ちくま学芸文庫

驚くことから歴史学は始まる

村川堅太郎著『オリンピア 遺跡・祭典・競技』解説

オリンピック発祥の地オリンピア。そこで行われた競技祭とはいったいどのようなものだったのでしょうか。その実像に迫った名著『オリンピア』(村川堅太郎著)がこのほど小社にて文庫化されました。本書へは古代ギリシア史研究者の橋場弦氏(東京大学大学院教授)が、著者との思い出を交えた解説をお寄せくださっています。ご一読いただけたら幸いです。

 本書は、日本におけるギリシア・ローマ史研究の基礎を築いた村川堅太郎が、古代オリンピックについて一般向けに書き下ろした教養書である。1964年の東京オリンピック前年に上梓され、1988年までに版を重ねること14度、平明かつ自由闊達な筆致で書かれた名著として知られてきた。
 著者は1907年に東京帝国大学教授村川堅固の長男として東京に生まれ、1940年に東京帝国大学助教授、1947年に東京大学教授となった。1968年の停年退官まで東京大学で西洋古代史の研究と教育に献身し、多くの優れた弟子を育てた。1967年には日本学士院会員に選ばれ、1991年に没するまで、わが国における西洋史学・西洋古典学の発展に力をつくした。
 著者は、マルクス主義に依拠した戦後歴史学の主潮流とは一線を画しながら、マックス=ウェーバーの理論をギリシア・ローマの社会経済史研究に本格的に導入した。論文「デーミウールゴス」はドイツの学会誌Historia(1957年)にも掲載され、日本の西洋古代史研究の水準を世界的に認知させる嚆矢となった。また伝アリストテレス『アテナイ人の国制』をはじめ、多くの古典作品の翻訳・注解を残した。大正期リベラリズムを受けついだ著者の学問的関心の根幹は、日本や中国との比較において、自由で対等な市民であったギリシア・ローマ人の世界史的特質を解明することにあった。その業績のエッセンスは、『村川堅太郎古代史論集』全3巻(岩波書店)に収められている。
 その一方で、座談の名手であったという著者は、軽妙で巧まざるユーモアがにじんだエッセイや、本書のように読みやすく良質な教養書を、数多く世に送った。『地中海からの 手紙』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した著者の語りの魅力は、しかし、西洋古典に対する深い素養と、現実を見つめる鋭い批判精神とに裏打ちされていた。

 古代オリンピック(オリンピア祭)は、紀元前776年の第1回大会から、紀元後393年の第293回大会まで、1200年近くにわたってオリンピアの地で開催された、古代ギリシア世界最大の競技祭である。周知の通り、近代オリンピックは、クーベルタン男爵が古代オリンピックの復興を提唱して19世紀末から始めたものである。世界的な運動競技祭を4年に1度開催するというアイデアを、もしギリシア人が思いつかなかったら、 私たちは今日、オリンピックの楽しみに浸ることもできなかったわけである。
 近代との最大のちがいは、古代オリンピックが神々の父ゼウスに献ずる宗教的祭典だったことである。ギリシア人は宗教の本質を、神々と人間との贈与互酬関係ととらえていた。 神々が繁栄と幸福をもたらしてくれる返礼として、人間はさまざまな贈り物をする。オリンピックは、人間が神に捧げる最大級の贈り物であった。著者が本書で、牡牛百頭の供犠に多くの紙幅を割いたのも、オリンピックの本質が宗教儀礼であったからに他ならない。
  著者は、初めてオリンピアの遺跡を訪ねた思い出から語り始める。「オリンピアへの道は遠かった」という、短いが印象的な書き出しから、読者は古代の世界へといざなわれる。 第Ⅰ章は、手際よくオリンピア発掘史と遺跡のあらましを紹介する。著者はあくまで、極東からはるばる訪ねてきた一人の旅行者の視点から叙述するという姿勢を崩さない。読者は古代史の権威に教えを請うのではなく、あたかも自身物珍しそうに遺跡を見て回る著者のあとに従って歩いているかのように感じる。著者の親しみやすい語り口が、この嬉しい錯覚をもたらす。
 第Ⅱ章は、オリンピア祭がどのように始まったのかを、ミケーネ時代からポリスの成立 に至る歴史の中で、古典史料や考古学の成果を用いて実証的な推理で解き明かす。やせ細った議論に陥らず、逸話や伝説を豊富に織りこみながら語られる推理は、読者を飽きさせない。にもかかわらず、軽い語り口のように見えて、その実、膨大な研究史を消化しない と書けない内容である。つづく第Ⅲ章では、前8世紀に始まった古代オリンピックが、全盛期とされる前5世紀前半に至るまでどのように成長したかを、3つの時代区分にしたがって解説する。
 著者は、古代オリンピック史を描いているように見えながら、実はその背景にある古代ギリシア史そのものを叙述の射程にすえている。古代オリンピックは、ギリシア世界という全体のなかに、いわば埋め込まれている。著者の表現を借りれば、「古代のオリンピアは、……古典古代史の縮図なの」である(第Ⅰ章)。
 全裸での競技や動物供犠といったトピックも、オリーヴ栽培や牧畜を中心とした農業事情という社会経済史的な背景から解明される。著者は、競技祭の向こうにある社会と人間に焦点を合わせている。その意味で、本書はけっして大家が手すさびに書き流した古代オリンピック概説ではない。
 第Ⅳ章で競技についてひとわたり解説したあとで、著者は「要するに古代オリンピックは、ギリシア市民による、市民たちのための競技であった」と結論する。「体育は、そも そも国防の任務に耐えうる強健な市民をつくるためのものであり、市民皆兵が古典古代の 都市の根本の原理であった。……市民というものの理想は、ある程度の土地と奴隷と家畜 をもち、畑の見まわりはするが、午後はギムナシオン(体育場)でみずから競技したり、人の練習ぶりを見たり、来合わせた人と政治や学芸などの雑談をして過せるような生活にあった。」それこそが都市国家の「自由な市民」にふさわしい理想の人生であり、その市 民たちがたがいの技を競いあったのが古代オリンピックだった。本書の主題はここにある。
 したがって著者から見れば、ヘレニズム・ローマ時代に都市国家の原則が崩れ、ポリス の代表であったアマチュア選手が姿を消して、競技がプロ化・興行化したことは、いかに施設や建造物が美しく飾られようとも、「根本の精神の喪失」であった。だから、「オリンピアの尊厳」が低下した「この時代に多くのページを割く必要を認めない」という最終章には、「施設の完備と精神の喪失」というタイトルが冠せられるのである。

