高橋 久美子

第24回
逃げるが父

絵本作品でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。近著に、絵本「あしたが きらいな うさぎ」(マイクロマガジン社)、「にんぎょのルーシー」(翻訳を担当・トゥーヴァージンズ)が刊行されたばかり。

 昨夜から雨が降ったり止んだり、ぐずついた天気だった。目の前には、仏頂面した女子大生が座っている。むっちりした上半身、白いTシャツでミッキーマウスがおどけている。
「ずっとここにいたいのか? もう一度聞くぞ。君は沢田川を応援していたから、選挙事務所に出入りしていた。それで、たまたま謝礼をもらってしまっただけなんだよな?」
「だから、何回も言ってるじゃん。誰があんなスケベジジイ応援するかっての。選挙事務所へはただのバイトで行ってたし。しかも最後のバイト代まだもらってないし。あれどうなるのかなあ。あー、まじでへこむわー。あいつ殺してやりてー」
 この口の聞き方、どうにかならないのか。うちの娘が十年後こんな喋り方するようになったらと思うと寒気がする。田口結菜のジーパンは破れている、というか布の面積の方が少ないし、もはや俺たちの知る茶髪ではない髪の毛の隙間から見えるピアスは、人体模型だった。こんなのが今若い子の間で流行っているとは思えない。田口は椅子の背もたれにふんぞり返ると舌打ちをした。三流大学で何やってんだか。親の顔が見てみたいよ。
 二週間大学生達を尾行して、選挙事務所に出入りするところも、自転車部隊として自転車を漕ぐ学生の姿もおさえてある。田口結菜は最近めっきり顔を見せなくなっていたが、選挙期間中にきっちりと時給制でバイトをしていたのだから違法は違法である。俺には取り締まる義務がある。
「昨夜の八時頃、四丁目のコンビニに行ったあと、向かいの吉野屋に立ち寄り、その後、何名かで深夜までカラオケに行っていたね? 最近ずっと我々、張り込んでいたから沢田川の事務所に出入りしている証拠も抑えてあるんですよ?」
 昨日、署まで事情聴取に来てもらうため田口にこう電話を入れたら、一言「気持ち悪い」と言われた。ただの女子大生のストーカーじゃないかと。わかっている、その通りだと思う。俺だってこんな悪趣味なことやりたい訳じゃない。でも、仕方ない。これも俺の仕事だ。落選した候補者のところへ捜査が入るというのはお決まりのやつじゃないか。
 他の子達はみんな警察署で事情聴取と言っただけで、シクシク泣き出したのに、田口結菜は一筋縄ではいかなさそうだ。たまにこういう正義感の強いのが紛れているものだが、まあ時間の問題だろう。五時のチャイムが鳴り背中に西日が燃えはじめた。さっさと終わらせて、サウナに行って汗をかきたい時刻だが、さて。
 小さな町の小さな市長選。三番手の沢田川は、最初から標的にされていたのだ。いや、詰めが甘いんだ、詰めが。選挙管理委員会に届け出た上で、学生バイトを雇ったまでは良かったがバイト時間を計ると、中には日当一万以上になっている子がいる。それに自転車部隊にも、しれっとボランティア以外が混じっていた。公職選挙法違反、いわゆる買収罪だ。素人でもあるまいしなんでそんな凡ミスやらかすんだか。沢田川が落選した瞬間に飛びつく俺たちも俺たちなんだろうけれど、仕方ないじゃないか。ショボい町のショボい事件で俺は飯を食っている。この先もずっとだ。
 暇を持て余して田口がポケットからボールペンを出してくるくると回しはじめた。俺も学生の頃から手癖でやっていたっけな。あれをやる奴は出世しないと上司に言われていつのまにか回さなくなった。ペンを眺めながら田口が言う。
「おまわりさんさあ、こんなことやってて虚しくないの? 大学生つかまえて一日取り調べしてさ。暇なの?」
 一応言ったことは書く義務があるが、しょうもない言葉は耳に蓋をするようにしている。世間知らずを正義と勘違いしているバカにつける薬はない。
「ねえ、一年前だったかな、女子高生の切りつけ事件あったじゃん、このすぐ近くで。あの犯人まだ捕まってないよね。あれどうなったんだよ? こんなことしてる場合じゃないんじゃないの?」
「うるさい! それとこれは関係ないだろ」
 カッとなって思いきり机を叩いてしまった。田口は軽蔑した目で俺を見てボールペンをポケットにしまうと、あくびをしている。
 丁度去年の今頃の時間帯だ。部活帰りの女子高生が通り魔に切りつけられたのは。防犯カメラには黒いパーカーのフードを被った男が映っていた。県警は捜査班を作って数ヶ月男を探したが、結局未だ手がかりをつかめていなかった。真冬だったので分厚いコートを着ていて大きな怪我がなかったのが不幸中の幸いだった。忘れてしまったわけではない。でも、忘れてないと言うと噓になる。娘だったらと考えると許せなかったが、次から次へと新しい事件は起こるし、こんなふうにノルマだってある。上に言ってくれ、上に。
「怪我もなかったし死にもしなかったもんね。だからいいって思ってるんだね?」
 言い当てられて、はっとして、田口の顔を睨みつけた。十歳の娘と同じような濁りのない目に俺はビビっているのだと思った。その黒も白も、一番純度の高い透明を保っている。大学生になってもまだこんな目をしているなんてこの先こいつの人生は立ち行かないんじゃないかと思うが。
「ところで、カツ丼は出ないの? お腹すいたんだけど」
 ふざけてやがる。

