地方メディアの逆襲

秋田魁新報編③ 地方紙の「使命」とは何か

地方にいるからこそ、見えてくるものがある。東京に集中する大手メディアには見過ごされがちな、それぞれの問題を丹念に取材する地方紙、地方テレビ局。彼らはどのような信念と視点を持ってニュースを追いかけるのか? 報道の現場と人を各地に訪ね歩く「地方メディアの逆襲」。第1部では、イージス・アショア配備計画を追い続けた秋田魁(さきがけ)新報を3回に渡って取り上げます。

今も息づく「蹈正勿懼」の精神
 「蹈正勿懼」。せいんでおそるるなかれ、と読む。1874(明治7)年、「遐邇かじ新聞」の名で創刊し、今年で146年。日本の日刊紙で屈指の歴史を持つ秋田魁新報が、現在の紙名になった明治20年代から掲げる社是である。
 「秋田県知事や県庁に対するわれわれのスタンスも、その言葉に尽きます。斟酌するところは一切ありません」と、泉一志・統合編集本部長は断言する。
 地方紙というのは地元の行政機関と持ちつ持たれつ、一蓮托生であり、本質的な批判はできない。知事をはじめ地域の権力者に対しては筆が鈍り、ひどい時には癒着する──そんな指摘がよくあるが、と私が尋ねたことに対する答えである。

泉一志統合編集本部長

 秋田魁は、1889(明治22)年に当時の知事を批判して発行停止処分を受けている。正確に言えば、遐邇新聞から改題した「秋田新報」が発行停止となって廃刊し、同じ会社が後継紙として即座に立ち上げたのが秋田魁新報である。昭和初期には、軍医の不祥事を報じた記事の取り消しを軍部から求められ、これを拒否して激しく対立した。一方、昭和の末期には、関連会社が経営するゴルフ場の改修工事を秋田県に施工させるという、まさに地元行政との癒着による不祥事があった。だが、それを機に古い体質と経営陣は一掃され、90年代には食糧費問題、2000年代には空港ターミナルビルをめぐる接待問題で、知事と県政を厳しく追及するキャンペーンを展開した。
 そんな自社の歩みをざっと説明すると、泉は「入社すると必ず教えられる『蹈正勿懼』の精神が、秋田魁の伝統を作ってきたのでしょう」と言った。聞けば、1992年の入社。その前に数年間、別の仕事をしていたというが、地方紙の記者になったのは私と同じ年、つまり「同期」である。私自身は凡庸な記者で、14年でドロップアウトしたが、同期の記者が今、社を代表して報道姿勢を語っていることに不思議な感慨を覚えた。
  イージス・アショア報道を牽引したキャップの松川敦志に初めて会ったのは、同紙取材班が日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受けた2019年8月、東京で行われた表彰式でのことだ。受賞スピーチで松川は、一連の報道で意識した点を三つ挙げた。一点目が「地元の首長、特に秋田県知事と秋田市長に住民の思いを体現した行動をさせること」だった。
 過去2回の記事で述べた通り、佐竹敬久知事は配備計画の浮上から1年半ほど、態度を明らかにしなかった。「防衛は国の専権事項であり、新屋演習場は国有地。県としてどうこう言えない」と繰り返し語っており、受け入れやむなし──その見返りに交付金や経済振興策を国から引き出す──の姿勢にも映った。これに対し、地域住民の不安や計画そのものへの疑問を突き付け、知事の言動を逐一報じることで、報道の使命とされる「権力チェック」を行ってきたのである。
 「秋田から見れば防衛省ははるか遠く、日常的に取材できる対象ではありません。私たちにできるのは、地元住民と同じ目線に立って報道し、その意志に沿った行動を地元の首長にさせることでした。要するに、簡単にOKするな、自分たちが見ているぞ、ということです」
 佐竹知事は19年6月の「ずさんデータ」報道を機に、防衛省への不信をはっきり語るようになった。新屋を「適地」とした調査報告書を自ら精読し、松川ら取材班が指摘したのとはまた別の誤りや問題点を見つけ出しもした。同様に動きの鈍かった県内の市町村議会も、報道以降、配備反対の請願や陳情を次々と決議し、今年2月には、自民党秋田県連が「新屋配備には無理がある」と政府に伝えるに至った。背景には、報道から約1カ月後の参院選で、配備反対を前面に打ち出した野党統一候補の新人が、自民現職を破った衝撃もあっただろう。
 松川たちが、先達が築いてきた社の伝統を特に意識したわけではない。しかし、地元行政や政治家を動かし、最終的に国に計画を断念させた報道は、秋田魁に「蹈正勿懼」の精神が今も確かに息づいていることを見事に証明してみせた。