 著者は、オリンピア祭に情熱を傾けた古代ギリシア人の習慣やものの考え方に対し、一人の日本人として素朴な驚きを隠さない。それは率直だが、主体的な態度である。著者は、主観的な感想を随所に差しはさむ。オリンピアの聖なる休戦(エケケイリア)を全ギリシア世界に告げて回る休戦使節の任務は、「とにかくこれは相当に御苦労なことだったと思われる」し、4頭立て戦車競走で40人の御者のうち死ななかったのがただ1人という記録については、「たいへんなことである」と呆れている。
 不可解なことについては、「まったく合点がゆかない」「これまたどうもよくわからない」「私の手に負えない」と正直に述べる。ボクシングについては、「鼻血が出るのだけで不愉快である」とあからさまである。こうした主観的なコメントは、前述した著者の実証的な探究姿勢と少しも矛盾しない。
 著者は、パンクラティオンを「当麻蹶速(たいまのけはや)的種目」に喩えるなど、日本の古典を比較の参照軸として用いる一方で、「白日の下に全裸の男二人が組み合ってノタウチまわる風景というものは、われわれの眼には男性美の限界を越えたものを連想させる」と違和感を表す。しかし、「それは儒教、仏教、キリスト教と、さまざまの教えによって弱く育てられた私たちの神経のせいであろうか」と続ける。ここで著者は、異質な他者に対する自己の違和感を裏返し、逆に私たちが当たり前と思っているものの見方を相対化してみせるのである。
 このように見てくると、著者が歴史の父ヘロドトスと多くの点で似ていることに気づく。その共通点は、たんなる語り口の魅力にとどまらない。もう一人の歴史の父トゥキュディデス(ツキディデス)が、客観的な事実と判断したことのみを冷徹に綴り、自分自身をも三人称で描くのに対し、ヘロドトスの『歴史』には、しばしば探究者としての「自己」が 一人称で登場する。彼は、他人は知らず、自分が不思議だと思うこと、知りたいと思うことを、どこまでも探究する。そしてその成果を、思考の過程とともに披露する。複数の史料を比較検討し、その上でわからないことはすなおにわからないと述べる。「不思議なこと、驚嘆すべきこと(タウマスタ)」を解き明かし、語ることが、ヘロドトス生涯のテーマであった。
 だとすれば、前述した著者の姿勢とは、このヘロドトス的態度に他ならない。著者は、自分が不思議だと思う問題には、たとえ本筋を離れてでも探究の手をゆるめない。たとえば研究史上議論のつきない古代オリンピックの競技日程については、「大して重要問題とも思わないので」あっさりと「問題外とし」、その一方で、「私には重要でかつ興味深い供犠のことにまずページをさきたい」と述べる(第Ⅳ章)。脱線をいとわないことまで、ヘロドトスに似ている。
 遺跡めぐりの叙述にも見られるように、著者は「自己」の視点から語る姿勢を最後まで崩さない。歴史研究とは他の誰でもない自分が主体的に行う営みであり、現実を目の前にしてすなおに驚くことこそ歴史家に求められる資質であると、著者は教えてくれる。政権や王朝の正当化を目的とするのが東アジア的歴史記述の伝統であるのに対し、ポリス市民による個人としての主体的な探究が、ヘロドトスに始まるギリシア的歴史記述の伝統であ るとするならば、著者はまさしく後者を本書において体現したといえよう。
 反面、1964年の東京オリンピックに合わせて書かれたという事情は、本書の時代的限界をも示す。著者は、ペルシア戦争の終結(前479年)からペロポネソス戦争開始 (前431年)までの時代を、アマチュアリズムとフェアプレーの精神がもっともよく顕現した古代オリンピックの最盛期であり、それ以降は衰退期であると考える。これは著者に限らず、また古代オリンピックのみならず古代ギリシア史全般に関して、著者の世代まで内外の学界で共有されていた古典的な盛衰史観にもとづくものである。
 だがこの史観は、今日もはや通用しない。19世紀以来古代オリンピックについて語られてきたことの多くが、実は近代になって創造された新しい神話であり、むしろ近代的ナショナリズムを逆投影したものであることが指摘されて、すでに久しい。そもそもオリンピック憲章のアマチュア規定のようなものは、古代のどこにも存在しなかったし、逆にプロ化した選手は、著者の言う最盛期にもすでに存在していたのである。
 著者の世代には、ポリスを国民国家とのアナロジーでとらえる理解が残存していたが、 いまやこれは過去のものである。著者の歴史観に、近代の残影が色濃く残っていることは否定できない。
 とはいえ、こうした限界は、本書の魅力をいささかも減ずるものではない。本書は、国民国家がまだ主役であった東京オリンピックの時代を背景として書かれた。それを理解した上で、読者は著者とともにすなおに「驚き」ながら、古代世界を逍遥すればそれでよいのだと思う。

