問いつめられたおじさんの答え

第6回 どうして動物はしゃべらないの?

今回は、言語の謎について考えます。

 いや、動物もしゃべるでしょ。イルカとかクジラとか。オウムなんか人間の言葉でしゃべるし、今の動物学の学者にとって、動物がある程度の言語を持つというのは常識らしいよ。ゾウなんか「人間」に対応した単語まであるとか。もしかして「ぷぁぷぁお~」とか言うのかもしれないけど、それは人間にはわからないだけでね、実際は言葉をしゃべっている。人間にわかる言葉をしゃべれないのは、やっぱり体の構造がちがうからだね。
 人間以外の生き物は言葉をしゃべらない、感情を持たない、痛みも感じない、と考えている人が未だに多いのは、人間は動物を殺して食べるから。言葉をしゃべるぐらいの知能がある生き物を、狭いところに閉じ込めたり、虐待したり、殺して食べるのはさすがに気が引けるわけだね。魚に痛覚はない、痛みを感じないとかいう話がまことしやかに広まってた昔ならいざ知らず、今はもう大概の動物に言語があると考えたほうが間違いないと思うよ。イルカとかクジラだけじゃなくてね。

 ウチにネコがいるんだけど、誰もかまってくれないと、リビングの衝立の陰に隠れて、「にゃあ~にゃあ~」とか鳴く。それで嫁さんが「どうしたのぉ?」とか声をかけると、うれしそうにノコノコ出て来るんだけど、これなんかネコはなんて言ってるのかなぁ。というか、どんな気分でわざわざ衝立の陰に隠れて「にゃあ~にゃあ~」鳴いてるのかね。たぶん「ママ~ママ~」とか言って、探してもらいたがってるんだろうね。とにかく嫁さん依存が強すぎるネコなんで困りもの。
 そうそう、これだけペットブームになったのは、人間は牛や豚や鳥を好きなだけ食って来た罪悪感があるから、というか、その贖罪意識がペットブームの根底にあるのでは、という意見を言ったのは私です。まぁ、その程度の意見はもう誰か言ってたかもしれないけど。

 キミが言ってるのは、人間の言葉という意味だろうけど、さっきも言ったようにオウムは人間の言葉をしゃべるよね。それこそ「オウム返し」に言ってるんじゃなくて、ちゃんと意味はわかってるそうだよ。「そうだよ」とか言われると信じるしかないんだけど、専門知識って有無を言わせぬというか、独断専行というか、唯我独尊というか、反論できないところがあるから困る。言ってるその人だって、自分で直接実験したわけでも、見たわけでもない場合がほとんどだと思うけど。
 実は、今回のテーマが「どうして動物はしゃべらないの?」に決まってから、ちょっと前に買っていた『言葉を使う動物たち』(エヴァ・メイヤー著)という本を慌てて読んでるんだけど、なかなかおもしろいです。
 この前も言ったように、人は真実かどうかでじゃなくて、おもしろいと信じやすい。有名なエピソードで、この本の帯コピーにもあるんだけど、手話を覚えたゴリラは、自分の親を殺した密猟者のことを手話を使って説明することができるらしい。これはおもしろいというか、興味深いでしょ。どうかな、信じる気になってきたかな。とは言っても、別に信じなくてもいいんだけどね。

 ここで重要なのは、言葉にできるということは、言葉未満のイメージを動物たちも持っているということだよ。人間だって、言葉にする前段階のイメージはあるわけだけど、それってあくまで脳内の微弱な電流でしかない。なんか感じるけど、モヤっとしたもの。それがどうやって言葉に変換されるのか、ほんと不思議だよ。形のないものがいきなり形になる不思議さというか。マジシャンがハンカチにタバコの煙りを吹きかけると、ステッキになったりするマジックがあるでしょ。ほんとあんな感じ。
 30年以上前に、おじさんはそれと同じことをパソコンに感じたんだね。プログラムという言語をどうして機械が理解できるのか、言語と機械の間に、なんか不思議な飛躍というか、ミッシングリンクのようなものが横たわっているような気がした。今ではプログラムとパソコンの間を取り持つものがあるのを、なんとなくわかっている。だからパソコンにもう興味がなくなったのかもしれないね。