 翌日、田口結菜は上下ジャージ姿に、大きなボンボンのついたゴムで前髪をちょんまげにしてやってきた。できるだけ、リラックスするためだそうだ。
 友達に楽で稼げると誘われて選挙事務所でバイトをし始めたこと。やってくるロクでもなさそうなおっさんにお茶を出して、相槌を打っているだけだったのに今までチャレンジした何よりも拷問だったこと。時給二千円と聞いて行ってみればたったの千円だったこと。かわいくて従順な子にだけ特別手当を渡していたことに腹を立てて、最後の方は殆ど行かなくなったこと。沢田川の家のカーテンが一枚二百万するということ。娘を裏口入学させたことを自慢気に喋るから説教してやったら、その辺りからパワハラ、セクハラまがいのことを何度もされ、訴えてやりたいことなど、喋りに喋った。こいつは友達とお茶でもしていると思っているのか。俺は、娘の愚痴を聞いて相槌を打つだけの父親のようだった。聞けば聞くほど、沢田川はクズだった。まあ、驚きもしないが。
「それでね、バイトしてたみんなと選挙当日、絶対に沢田川にだけは投票しないようにしようねって約束したんだ。私達あの男の前ではニコニコしながら、全員他の人に入れたんだよ。うけるでしょ。他の人がまともかどうかは知らないけど、あいつよりはましだと思うよ。だからあいつが落ちて本当に良かったって思ってる」
 田口は、やっぱり沢田川を応援したことなど一度もないと主張した。この子はきっと、まだ世の中の何もわかっちゃいない。正義が必ず通るとでも思っているのか。
「君の将来が傷つくのが可哀相だと思うから、最後のヒントを出してやる。いいか、よく今の状況を考えろ。沢田川の応援なんてしていない、お金のためにやったと言い続けていると、君はずっとここから出られないんだ。さっきから何回も言っているけど、選挙期間中にお金をもらって支援するのは、犯罪なんだよ。このままじゃ私は君を書類送検しなくてはいけなくなる。もしくは法廷まで持ち込んで闘うか? 勝てる確率なんて殆どないけどなぁ……」
 俺は、手元の書類をちらつかせ、大げさに話を盛って語った。
「ちょっと、それおかしいでしょ? 悪いのは全部あいつじゃん。私達、被害者だよ。騙されたってことなんだからさ。あいつを応援してただなんて、それだけは口が裂けたって言えない」
 田口は身を乗り出して俺に訴えた。
「君も強情だなあ。一緒にバイトしてた子たちはとっとと認めて帰っていったぞ? 君が選挙事務所で酷い目にあったことはわかった。でもな、今回の論点はそこではない。噓でも支援者だったって言ってくれないと処理できないんだ。明日も明後日も、こんな窓もない部屋に来たくないだろう?」
「いいですよ。明日も明後日も来ます。分かってくれるまで話します。どうせ夏休みなんだから」
「あのね、書類送検されると大学も退学になるし、一生それが君の経歴についてまわることになるんだ。就職も、結婚だってまともにはいかなくなるかもしれない。君のその小さな正義を通したいがために一生を棒に振ってもいいのか? こんなところで前科者になるなんて、親御さんだって悲しむだろう?」
 田口は俺の顔をギッと睨みつけた。そして歯がゆそうに唇を噛み言葉を飲み込んだ。
 ――しばらくの沈黙の後、両手で頭を抱えるとうなだれ、声を絞り出し喋った。
「私……応援していました。沢田川さんが市長になればいいなって……思ってました。お金をもらおうなんてこれっぽっちも思ってなかったし、くれるっていうのも知らなかった。ただ、当選してほしかったから手伝っていただけなんです」
 心の通っていない棒読みの台詞を書き留める。そうそう、それでいい。こういう顔を今までに何百人も見てきた。痴漢や窃盗の冤罪も今日みたいに、流れる台詞を書き留めて、ただ俯いて処理してきた。三日もすれば、忘れ去ってまたいつもの日常に戻れる。それでいいんだ。人一人の正義なんて海に浮かぶ棒きれと同じなのだから、大きな流れの中で抗っても沈むだけだ。