 私が村川先生に親しく言葉をかけていただくようになったのは、大学院修士課程に進学してからのことであった。以後ご逝去までの8年間、孫弟子として先生の謦咳に多少とも 接することができたのは、じつに幸福なことであった。
 先生の人間味あふれる文体は、その人格からにじみ出てくるものであって、他人が真似ようとして真似できるものではない。ご自身「人間好き」を自称され、世情のあらゆることに対する興味関心を最期まで失われなかった。それは、没後に出版された随想集『古典古代游記』(岩波書店)からも明らかであろう。日本学士院会員という肩書きとは裏腹に、気さくで話し好きなお人柄であった。
 先生は弟子を愛し、酒宴を愛し、植物を愛した。最初にオリンピアを訪ねた時、もっとも自分を喜ばせたのが「遺跡を埋めた野草の花」であった、という本書冒頭の美しい叙景には、先生の世界観が反映している。無類の凝り性であったという先生が、ご自宅の庭苔に注いだ愛情は、尋常一様のものではなかった。初めてお目にかかったときに見た先生の手は、庭仕事に丹精されていたせいか、学者とは思えぬほどごつごつしていた。爪先には黒土が見え、「農夫の手のようだ」とひそかに思ったことを覚えている。
 本書には、ギリシアの風土や植生についてのこまやかな観察があちこちに見られる。それは、「土」そのものに対する興味とともに、戦時中は晴耕雨読して食糧を自給しておられたという先生ご自身の、ある種の身体感覚に裏付けられている。「八月の地中海はふつうは濃紺の水をたたえた湖水のようで」(第Ⅳ章)とか、「満月の下、アルフェイオスが白く照り映えるほとりで、祖国の、友人の勝利をことほぐ人びとの酒盛りが夜ふけまでつづいた」(同)といった詩的な表現は、真に自然と人間への愛を知らなければ紡ぎ出せぬ言葉であると思う。晩年、自宅門前の由緒ある樟が切り倒されそうになったとき、地権者で ある某県知事に樟の助命嘆願書を送ってその何本かを救ったという先生の逸話は、そのことを如実に物語る。同時にそれは、先生の学問が、ヘロドトス以来の市民的言説の範疇に属することをも傍証していると言えよう。
 先生の思い出は時がたつほどにむしろ鮮やかによみがえり、いずれ別の機会に文章にまとめることができればとも願っている。なお、千葉県我孫子市にはかつての村川家別邸が、市指定文化財「旧村川別荘」として保存されており、「樟の助命嘆願書」のテクストをはじめ、堅固・堅太郎父子ゆかりの展示を目にできることも付言しておく。
 碩学が書いた上質で親しみやすい教養書というものは、今や希有な存在になりつつある。 その意味でも、本書がこの度ちくま学芸文庫として復刊されることを、大きな慶びとしたい。

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