 ほんとうのことを知りたいというよりも、未知のできごと(「異(い)」なるもの)をすでに知っているパターンの形に押しこめて消化(同化)してしまいたい、そういう感情です。

 つまりこれが、強引にストーリー化してしまう、ということなのです。

 

可視化される「ストーリー依存症」

 カミュの『異邦人』で、殺人犯ムルソーは、世間の安易な物語化にたいして強く抵抗し、反論します。そして、

「自分が浜辺で人を射殺したのは、太陽が眩しかったからだ」

という内容の発言をします。

 常識で考えれば、これは人を射殺する理由としてまったくふさわしくありません。理由として非常識であるという次元ですらなく、これでは殺人とまったく関係ないように思えるからです。

 この「太陽のせい」という発言をどう解釈するか、ということに、僕はあまり興味がありません。

 むしろこの発言が、ムルソーの刑事裁判の経過に興味のある作中の「世間の人たち」にたいしてだけでなく、僕たちカミュの小説の読者にたいしても、どういう効果を与えるか、ということのほうに、むしろ強い興味を抱きます。

 つまり、「太陽のせいで人を殺した」という発言は、じっさいに起こった射殺事件を、社会に通用しがちな物語の形(ここでは近代的な刑法で解釈可能な形)に落としこむことにたいして強く抵抗する、ということなのです。

 人は世界を理解しようとするときに、ストーリー形式に依存してしまう。そして法に代表される社会制度もまた、その形式を採用せざるをえない。こういった人間学的傾向を人はふだんほとんど自覚しません。

 『異邦人』第2部で主人公は、その傾向に抵抗します。その抵抗にたいして、作中の「善良な市民」たちは反感と苛立ちをあらわにします。このとき、それまで自覚していなかった上記の人間学的な事実が可視化されてしまうのです。

 むしろ市民たちのムルソーへの反感は、日ごろ自覚していなかった自分の「ストーリー依存症」に気づかされそうになって、その事実、「自分たちが現実だと思っているものの多くは、自分たちが無自覚なまま構成させられてしまったストーリーである」という事実を慌てて否認する(見ないようにする)ことなのかもしれません。

 

ストーリーと感情のホメオスタシス

 ここで興味深い事実があります。

 『黒子のバスケ』連続脅迫事件の渡邊被告は、最終陳述ではムルソーのように、世間の安易なストーリー推測に抵抗を示しますが、その前の冒頭陳述の段階では、事件の当事者である彼自身でさえ、世間一般の見かたで自分の事件を語ってしまっているのです。冒頭陳述の段階では、被告の手持ちの説明パターンのなかに、幼年期の世界観が人を縛って認知を歪ませる可能性がある、というタイプの説明パターン(一般論)がなかったわけです。

 このように人間の行動というのは、ときには、行動した当人ですら、自分がすでに持っているストーリーのパターンで説明してしまいがちだということ。これはたいへん興味深い現象です。

 人は、自分の行動の動機を説明するのにも、ありもののストーリーを借りてしまうのです。

「自分のことは自分がちゃんとわかっている」

というのは、錯覚にすぎません(もちろん、被告の最終陳述が唯一の正解である、ということもまた証明不可能ですが)。

 人間にとって「できごと=事件」とは、大なり小なり、平常に対する非日常という意味を帯びます。その非日常を解消するためには、
・時間をさかのぼって、それが自分に理解できるような事情によって起こったということにしてしまいたい
のです。

 しかし人間が「できごと=事件」を心のなかで解消するためには、過去にさかのぼるだけではすみません。

 もうひとつ、今度は逆に、未来を予測して、その「できごと=事件」の意味づけをしなければなりません。具体的には、
事件によって失われてしまった平常を取り戻したい
・事件を起こした存在の責任を問い、その存在に報いをあたえたい
という感情が芽生えるのです。

 

 ストーリー的な解釈によって非常時を切り抜け、失われた平常を取り戻したいという感情。これを僕は、感情のホメオスタシスと考えています。

 人間は、ストーリーを途中まで聞いた段階で、最終的にそのできごとが解消し、そのストーリーの世界でふたたび平常が戻ってくることを、感情的に期待してしまいます。

 また、因果応報とか、勧善懲悪とかいった、ストーリーの道徳的なパターンも、ここから生まれるのです。

 こういった「物語の収支決算」が合うように設計されているコンテンツには、民話や童話、時代劇やハリウッドのアクション映画といった民衆的・大衆的コンテンツがあります。

 次回以降、こういった感情のホメオスタシスについて、もう少し考えてみましょう。

 

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