 なんかまた脱線しそうなんだけど、パソコンじゃなくて、AIだともう少しわかりやすいかな。最近よく聞くAIというのは、ディープラーニングとか、シンギュラリティとかで、すぐにでも実現されるみたいに言われてるけど、みんながイメージしているAIって、なかなかありえないと思うんだね。
 もちろん人間に勝てる将棋AIは可能です。だけど、それってAIじゃなくて、昔はエキスパートシステムとか呼ばれていたものの延長でしょ。AIだったら「勝つ」とか「負ける」ということの意味がわかってないと。勝つとちょっとボディに赤みがさしたり、負けると将棋盤ひっくり返したりするようにプログラムするとかじゃなくてね。ただ、投了になったときにお辞儀するAIは好きです。
 興味深かったのは、AI将棋同士で24時間対局させて、毎日ディープラーニングさせてたら、いつのまにか人間にはわからない言語を作ってコミュニケーションしてたっていうんだけど、アレはホントの話かね。もしホントだったら、おもしろい。開発者の人は慌ててAIのコンセント引っこ抜いたか、水ぶっかけたのかもしれないけど。あははは。
おじさんの持論として、AIは暴走したときにはじめてAIになれる、というのがあるんだね。勝手に言語を作ってAI同士で会話してたら、ようやくAIが誕生した瞬間だったろうに。水かけたりしちゃダメだろ。あはははは。

 とにかく言葉というか、言語というのは、大いなる謎なんだね。つまり、果たして絶対的なものなのか、ただの道具なのか。
 もちろん、生き物はみんなテレパシーができるんだったら、言葉なんていらなかったと思うよ。おじさんは、子どもの頃、なんで人間がテレパシーとか使えないのか不思議だったんだね。だって空を飛べる動物とか、水の中や土の中で平気で生きている生き物がいるのに、どうしてテレパシー使える動物はいないのか疑問だった。まぁ、テレパシーだけじゃなくて、テレポーテーションとかもね、宇宙人だったら使えるのかもしれないとか思ってたけど。
 たとえば「私にコーヒーをください」というのは言語ですよ。言語っていつもこういうふうに使われるんなら謎でもなんでもないけど、「あなたを愛してます」はどうかな。「愛」という言葉が問題だね。これだけ人によって解釈がちがう言葉もないし、「愛」ってなんだかわかんないでしょ。言葉のどん詰まりというか、行き止まり感がスゴイし。

 まぁ、哲学の世界でいうと、言語といえばウィトゲンシュタインなんですよ。この人は哲学界のアインシュタインみたいな存在なんだけど、哲学というよりは言語学の人なのかな。言語学というのは、言葉の数学みたいなもので、とにかく厳密で、言葉をまるで数式みたい扱う。ただ、言葉というのは不思議なもので、厳密であれば厳密なほどこぼれおちてしまうものがあるわけね。
 さっきの「あなたを愛してます」という言葉については、やはり「愛」というのが謎なので、もう少し「愛」を厳密に定義しないといけない。「愛」というのは、たとえば「好意を持っているという積極的な気持ち」であるとすると、今度は「好意」というのが抽象的なので、これも定義するとすれば、「ある人物を好ましく思うこと」だとする。なんか最初の「あなたを愛してます」から、微妙に遠くなってきたでしょ。
 厳密にすると、厳密になるのではなくて、なんかズレてくるような感じ。ただ、そういうふうに証明した過程というのは数式みたいに残るわけで、どんどん長くなっていく。これはもう「言葉を尽くす」という世界なんだね。
 たとえば軌道とか弾道の計算にしても、風力とか重力とか温度により誤差が出るので、新しい数字や変数を入れ直して再計算したりする。それでも絶対的ピンポイントの正解を得られるわけじゃなく、近似値なんじゃないかね。誤差をどれだけ少なくして近似を求めるか。これが数学というか科学の世界だとすると、言語というのもそうだと思う。とにかく言葉を尽くして近似を求める。つまり、この世界はやっぱり正解というか真実にはたどり着けない。

 ウィトゲンシュタインの一番有名な言葉として「語りえないことについては沈黙するしかない」というのがあるんだね。言語は社会で学ぶゲームのようなものなので、その言語で語れないことがあるとしたら、それはもう世界の外にあることだから言いようがないというか、言おうとしてもしょうがないみたいなことになる。
 じゃあもう真実ってないことにしようというのかというと、人間てそんなにあきらめのいい人ばっかりじゃないから、その世界の外にあるものを表現しようとする人はいる。それが音楽であったり、詩であったり、アートであると言ったら、言い過ぎだろうか。今の世の中じゃ言い過ぎかもしれないけど、音楽も詩もアートも、そのファースト・アイデンティティは「見たことも聞いたこともないもの」にある。それこそ今の世の中じゃむずかしいことだけどね。

 結論としては、言語では真実にたどり着けないということなんだけど、言葉なんかいらないコミュニケーションの仕方ってあるでしょ。人と動物の関係ってそれだと思う。だから、人間とペットって一番完璧な関係じゃないのかね。ただ可愛がるだけ、ただそばにいるだけ、ただ見ているだけって。その根底にあるのが「殺して食ってばかりいてごめんね」だったとしても、それはそれで美しいんじゃないだろうか。言葉にはしなくても。