地域をつぶさに、後世のために記録する
 松川がスピーチで述べた二点目は、「後世の検証に耐えられるよう、地元で起こったことをすべて、つぶさに記録する」ということだ。突然降ってわいたイージス・アショアという“劇物”は、役所や議会だけでなく、地域にさまざまな波紋を広げた。どのような結果になっても、数十年後あるいは100年後、地元紙が何をどう報じたかは必ず参照されるだろう。
 全国紙の報道で配備計画が浮上した時、松川の脳裏に、以前取材したある光景がよみがえった。その約8カ月前、17 年3月に男鹿市であった政府主催の弾道ミサイル避難訓練である。北朝鮮が発射実験を繰り返す中、「全国初」の触れ込みで行われた訓練はなんとも奇妙なもので、うまく消化できないまま、頭の片隅にわだかまっていた。

JCJ賞授賞式でスピーチする松川記者

 公民館の前に高齢者が40人ほど集められ、まず県職員から説明を受ける。避難訓練の予行演習をするという。めいめいに落ち葉拾いや草刈りをしているところへ、防災行政無線が「ミサイル発射情報」を告げる。数分後、「屋内に避難してください」のアナウンスで一斉に公民館へ歩く──。これを一度通し、30分後に本番があった。県職員が「配置についてください」と指示すると、まもなくスピーカーから不気味な音が流れる。Jアラート(全国瞬時警報システム)が、他国の武力攻撃が迫ったことを知らせる「国民保護サイレン」。全国で初めて鳴り響いたその音の中で、高齢者たちはきまじめに“避難役”を演じ、訓練はシナリオ通り粛々と終わった。
 「非常に奇異な茶番劇でした。これは何だろう、どんな意図があり、なぜ秋田なのかと引っ掛かり、識者や政府関係者にも取材して、長文の記事を書きましたが、結局よくわからなかった。イージス・アショアの話が出てきた時に、そうか、これだったのかと話がつながったんです」
 取材が本格化し、長期連載『盾は何を守るのか』を展開していた19年3月には、新屋演習場に近い秋田公立美術大学の卒業式で、ある「事件」が起こった。
 卒業生代表が謝辞でイージス・アショアに触れるらしいと事前に情報をつかんだ。ところが当日、後輩記者が取材に行くと、何も言わなかった。理由を聞けば、大学事務局に文言を削除するよう求められたという。配備の賛否を述べたものではない。「今、こんな問題が起きているが、私たちが暮らし、学んだ新屋が今後も平和な地域であってほしい」という、ごく穏当な内容だ。それを大学職員が「政治的発言」だと忖度したのか、控えさせたのだった。これは検閲だ、大変な問題だぞ──松川たちはそう判断し、大きく記事にした。ネットに上げると、全国から大きな反響があった。
 その記事で卒業生代表は「身近な地域の問題なのに、学生の間では話題にならない。関心がないのか、タブー視しているのか、そんな状況に違和感があった」と語り、削除させられたことに「やるせない」と漏らしている。大学側は「削除要請の意図はなかった」と釈明したが、後に学長──文部科学省からの天下りだった──が謝罪した。
 男鹿での奇妙な避難訓練には海外メディアを含めて約20社が集まったが、多くは一過性の話題ものとして扱うだけだった。秋田公立美大の件は、秋田魁が報じなければ表に出ることはなかっただろう。全国メディアから見れば一つ一つの「点」でしかない出来事も、地元紙から見れば底流でつながっている。地域という現場に立脚し、そこで暮らす人びとに目を凝らしているからこそ、得られる視点や発掘できるニュースがあるのだ。
 スピーチの三点目は、前回詳述した「この計画の真の目的は何かを探ること」だった。
アメリカ政府の意図が強く働いたことは先述した。では、なぜ秋田と山口なのか。連載では、北朝鮮を起点として二つの配備候補地を直線(弾道ミサイルの最短経路)で結んだ時、秋田の延長線上にはハワイ、山口の先にはグァムと、それぞれ米軍の重要拠点があることを指摘した。そこにイージス・アショアを配備し、「盾」の役割を果たさせる、というわけだ。
 さらに、ではなぜ新屋演習場なのか。私の問いに、松川は「そこは全国紙の記者に、官邸や防衛省の決定過程を明らかにしてほしいところですが……」と言いつつ、一つの推論を述べた。
 「陸自に常時任務を与える目的だったのではないか、と。空自や海自は平時から具体的な任務がありますが、陸自にはない。災害派遣という任務はありますが、あくまで副次的なもので、基本的にはずっと訓練をしている組織です。だから、秋田も山口も陸自の演習場が候補地になったのでしょう」
 もしもその見立てが正しければ、徹頭徹尾、政府内の事情と論理で話が進み、住宅街に隣接していることなど一顧だにされなかったことになる。だからこそ、住民を軽視した辻褄合わせのためだけのずさんな報告書が作られた。そう考えれば、問題の背景は説明できる。

