弱き者が見殺しにされる国 -新型コロナウイルスの猛威の陰で-

第二十回 家なき人たちの居場所(1)

今回石井さんが訪れたのは、昨年十月の台風で増水し、河川敷で寝起きしていた人たちが住居を失ったことも記憶に新しい多摩川。現在もここで暮らしているホームレスの人たちは、どのような問題を抱えて路上にとどまっているのでしょうか。二人の男性にお話をうかがいました。

  第二十回 ホームレス(1)

 多摩川の河川敷には、コロナ禍の中でも変わらずホームレスが暮らしていた。昨年の大雨による氾濫の影響もあって、数年前と比べると人数こそ減っていたが、レンタサイクルに乗って詳しい人に案内してもらうと、河川敷ばかりでなく、近隣の公園の片隅にもその姿を見つけることができた。
 今回私を案内してくれたのは生活困窮者を支援する団体の元スタッフである谷明子だった。十年ほど前に取材をさせてもらった縁があって連絡をしたところ、快く地元を一緒に回ってくれたのだ。彼女はこれまで三つの支援団体に属し、東京と神奈川を中心に二十年ほど活動をつづけてきた。現在は親の介護で支援団体から距離を置いているが、コロナ禍を受けて、友人とともに三回にわたって見回り活動を行ったそうだ。
 谷は言う。
「去年の大雨の影響があるので正確なことはわかりませんが、コロナ禍でホームレスの数が増えたというのはあまりないと思います。おそらくコロナ禍で家を失っても、しばらくはネットカフェにいたり、都心をフラフラしたりするので、川べりにまではやってこないのでしょう。また、こちらに来ても、数日してまた別のところへ移動することが多いのです」
 谷によれば、ホームレスになったばかりの人は大抵、すぐにその現実を受け入れられずに、身を隠すように都心を転々としていることの方が多いらしい。だが、そうした期間が長くつづくにつれ、社会復帰への思いがすり減り、諦めたように河川敷にやってきてビニールハウスや木材で住居をつくって定住するようになる。
「コロナ禍で家を失っている人は少なからずいるはずです。ただ、今の時期は都心に紛れていたり、支援にギリギリつながっていたりしていて、実際に川辺で暮らすようになるのは半年先、一年先、あるいはもうちょっと先ということになると思います」
 とはいえ、すでに河川敷でホームレスとして生活している人々のもとにも、コロナ禍は確実に押し寄せてきているという。
 最初にその打撃を受けたのが仕事だ。たとえば彼らの仕事の一つにアルミの廃品回収がある。空き缶などアルミ類の廃棄物を集めてリサイクル用として売るのだ。通常の買い取り価格は、一キロ当たり約百円が相場だ。一日に十キロのアルミを集めることができれば、お弁当二つと発泡酒一本分くらいにはなる。
 緊急事態宣言が出た後も、業者は廃棄物の買い取りを継続していた。だが、キロ当たりの買い取り価格が八十円以下にまで下がったのに加えて、町から人が減ったことで廃品の数が少なくなった。これによって、廃品回収を行うホームレスの収入が大幅に減ってしまった。
 また、ホームレスの中には各地で行われる炊き出しで日々の食事を確保している人々もいる。ほとんどの支援団体は他の団体と被らないように曜日ごとに炊き出しの日を決めている。そこで彼らは月曜日はA教会、水曜日はB団体、金曜日はC寺といったように回ることで、空腹を満たしているのだ。だが、緊急事態宣言によって、そうした炊き出しが休止、あるいは不定期開催になったことで、必要な栄養を摂る手段を失ってしまった。
 谷はつづける。
「今回のことがあって、ホームレスの人たちに改築した空き家などを住居として公的に提供するべきだという意見が出てきています。実際に海外では『ハウジングファースト』といって、住まいを提供して精神や生活を安定させた上で、困難を抱えた人の社会復帰を支援するという動きが出てきています。
 ただ、日本で長年ホームレスをつづけている人は、すでに社会との接点を絶って生きることを決めている人たちもいます。『家がない方が楽』とか『誰ともかかわらない方がいい』と考えて、こちらが提供してもなかなか福祉につながろうとしない。その背景には複雑な過去があって一筋縄じゃいかないので、私たちとしては彼らが考え方を変えるのを待つしかありません。そこが接していて難しいところです」
 では、ホームレスたちはどのような問題を抱えて、コロナ禍でも路上に留まっているのか。
 谷に二人のホームレスを紹介してもらった。彼らの事情について触れていきたい。

・五十嵐勉
 戦時中に、九州の農家で勉は生まれた。兄や姉がいたようだが、年齢が一回り離れていて、ほとんど一緒に過ごした記憶がないという。終戦後しばらくして父親が戦地から帰ってきたが、戦争のトラウマからか、毎日酒を浴びるように飲んでは家庭内暴力を振るうという生活がつづいた。
 荒んだ家庭環境に我慢ならなくなり、勉は十四歳で家を飛び出して大阪へと渡った。繁華街で日雇いの仕事をしているうちに、知り合った人間に誘われて暴力団に加入。若かったこともあって、組内では使い勝手のいい鉄砲玉のように扱われたようだ。十代で二度少年院に入った後、二十代半ばで重大事件を起こして十年ほどの懲役刑を受ける。四十近くになって出所した時には、すでに組は解散してなくなっていた。
 大阪の街でブラブラしていたところ、かつて兄貴分だった男に声を掛けられてビジネスをはじめた。だが、その男は最初から勉をだますつもりだったらしく、多額の借金を押し付けて消えてしまった。一生働いても返すことができないほどの額だったという。
 勉は二進も三進もいかなくなり、大阪を逃げ出して東京を中心とした首都圏の町を転々としながら日雇いの仕事で暮らしをつないだ。だが、そういう世界の人間関係は意外に狭く、数年のうちに借金取りに見つかったり、かつての暴力団仲間に言いがかりをつけられて金をたかられたりした。
 五十代の時、勉は塗装の仕事をしている最中に事故で怪我をして体が不自由になった。これを機に、彼はホームレスとして生きるようになった。支援団体から何度も生活保護の受給を勧められたが、すべて断ってきた。
 勉はその理由を次のように述べる。
「何度か山谷や寿町のドヤで暮らしたことがあるんだけど、必ず昔の知り合いに出くわして嫌な目にあったんだよ。昔のことを持ち出されて金を出せってゆすられたりする。だから、そういうところの施設で暮らすのは絶対に嫌なんだ。もう、俺のことを一切知らない人間の中で暮らしたいんだ」
 勉はかつて何をしでかしたかを詳しく語ろうとしないが、暴力団組員として相当な恨みを買っているとか、方々で金のトラブルを起こしてきたとか、大っぴらには言えないことをしてきたと思われる。だからこそ、どこへ行っても足を引っ張られてしまい、真っ当に生きようとしても生きることができなかった。彼が多摩川の河川敷を終の棲家として選んだのは、そうした過去の自分を完全に捨て去るためだったのだろう。

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