「おまわりさんて、子どもいんの?」
 書類を書いていると、田口が頰杖をつきながら尋ねてきた。
「ああ、いるよ。小学生の女の子が一人ね」
「へえ。じゃあ、こうやってさ、淡々と積み上げていくのがいいよ」
「ん? なに?」
「いや、娘さんのためにはさ、格好悪くてもお父さんが傍にいてくれる方がやっぱいいもんね」
「なんだ? 格好悪いって、聞き捨てならないねえ」
 俺はムッとして、でも半分笑いながら言った。
「父さんがよく言ってたんだよね。正義が身を滅ぼすこともあるって。それでも突き通す覚悟があるときは行けばいい。だけど残りの九十九は逃げるが勝ちだってね。川は他にもいろんなところに流れているんだから、本流が決壊しても支流へ流れ着いてまた初めからやれたら、それは神様からの贈り物だって」
 俺は、書類を書く手をとめ、顔を上げた。この話、昔どこかで聞いたことがあるような気がするな。誰かに言われたような……頭の片隅で埋もれていた氷山にぶつかったみたいで、しばらく思い出そうと試みたが、時計の針を見て急いで書類を書き進めた。

 数日間のぐずついた天気を一蹴したように、外はすっかり晴天だった。
「もしもーし。せんぱーい? はい、めっちゃ暇してますよー。えー! バーベキューですか〜。いいっすねえ。そっこーで行きます。あ、何か買ってくもんとかありますー?」
 まったく学生ってのは気楽なもんだ。田口は携帯を耳にあてて喋りながら、子犬のように警察署の階段を駆け降りていった。いつも若者をここから見送る時、迷い込んだ稚魚を川に戻してやった気分になる。これで良かったのだと、きっとこの先の人生で何度も思うときが来るだろう。電話を切ると、階段を下りたところで田口はこちらを振り返り
「おまわりさん、じゃあね~。お世話になりましたー」
 と叫んだ。俺も手を挙げて小さく振り返した。おでこのところで、結んだ前髪が揺れている。その顔は、来た時よりも心なしか大人びて見えた。

 署へ戻って一服していると、後輩たちがざわついている。
「何かあったか?」
「いえね、田口結菜ってさっきの子ですけど。あの子、田口司さんの娘さんじゃないですか?」
「え……まさか。田口司って、あの田口さん?」
「はい。五年前の立てこもり事件で殉職された、田口警部です」
「いやいや、田口なんて全国にいくらでもいるだろ」
「でも、ほら」
 後輩が差し出した田口司警部の名簿の家族の欄には〈娘・結菜〉と書かれていた。
 あの口の悪い田口結菜は、俺たちが敬い続けてきた人の娘だったというのか。見てみたいと思った親の顔は思い出さずとも容易に浮かぶあの人だと。ああ、目尻の下がった感じとか、ぶっきらぼうな喋り方も、よくよく思い返すと田口さんそのものじゃないか。
 課は違ったが、田口さんを知らない者はいなかった。風来坊のように縦横無尽に課を渡り歩く異端児で、権威にとらわれず誰からも慕われる人だった。俺たち新人がへこんでいたら、そっと近寄ってきて、背中をバシバシ叩きながら笑って鼓舞してくれた。あの子が言ったのと同じように。
「逃げるが勝ちのときもある。正義に押しつぶされんなよ」
 そう言った本人は逃げなかったのだから。
 あの日、田口さんは最後まで犯人である青年を説得しようとしていた。あと一歩というところまできて、逃げ出そうとした人質に逆上した犯人が切りかかり、揉み合いになった末、刺されてしまったと聞いた。田口さんの死は自分の正義に押しつぶされたからではなく、守るべき信念の末の結果だったのだと思いたい。それが田口結菜の中にしっかりと受け継がれているのなら、その正義は充分に意味のあるものだったのだ。
 俺は今、何度目の支流を流れているだろう。どんどん狭くなっていく正義の川幅を、これから先、一度でも自分の意志で守ることができるのだろうか。窓の外、快晴の空には虹が架かって、それは田口結菜の大学の方まで繋がっている。俺はボールペンを回しながら、薄暗い廊下を歩いた。


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【編集部よりお知らせ】
高橋久美子「一生のお願い!」は、今回をもちまして連載を終了とさせていただきます。
2年間にわたりお読みいただいた読者の皆さまには感謝を申し上げます。

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