地方取材網の深刻な衰退
 もう一つ、気になることがある。イージス・アショア配備問題の報道が、なぜ秋田魁の「独走」になったのかということだ。秋田の側に視点を置いて追うメディアは他になかったのか。だとしたら、それはなぜなのか。
 地方紙と全国紙、両方の現場を知る松川は、かなり率直に、興味深い話をした。
 「まず根本的な問題として、全国紙の、特に若い記者の目は東京を向いています。地方に勤務していても、どうやって東京本社の社会部や政治部に上がるかを常に考えている。異動は2~3年単位なので、地方で一つの問題をとことん追いかけて、心中するぐらいのつもりでやる記者がいない。それよりも早く東京へ行って、注目度の高い取材対象やニュースを追いかけたいと思っている」
 全国メディアの多くの記者にとって、地方勤務は短期間の通過点に過ぎない。それは私も、神戸や大阪で出会ってきた記者たちを思い起こせばわかる。ただ、その心情は理解できると松川は言う。彼自身、秋田魁から朝日新聞に移る際、「よし、勝負してやろう」と奮い立った経験がある。あらゆる権限と機能が東京に集中し、社の方針や人事もそこで決まるなら、中枢に近いところで仕事をしたいと考えるのは、記者という職業に限らないだろう。
 しかし、希望の部署に行くには、地方でそれなりの実績を上げる必要があるのでは? そう問うと、松川の表情が曇った。今、全国紙の地方取材網が極端に衰えているのだという。
 「僕が若手だった1990年代後半から2000年代初め頃は、全国紙やNHKは秋田県内に15人前後の記者を置いていました。それが今や7、8人。半減です。もっと少ない社もある。県内の支局もどんどん閉鎖されていく。そうすると、日々の秋田県版を埋める作業で手一杯になってしまうんですね。
 今回のように大きな話があっても、知事や防衛大臣の動きなど最低限のフォローはするけど、この問題に集中できるような体制に、そもそもなっていない。だから、かつてのように、地元紙に抜かれたら抜き返すみたいなことが起こらない。競争にならないんですよ」
 同じような話は関西にいても聞こえてくる。支局を廃止・統合した、記者の数を減らした、泊まり勤務をなくした……。人口の少ない県や地域ほど顕著だろう。その一方、ネット対応で速報が重視され、原稿だけでなく、写真や動画も撮影・編集するよう言われる。しかも、ページビューを稼ぐ、いわゆる「バズる」記事を求められる。取材体制を縮小する一方で個々人の仕事量が増えると、記者が考えるのは「いかに効率よく仕事をこなすか」ということになる。
 「県庁や県警の記者クラブに詰めて、発表資料や定例会見をもとに県版を埋めるのが第一になると、当局を批判して関係を悪くすることを避けるようになります。イージス・アショアの件に限らない。たとえば、今年の参院選絡みでうちが書いた知事批判の記事があったんですが、他社はどこも追いかけてこない。秋田公立美大の検閲も大問題だと思うんですが、だいぶん遅れて朝日がまとめ記事でちょっと触れただけでした。でも、彼らはそれでもいいんです。新聞社の採用人数が減っているので、よほどのことがない限り、いずれ本社には上がれるんですよ」
 大過なく任期を過ごせば本社に行けるのだから、地元紙とわざわざ張り合う必要はない。独自取材をする余裕はないから、抜かれても放っておけばいい。そんなふうに考える記者やデスクが増えているということだろうか。
 地方紙にとって、「自社の報道を全国メディアが追いかけるか否か」はきわめて重要だ。全国に通じる問題を発掘しても、広く伝わらなければ、県内の話で終わってしまう。ひどい時には、批判や指摘を受けた当局や政治家が、「地元紙しか報じないということは、大きな問題ではない」と無視を決め込む。つまり、「なかったこと」にしてしまう。そういう事例を私も知っている。
 秋田魁の「ずさんデータ」報道は、毎日新聞が一面トップで追いかけたことで全国ニュースになった。「あれがなければ、今のような展開にならなかったかもしれない」と泉や松川は毎日の判断に感謝する。近年はネットのニュースサイトに転載されて、地域のニュースが広まることも増えたが、複数の報道機関が取り上げる影響は計り知れない。
 地方取材網の縮小や地方発ニュースの軽視は、新聞社の経営・編集方針の反映である。現場の記者の動き方も、それに合わせて変わってきた。東京を向かざるを得ない事情も、ある程度は理解できる。だが、じっくり取材して読ませる記事を書こう、特ダネを取って他社を出し抜いてやろう……かつて記者たちを突き動かしていた職業的情熱のようなものが、今は感じられない。残念そうに語る松川の言葉に、私も頷かざるを得ない。

「うちが報じなければ、秋田のことが伝わらない」
 泉や松川が記者になった1990年代は、地方分権改革が議論され、「地方の時代」「地域主権」などと盛んに言われた。私も地方紙にいて、そんな潮流に希望を感じ、連載をしたこともある。しかし、現実はどうだったか。人口や企業の東京一極集中は止まるどころか、ますます加速し、ニュースなどの情報から人びとの価値観まで、「東京目線」が強まる一方だ。
 イージス・アショアというミサイル発射基地を、上から地方に押しつけようとした政府の姿勢、それを特に問題視することのなかった全国メディアの鈍感さは、その表れではなかったか。
 ノンフィクション作家の柳田邦男が秋田魁のインタビューに語っている。
 「イージス・アショアの配備問題に対し、東京にいる記者は、秋田の方に場所を決めるそうだとか、どこかに置くのはやむを得ないとか、そういう感覚だったと思うんですよ。だけど、秋田魁は違った。
 地元の住民の立場に立って、なぜ秋田なのかというところから出発した。そういう視点に立つことはできそうで、できないんですよ。問題意識の立て方が地方紙ならではだった。さらに加えて徹底的な調査報道の姿勢を貫いた。大事なポイントです。地元だから、できたという単純なものではない。いざというときに、研ぎ澄まされた感覚と執念で多角的に取材する体制ができていたのです」

秋田魁新報社

 連載第一回で、取材の「エンジンがかかった」場面を語る泉の言葉を引いた。彼が「記者の原点を再確認した」背景には、SNSやネットニュースに押され、新聞が読まれなくなっている危機感があったという。どうすれば存在意義を示せるか。新聞だからできることは何か。地元紙の果たす役割とは──。編集現場をまとめる立場で頭を悩ませていた時、自社の記事を手に講演を聞く人たちの姿を見た。「新聞が頼られている」と、泉は感じたのだという。
 泉と松川、二人に共通するのは、「秋田魁が報じなければ、秋田のことが世の中に伝わらなくなってしまう」という思いだ。焦りにも似た使命感。そう表現してもいいかもしれない。
          ◇         ◇         ◇        
 
 新屋演習場の周辺を見て回る車の中で、ハンドルを握る松川がぽつりと漏らした思い出話が、強く印象に残っている。彼が秋田魁を離れ、朝日新聞に移ることになった時の話だ。
 当時、入社7年目。社会部の県政担当だった松川は、秋田県庁の記者室で泉と二人、机を並べていた。最後の勤務となった日、「松ちゃん、ちょっといいか」と外へ連れ出された。車で向かった先は、市の外れにある知的障害者の入所施設。二人で施設内を見学した後、泉が言った。
 「地域の中には、こうして日の当たらない場所で、懸命に生きている人たちがいる。朝日に行っても忘れないでくれ」
 その日のことを覚えているかと、私は泉に尋ねた。懐かしそうに微笑み、彼は言った。
「あの頃は、地方紙の腕のいい若手記者を全国紙が即戦力として引き抜く動きが盛んでした。松川もそれで見込まれ、朝日に行くことになった。記者であれば、大きなニュースのある場所でやりたいと思うのは当然で、彼の選択も理解できます。けれども、私とすれば、若い彼にまだまだ教えていないことがある。お前なんかが見たこともない世界がここにあるんだぞ、と伝えたかったんです。手土産のつもりでね」
 十数年を経て、松川は縁あって秋田魁に戻り、若い記者を育てる立場となった。全国の地方紙に目を通し、気になる連載や書き手がいれば若手に読ませる。時には直接話を聞く場を設ける。各地にいる仲間から、何かを学び取ってほしいと願う。
 新聞に何ができるか。地方紙の使命とは何か──。考える時、あの日、泉に送られた言葉がいつもよみがえる。
(おわり、次回は「琉球新報「ファクトチェック」報道 編」、8月24日公開予定)